ずるっ!…と自分は両足を引っ張られました。
引っ張っている奴の方を見ようとしましたが、なぜかそっちを向くことができません。
見えない奴にどんどん引っ張られていきます。草っ原は斜面のようになっているらしく、自分は上に引きずられていくのです。
自分は声をあげて抵抗しようとするのですが、しゅうしゅうと変な音がするだけでなぜか声が出ません。
いちばん上まで来たらしく、いったん自分の体が止まります。
ごうごうと水の流れる音がします。川か用水路か、とにかく水の音です。
男の声でなにか言っているらしいのが聞こえますが、よく聞き取れません。
最後の「よし」という声だけは聞き取れたと思った瞬間に、腹のあたりを蹴られて自分は斜面を転がり落ちていきました。
顔の辺りはやっぱり見えないのですが、そいつが右手で自分の方を指さしているのだけは見えました。
「あっ」と思ったときには目が覚めました。
ずるっ!
目を覚ましたはずなのに、また両足を引っ張られる感触がありました。
おどろいた自分は思わず「うわ」という声を出してしまいました。
あわてて跳ね起きましたが、なにもいません。
でも、生臭いというか、なにか魚の腐ったような嫌な臭いがしていました。
ごぼごぼ…という配管のような音も聞こえます。
もちろん、頭に浮かぶのは店長の最期の姿でした。
しかし、「おかしいなあ。水道が壊れているのかあ」とわざとに大きな声を出して、自分は気づかないふりをしました。
ふだんから幽霊なんてばかばかしいものは、自分は信じていなかったのですが、あのときばかりはどうしても店長のことが頭に浮かんでしまい、嫌な感じがして仕方ありませんでした。
夢に決まっています。自分はまだ寝ぼけていたんだ、そう思うことにしました。
その後、金もまともな住所もない自分は、あの日の行いをずっと自分の胸のなかにしまったまま、ネットカフェで寝たり、公園で野宿をしたりしながらフラフラしていました。
あのときに逃げたりせずおとなしく警察につかまっておけば、どんなによかったでしょう。
自分はもう、外を歩くのも恐ろしいし、屋内にいるのも恐ろしくなっていました。
どこにいても店長がいろいろなものに姿を変えていつも自分を監視しています。
どんなに場所を変えても、ごぼごぼごぼ…という古い水道管のような音がつきまとってろくに寝られません。
どこに行っても生臭い。町中の川や用水路などはもう見るのも御免です。
外を歩いていると、姿の見えないカラスが自分のまわりで羽ばたき、「カアッ!」と鳴いています。
視界の端に、首に裂け目があって頭が変な角度にカクカクした奴が歩いていることも一度や二度ではありません。
肉屋や魚屋を見るのも、もう無理です。
ことに店頭で、まだ生きている魚がまだ跳ねているのにとどめを刺して魚の身をおろすのなどは、視覚も嗅覚も、五感全部であの夜のことを思い出してしまってとても見てはおられません。
自分の生活はなにもかも変わり果ててしまったのです。
自分は精神的に病気になってしまったのかもしれません。
医者にでもかかることができれば良いのですが、保険証を使うわけにも行きません。
住所不定の逃亡犯である自分に、保険証なしで高額な病院代を払えるわけもありません。
結局、小銭で買った酒をあおって自分を誤魔化すくらいありませんでした。
続く…