もしもその人物がバーの常連客ならば、きっと頻繁に足を運んでいるはずであり、店員や常連客からうわさを聞くこともできるだろうし、そのうちに本人があらわれることもあるだろう、と考えたからです。私は二十三区から少し離れた学生街に住んでおり、問題のバーは、私がよく足を運ぶ隣の駅から出てすぐの、目立たない、雑居ビルの二階に入っていました。
バーの看板には往年の映画からとったと思しき店の名前がついており、窓から垣間見える店内も渋い感じで、当時の自分のような若輩者が常連客の紹介もなく突然入店するには気後れしてしまうような店でした。
それでも強いてドアを開いて入ってみると、八人くらい座れるL字型のカウンターに、四人がけの小さなテーブル席が二つついた、こじんまりとしたバーでした。棚にはウイスキーがたくさん並んでいます。
カウンターの中から「いらっしゃい」と声をかけてくれたのは、三十歳くらいの綺麗な女性でした。お店の外観から渋くて頑固なオジサマのマスターを想像していたので、少々意外でした。
まだ早い時間だったからか、店内に先客はおらず、私一人でした。女性がにこりとして声をかけてきます。
「タナカさん、いつもの?」
初めて店に入ったのにもかかわらず投げかけられた、「いつもの?」という問いかけに私はぎょっとしました。よほど妙な表情をしていたのでしょう。女性は心配そうにことばを重ねました。
「どうしたの?」
「あ、いえ。あの、どうしてぼくの名前を…?」
「どうしてって。ちょっと大丈夫?いつも来てくれてるでしょう?」
「え、あれ…」
現実にあまりにもわけのわからないことが起こると、どうも人間、思うように声が出ないようです。店員の女性が言うには、私は毎週のようにこの店に来て、ラム酒を飲みながら、難しそうな哲学の本を広げている、と。確かに、そのころの私はラム酒ばかりを飲んでいましたし、大学での専攻も哲学でした。女性(ミヤビさんというらしいことがわかりました)は私が沿線の大学に通う学生だということも言い当てました。しどろもどろになって、ぼくはなぜかミヤビさんに話を合わせようとしていました。
「あ、あの…何か最近飲みすぎてて覚えてないっていうか…」
「そう?若いからってあんまり飲み過ぎちゃ駄目だよ。お水要る?」
「あ、どうも…」
その後、私は申し訳程度に酒を注文してから、なにかいい加減なことを言って会計を済ませるとその場を立ち去りました。私が店のドアを開けて外に出たところで、一階からこちらに上ってくる人がいます。ちょうど入れ違いでお客さんが来たのでしょう。人がすれ違うのも難しい、狭い階段でしたから、私はその人が上り切るのを待っていました。
ところが、その人物が奇妙なのです。
それはジャケット姿の男性客でした。しかし、明らかにサラリーマンではありません。黒っぽいジャケットにデニム履きで、黒縁の丸メガネ、口元がひげに覆われてはいるものの、どうやら年はまだ若く、勤め人というよりは書生といった風情。オールバックに固めた髪はそろそろ床屋に行ったほうが良い長さで、片手にはまるで辞書のような厚さの、緑の表紙の洋書(”Kritik der reinen Vernunft” と書かれているのが後で近づいて来たときに見えました。私も当時大学の授業で読んでいた、カントの哲学書です)が握られています。おまけに、足元は下駄履きでした。これが噂の男に違いありません…。
かん、かん、かん、かん…とその男が、階段の上でわなわなと震えている私の姿に気づくことなく上がって来ます。
ふと、うつむいていた男の顔がようやくこちらを見上げたのですが、その瞬間、私の恐怖はほっと安堵に変わりました。男の顔は、私の顔とは似ても似つかないものだったのです。
私も毎日鏡を覗き込むような整った顔立ちでもありませんが、向こうの人とは鼻筋や顎のあたりの形がまるで違いました。背格好や服装は確かによく似ているものの、あれは明らかに私ではありません。当然ですが。
あまりにもまじまじと彼の顔を見ていたのでしょう。
「どうかしましたか。ああ、通れないのか」
と男は寝起きのような不機嫌そうな声でぼそっと言うと、私の横を「失礼」と言って通り過ぎていきました。私は下駄で降りづらい階段をそれでも駆けて行き、一人暮らしをしていたアパートに逃げ帰りました。
翌日、頭を冷やした私はまた例の店に行ってみる気になりました。
それは第一にあの私とそっくりな背格好の男に興味を持ったからでした。確かに私とほとんど同じような服装や髪型をしているけれども、確かに別人だとわかったいまとなっては、意外と好みが合う良い友人になれるかもしれない、と思いました。カントの哲学書を、それもドイツ語の原書で持ち歩いている、というのも気になりました。どこかの哲学科の学生さんだろうか。しかし、ウチの大学や大学院であの人は見たことがない。どこの大学の人だろう…と思っていました。
また、私とそっくりな人物が別人であることが確認できたとはいえ、ミヤビさんがどうして私の名前を知っていたのかについては、後になって考えてみても謎のまま残っているのでした。
新しい友人を見つけ、ミヤビさんがなぜ私を知っていたかという謎を解消するため、私は再びその店にやって来たのでした。
「いらっしゃ…あ、タナカさん」
「こんばんは」
「昨日はどうしたんですか、出て行ってすぐ戻ってくるんだもの」
背筋がぞくりとしました。
「え…ああ、ちがいますよ。昨日確かに私と同じような格好の人があの後もうひとり入って行きましたけれども、それは別の方で…ぼくも本当にびっくりしたんですよ。自分にそっくりな方っているものなんですね。他人の空似っていうんですか。昨日も言いましたけど、ぼくは、ここ昨日が初めてですよ」
なぜか、弁解じみたことばを、自分でもそれとわかるほどの早口でまくし立てている自分がいました。ミヤビさんは虫歯が染みて痛みが走っているのを我慢しているような、妙な表情で私のことを見ていました。黙って座っているのも何だったので、私はとりあえず注文をしました。
「ロンサカパをロックでお願いします」
ラム酒の香気が鼻腔を抜けて、甘味、つづいて強いアルコールが臓腑に流れ込んで行く感じがして、私はほうっと息をつきました。
…がちゃん。
次の瞬間、丸氷とグラスがいっぺんに床で粉々になっていました。正面の鏡を見た私の手から、受け取ったばかりのグラスがすり抜けて行ったのでした。鏡に見ているものを信じられない私の手から。
カウンターの向こうには、ミヤビさんの背後に棚があって、たくさんの酒瓶が並べられていました。ほかのバーでもよく見かけると思うのですが、その棚が作りつけられている壁面は鏡になっています。見習いのバーテンダーさんが、シェイカーを振るフォームを確認していたりする、あの鏡です。
私の正面にある鏡には、当然ながら私の姿が映っていました。しかし、その顔は私のものではなく、昨日階段ですれ違った男のそれだったのです。
「顔色が悪い」と心配してくれるミヤビさんに挨拶もそこそこに、私は再びアパートに逃げ帰りました。
翌朝。
悪い夢を見た、と思ってベットから起き出して、部屋の洗面所で恐る恐る鏡を見てみましたが、顔は元に戻ってはいませんでした。
団子鼻で丸顔の見慣れない顔が私を見つめ返していました。しかしその後、誰に会っても、相手はまったく違和感を覚えている様子がありません。まるでこれがもともと私の顔だったとでも言うように。
すぐ後の夏休み、実家に帰省したときに会った家族や親戚にも、何も言われることはありませんでした。実家にあった卒業アルバムも、家族写真も何もかも、全部、全部…あの顔にすり替わっていました。
当時、大学進学前に交際を始めた人と遠距離恋愛をしていたので、実家に帰省した後に、すがるような気持ちで彼女に会いに行きました。あの人にだけはわかってもらえるのではないか。そう思っていました。しかし、無駄でした。
「もうひとりの自分に遭遇してしまうと死ぬ」
確かにこれまでの私は、ある意味では死にました。そして、たぶん、彼も死んだのです。互いに一体となることで、私は顔を失い、彼は自我を失いました。
こうして自分の顔を失った私は、心に穴が空いていきました。もしかして、何かの拍子に自分の精神が変調をきたしてしまったのか、と思い、心療内科や精神科にも通院しました。
「他人の顔が区別できないという症状はたまにあるんですが、自分の顔がわからなくなるというのは珍しいですねえ…」
と、さして興味なさそうな口調で言い、主治医は高価なのに効き目のない抗うつ薬を毎月処方するばかり。医者には黙って、途中で通院をやめました。
あの男とは、階段ですれ違ったあの日以来会っていません。それに、私の顔が失われたあの日から、「タナカに会った」と知人に聞かされるドッペルゲンガー現象はぱたりと止みました。あれはいったい何だったのでしょうか。
どなたか、似たような経験をしたことがある方がいたら、助けてください。