1:なうなう@うんこなうρ ★:2011/07/23(土) 05:13:56.02 ID:???
15世紀に栄えた南米ペルーのインカ都市マチュピチュ。100年前の1911年7月24日、アメリカ、イェール大学の考古学者ハイラム・ビンガムが発掘を開始するまで、長く忘れられた存在だった。
【 1. インカ最後の都市 】
ビンガムは2種類の考えを提示している。1つは“インカ発祥の地”説で、1911年、地元農夫の案内で遺跡を訪れたときに発想したという。
後に自説を修正し、伝説の“インカ帝国最後の都市”ビルカバンバでもあると提案した。16世紀、インカ最後の皇帝がスペイン軍と長期にわたる戦闘を繰り広げた場所だ。
ただし、いずれも正しくはなかった。実際の“最後の砦”は、インカの首都クスコから西へ約130キロの密林遺跡エスピリトゥ・パンパと確認されている。
皮肉にも、ビンガムは1911年にエスピリトゥ・パンパを訪れているが、伝説の都市にしては規模も威容も不十分だと判断したという。ただし後の調査で、彼の想定よりはるかに大きな都市であると判明した。
【 2. 神聖な女子修道院 】
「太陽の処女」の寺院と考えたのもビンガムだ。インカの太陽神インティに仕える“選ばれし聖なる女性”というエキゾチックな仮説だ。
主な根拠は、現地でビンガム・チームが発見した埋葬状態の多数の遺骨だ。アメリカの骨学者ジョージ・イートンは20世紀初頭、ほぼすべてが女性だったと発表した。
しかし、この説も2000年に破綻する。当時イェール大学に在籍していた人類学者ジョン・ベラーノ氏が改めて遺骨を調べ、男女半々と判明したからだ。イートンの時代には知られていなかった骨格の性差が基になった。
現在の考古学界では、マチュピチュの遺骨はインカの女性聖職者ではなく、帝国全域から集められた職人や使用人と考えられている。
「皇帝や賓客が利用する王家の別邸だったとしたら、料理、農作物の栽培、清掃などを担当していたのではないか」とベラーノ氏は解説する。
【 3. 御用邸 】
15世紀の皇帝パチャクテクの“御用邸”だったという有力な説があり、遺骨に関するベラーノ氏の解釈とも一致している。
マチュピチュはパチャクテクやその親族集団パナカが保養、狩り、迎賓に利用する場所だったらしい。1980年代に発表された“御用邸”説は、16世紀のスペインの古文書に登場する「ピチュ」という名の王領地を根拠としている。ピチュはマチュピチュと同じ地域にあったという。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110722002