■ニホンアシカ
日本の沿岸・近海に生息していた。
ニホンアシカは、アシカ種の現存する他の2亜種、カリフォルニアアシカやガラパゴスアシカと比べ、大型であった。
主食はイカやタコ、魚類であった。
ニホンアシカの骨は縄文時代の貝塚から頻繁に出土しており、最後の生体発見例がある礼文島においても狩猟が盛んであった。
江戸時代に執筆された和漢三才図会には、肉は食用には適さず、油を煎り取っていただけであると記されている。
油脂は身を煮沸して抽出し、そのまま使用する以外にも石鹸や膠などの原料にも用いられた。
表皮は皮革製品として、特定の部位は漢方薬として、ひげはパイプ の掃除に使われていた記録がある。
20世紀に入ってからは、必要部位を取り除いた後に残った肉と骨は肥料として販売され、昭和初期にはサーカス用途にも捕獲されていた。
1900年代初期から戦前にかけて複数の動物園や水族館でニホンアシカが飼育されていた。
竹島周辺のアシカ漁は、1900年代初頭から本格的に行われるようになった。
乱獲が懸念されたため、1905年(明治38年)2月22日に同島の所属を島根県に決定、同年4月に同県が規則を改定してアシカ漁を許可漁業に変更、
行政が許可書獲得者に対し指導して、同年6月には共同で漁を行うための企業「竹島漁猟合資会社」が設立されて組織的な漁が始まり、
同年8月には当時の島根県知事である松永武吉と数人の県職員が島に渡り、漁民から譲り受けたニホンアシカ3頭を生きたまま連れて帰り、
県庁の池で飼育していたがまもなく死亡し剥製(後述の各高校に所蔵されていた内の3頭)にした、と山陰新聞(当時)が同年8月22日に伝えていた。
アシカ漁では平均して年に1,300-2,000頭が獲られており、1904年(明治37年)からの僅か6年間で14000頭も捕獲するなど、明治大正年間の乱獲によって個体数・捕獲数共に減少していった。
昭和初期には見世物として使用するため興行主(木下サーカス・矢野サーカスなど)から生きたままのニホンアシカを求める依頼が増えたが、
その需要に応える量を確保することが難しい状況になっており、1935年(昭和10年)ごろには年間20-50頭まで落ち込んでしまった。
捕獲量が最盛期のおよそ40分の1にまで激減したことや、太平洋戦争勃発の影響で、戦中アシカ漁は停止された。
戦後は竹島関係の事例が複数報告されており、1951年11月に鳥取県立境高等学校水産科が竹島に行く際、実習船と並んで泳ぐニホンアシカを目撃した証言、
1950年代に竹島を占拠していた独島義勇守備隊により、アシカが20 - 30匹ずつ群れをなして泳いでいる姿を目撃、などが挙げられる
朝鮮戦争中(1950-1953年)には韓国兵が射撃訓練の的として使ったとの噂もある。
WWFによると、繁殖は1972年(昭和47年)まで確認されており 、捕獲された個体が韓国の動物園で子供を出産したという記録が残されている。
1974年に礼文島で幼獣一頭が捕獲され、1975年に竹島で韓国の自然保護団体が目撃した記録が現在における最後のニホンアシカ目撃事例となっており、
以後は生息の情報は得られておらず、絶滅したものとみられている。