8: 里親さん募集です。推定3ヶ月 三毛猫ちゃん。 2013/12/14(土) 08:54:23.58 .net
アキレウス(アキレス) 紀元前7~8世紀 トロイア戦争におけるギリシャ軍最大の英雄。
テッサリア地方のフティア王ペレウスと海の女神テティス との子。
赤子のころ,わが子を不死身にしようと願ったテティスによって冥界の川に浸されたが,
母親の手がつかんでいたかかと(踵)だけは生身のままに残った(←アキレス腱の名の由来である)。
成人後,出征すれば早世する運命にあるとの母親の警告をふりきってトロイアに渡り,
めざましい働きを示したものの,戦争の10年目に,捕虜の女奴隷をめぐる総大将アガメムノンとの争いがもとで戦闘を放棄,
味方を敗北寸前にまで追い込んだ。しかし親友パトロクロスの戦死を機に再び武器をとり,敵の総大将ヘクトルを討って友の仇を報じた。
彼はさらにアマゾン族の女王ペンテシレイア,曙の女神エオスの子メムノン等を討ったが,トロイア王子パリスに矢をかかとに射かけられて落命したという。
アガメムノンとの争いの一部始終はホメロスの《イーリアス》で有名。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm
9: 「はたらく魔王さま!マグロナルド虎ノ門出張店」開催 2013/12/19(木) 14:51:37.27 .net
ソロン 前640ころ‐前560ころ アテナイの政治家,詩人。「ソロンの改革」をおこなった。
王家から出た名門に属したが,富裕とはいえない家に生まれ,若くして海上貿易に従事した。前600年ころサラミス島の領有をめぐるメガラとの争いに市民を激励して名声を得,前594年アルコンに選ばれた。
当時のアテナイでは,平民である多数の農民が土地と身体を抵当として貴族から借財し,それを返済できない場合には土地を債権者である貴族に引き渡し,
収穫の1/6の納付と引きかえにその土地を耕作する,ヘクテモロイと呼ばれる隷属農民の地位に転落し,さらに1/6を納付できない場合には家族もろとも債務奴隷となった。
そこで平民は負債の帳消しと土地の再分配を要求し,貴族との間に激しい党争を続けた。ソロンはアルコンの地位につくと,調停者としての全権を委任され,
危機克服のための大改革を断行したが,市民は貴族,平民ともそれに満足しなかった。ソロンはアルコンと調停者の任期を終えてから旅に出,エジプト,キプロス島などを歴訪した。
党争を続ける祖国に戻ったのち,血縁関係にあるペイシストラトスが僭主政の樹立を狙っていることを見抜いて市民に警告したが,むなしかった。
一説にキプロス島で死んだという。
彼はまたアテナイ最古の詩人であり,その抒情詩には快楽や富を肯定するものもあるが,多くは富者の貪欲と民衆の過大な要求を戒め,独裁政に反対し,
正義と中庸にかなった秩序と繁栄という彼のポリス理念を表現している。また彼はギリシア七賢人の一人に数えられ,〈やりすぎるな〉をモットーにしたと言われる。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm
14: I disapprove of what you say, but I will defend 2013/12/23(月) 17:44:53.98 .net
ペイシストラトス Peisistratos (前600年ころ~前528年か前527年) 前6世紀アテナイの僭主。
ピュロスのネレイダイの子孫として、名門貴族の家系を誇った。40歳のころに僭主制を樹立。
その後5年間で敵対者を打ち破って、以後30年ぐらいペイシストラトスによるアテナイ支配が続いた。
彼の時代にアッティカ産の黒絵の壷がギリシャ全土で流通し始め、またアッティカ赤絵の製法も開発され、アテナイの商工業は盛んになった。
また中小農民に対する優遇政策を推し進め、彼らからの税収入がペイシストラトスの権勢を支えた。
『村の裁判官』を任命して巡回裁判をさせるとともに、自らも田園を視察して農民間の争いを和解させ、彼の政治は後世『クロノスの時代』と呼ばれるほどに善政として知られた。
彼はまた、ホメロスの叙事詩をはじめて編纂した人物ともいわれている。
http://www.meigennavi.net/tb/word/038/038627.htm
16: 「はてなスペース」のユーザーを増やすために企画を募集 2013/12/25(水) 19:33:38.26 .net
17: 「拡散」して「リサイクル」してナンボ。 2013/12/26(木) 22:39:39.44 .net
ペリクレス (前495ごろ~前429) アテネの黄金時代を築いた古代ギリシャの軍人・政治家。演説の達人。
失脚の多いアテネの社会で、指導者としての地位を守り続ける。
彼の治世は決して成功ばかりではないが、彼はその失敗さえも良い方向に変えてしまう能力を持ち合わせていた。
33歳の頃にクーデター的に民主的改革を断行してアテナイの政権を握った。
支配権を握ってからは、徹底した民主政への施策を行い、スパルタとペルシアの両方に対抗する姿勢を強めた。
さらに前451?年にアテナイ市民権を両親ともアテナイ人である者に限ると定めた市民権法を成立させ、アテナイ国家の結束力を高めることに尽力した。市民団としての封鎖性を具体化させた。パルテノン神殿の建築はその直後の前440年代初めから始まる。
前446年のエウボイア反乱に対しては厳しい処置で臨み,その直後,現状維持を図ってスパルタと三十年和約を締結した。政敵のトゥキディデスを陶片追放で国外退去させた後は連年将軍職に選ばれて〈一人支配〉を実現した。
パルテノンをはじめアテナイに美観を添える大土木工事が推進され,彼とその愛妾アスパシアの文化サークルには国の内外から多くの学者,芸術家などが集まって〈ペリクレスの黄金時代〉を現出させた。
しかし,前433年コルキュラの内紛に介入してコリントスとの対立を強め,翌年には〈メガラ決議〉によって隣国の通商活動に打撃を与えて反目を買い,前431年勃発のペロポネソス戦争への道を突き進んだ。
アッティカ住民を長城内に疎開させ海軍を主力に戦うペリクレスの作戦は,開戦翌年に疫病の蔓延を招き,同年将軍職を失ったばかりではなく,みずからも病魔に倒れた。
http://www40.atwiki.jp/genesis-ticket/pages/208.html
23: 中国で甲冑って聞かんな 2014/01/31(金) 05:18:19.06 .net
アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世) (前356~前323) ギリシャを征服した父フィリッポスの後を継ぎ、ギリシャ諸国を平定。
その後東方遠征の事業を開始、ペルシャに進撃してダレイオス3世の大軍を撃破。 さらに東方に遠征して中央アジア、北西インドにまたがる世界帝国を実現した。
征服地ではその制度・慣行を尊重し、東方民族主体の新帝国軍を編成、ギリシア傭兵の植民地定住策などにより東西の融合を目指した。
前323年にバビロンで急死したため、さらなる遠征の計画は実現されなかったが、東西交流は活発化し、ヘレニズムと呼ばれる豊かな世界文化が開花した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンドロス3世
26: 【電通】SIPS 2014/02/07(金) 23:36:08.27 .net
ダレイオス3世(在位;前336~前330) アケメネス朝ペルシア帝国最後の王。 アレクサンドロス率いるギリシャ軍に前333年のイッソスの戦い、前331年のガウガメラの戦いで敗退したあと、逃亡している途中に部下に殺害された。
スキッピオ、アフリカヌス(前236~前183)
プブリウス・コルネリウス・スキッピオ 大スキピオ
カルタゴを破ったローマの将軍。
ローマの将軍だった同名の人物の息子。
17歳のとき、父に従って初めてハンニバルの軍隊と戦うが、敗走。 カンネーの戦いでも敗北。
前208年、スペインのバエクラで、カルタゴのハンニバルの弟ハスドルバル将軍を打ち破り、ローマによるスペイン支配を確立した。
前202年、ザマの戦いでハンニバルを破る。
ミトリダテス大王、ミトリダテス6世、エウパトール・ディオニソス(前132~前64,位;前111~) 小アジアのポントス王国の8代目の王。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ
36: ヴォルムスのアブラハム 2014/05/23(金) 19:15:01.43 .net
チンギス・ハン
蒙古の王で蒼き狼(ポルテ・チノ)の子孫とされる。
源義経と同一、野獣の神を脅したなど、伝説・逸話は多い
46: 昆明の無差別襲撃、SNSで事件現場の生々しい写真が拡散 2014/10/21(火) 18:56:19.03 ID:sECWznCJX
エクター・ド・マリス卿(Hector de Maris)は、アーサー王伝説に登場する、円卓の騎士の一人。
ベンウィクのバン王の息子であり、円卓の騎士の筆頭であるランスロット卿の弟。
アーサー王の養父である「エクター卿」と同名なので、区別するために出身地をつけて「エクター・ド・マリス」と呼ばれる。
彼の名がフランス語表記なのは、エクター・ド・マリス自身がフランス人であるのと、
アーサー王物語がフランスで発展し、イギリスに逆輸入されたさい、フランス語表記がもてはやされたことによる。
アーサー王の物語の中では、行方不明になるランスロット卿を捜索するエピソードにしばしば登場する。
また、聖杯探求中にお互いそれとは知らずパーシヴァル卿と槍試合を行い、自身も重傷を負ったものの、パーシヴァル卿にも瀕死の負傷をさせている。
このときは突如現れた聖杯により、たちまちのうち怪我が治癒された。
漁夫王・ランスロット卿とともに、聖杯の恩恵を受けた数少ない人物である。
その後はガウェイン卿としばらく旅を続けるが、結局聖杯を見つけることがかなわず、キャメロットに帰還した。
物語の終盤、円卓の騎士の間で内乱が起きると、ランスロット卿の味方となり、ボールス卿・ライオネル卿らとともにアーサー王と戦った。
アーサー王とランスロット卿の間に和議がなると、ランスロット卿からベンウィクとギエンヌの王に封じられる。
アーサー王の死後、ランスロット卿が行方不明になると、彼を探しにイングランドやウェールズを7年間探し回った。
ようやく居場所を探り当てたときには、すでにランスロット卿は死亡しており、その死に目に会うことはできなかった。
その後は、ランスロット卿の遺言で聖地回復のため、トルコ人との戦いに出発したボールス卿らに同行。聖金曜日に死亡した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロードス島伝説
115: chikara 2015/04/04(土) 06:12:10.81 ID:7BWVHMTlt
chikaraのひとりごと。
ずっとむかし西暦662年に 白村江(はくすきのえ)の世界大戦がありました。その戦いは、倭(わ)と百済(くだら)の連合国と唐と新羅(しら
ぎ)の連合国が戦い、後者の唐・新羅 軍が勝利しました。この時、日本の歴史が動き出しました。三人の偉人の登場です。まず一人目
は、ペンネームで、柿本人麻呂でした。西暦657年,現在の奈 良県桜井市にわに(和邇族(わにぞく)・百済からの渡来人で三輪大社で代々
神主を務める)の子が生まれました。子供は、綾部夫婦に預けられ、小野族の住む 現在の島根県浜田市三隅町小野へ7歳で移り住みま
した。後、大将・大麻比(おおあさひ)古(この)命(みこと)が率いる、いんべ(忌部)族が攻めて来 て、命からがら戸田の小野郷小野(益田市
戸田・柿本神社の立つ地)へ逃れ、過ごしました。青年となった彼の履歴書を書くと本名は、みわのたかいちまろ(三 輪高市麻呂)。趣味
は言葉あそび(筆者のひとりごと・ひらがなの作者、ペンネームも柿本佐留や猿丸大夫と使い分けた)、特技は弓や。西暦702年石見の
国美乃の郡司となり、藤原不比等(ふひと)(二人目の偉人は物部族(出雲勢力)を滅ぼし、律令政治の日本国を造り、古事記や日本書記
に介入した人)と僧侶・行基(ぎょうき)(三人目の偉人は、西暦668年生まれ今の大阪府堺市に和邇 (わに)族の子。学者であり舟旅しなが
ら行基図・現存しないが江戸時代まで使われた日本地図を作った人。全国に港,ため池,堤,治水の用水路建設,架橋, 貧民救済や墾田
開発した人。東大寺の建設。大僧正の位を贈られた人)の協力を得て、石川(今の益田川)と江川の河口に軍港を造り、井野(現在の浜
田市三隅 町井野)のたたら製鉄で剣や矢先を作り、石見の森林の木で軍船を造 り、その作り方を全国に伝えるため、紙を生産し、
いんべ(忌部)族、おにとね(鬼刀禰)族、小野族、蝦夷(えぞ)人(関東の人)200隻に乗せ新羅の都へ 攻め込みました(結果は敗戦だった
のでしょう・歴史書に出てこない)。
116: chikara 2015/04/04(土) 06:13:46.04 ID:7BWVHMTlt
chikaraのひとりごと。つづき
また、大地震と唐の進駐軍(白村江の敗戦9か月後九州王朝である東表国の博多湾に 47隻の軍船
2000人の兵で現れ39年間駐留し九州全土の集落へ入り老人子供を殺し若者の男女は唐本国へ奴隷として送り。全部の古墳(墓)を
あばき尽くし た)の略奪により破壊された法隆寺(大宰府あたりにあったという)の廃材を奈良に送り再建した。石見地方の昔ばなし(大
糞(おおぐそ)山の三隅大男、折居 の鞍(くら)島、睾丸のあたる山がある江津大男、忌部(いんべ)族と小野族の争い、鬼刀禰族と物部
族の争いの話)や古事記に挿入する詩、万葉集におさめられた短歌や詩の創作。西暦701年以前の歴史の創作。などなどがあげられる。
尚、神武天皇~701年までの話(現在 のエルサレムを逃れたユダ(エブス)人。彼らはゴビ砂漠を東に向かいモンゴルの地にたどり着き
神武の生まれた時代に朝鮮半島を南下し九州北部にたどり着 き、勢力をつけ出雲を経由し大和・今の奈良に建国した)を信じ、
日本陸軍はモンゴルに満州国を建国した。ソ連のバイカル湖西岸をめざすも、ノモンハンで大敗した。西暦701年以前50年は完全に創作
の歴史である。 もし、ソマリア・ユダ説が本当なら、日本人とは、ソマリア(オッフル)人(混血人(エジプト人とシュメール人)・対岸のイエメン
王朝が支配)に 紀元前660年ユダ人の血が混ざったことになる。ソマリア(オッフル)人66%、ユダ(エブス)人34%の混血人となる。
柿本人麻呂・柿本佐留・猿丸大夫=三輪高市麻呂657年~706年
125: chikara 2015/04/05(日) 08:30:53.36 ID:+wwVaTjnk
八世様と聖人様
NHKの大河ドラマでセットの釈迦如来木像がおかしい。とクレームがついたそうだ。私の家も浄土真宗本願寺派(西本願寺派)で仏壇が
座敷に鎮座し ている。中央に「阿弥陀如来絵像」。左手側に本願寺八世様の「蓮如上人絵像」右手側に「親鸞上人絵像」となっている。
そう「阿弥陀如来木立像」の間違いだ ろうの抗議電話らしい。私が言いたいのは、時代背景で当時の本願寺を描写した書物がないため、
決めつけられないということである。現在西本願寺に国宝の阿弥陀堂はあるが、大河ド ラマの時代に阿弥陀堂があったかわからない。
八世様も聖人様も明治天皇のおかげで世に知らされた。天皇家保有の「古事記」も同じように。それでも、聖人のほう は、大正10年まで、
実在したかわからなかったらしい。本願寺本堂裏から奥様から聖人宛の手紙が出てきて、実在事実を確認されたくらいだ。八世様も
聖人様 も生前、「他流は名号より絵像、絵像より木像。当流には 木像よりは絵像 絵像よりは、名号というなり」との伝承があるそうだ。
そして、西派の法改正で、 本尊は、「阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)一仏である」と。平成19年9月20日。私の家の床の間の掛け軸の
6文字の「南無阿弥陀仏」です。仏壇を開いたまま座敷に入室が、三尊絵像の目線がどうしても下になるのが申し訳なかっ た。
126: chikara 2015/04/05(日) 09:48:19.28 ID:+wwVaTjnk
藤井宗雄、矢富熊一郎、三浦尚や寺井実郎の四偉人
時代背景(古事記の明治期の出展・高島の浜田藩・三隅 井野地の折居川挟み浜田藩と津和野藩境)にかかわらずパソコンの使える
現在に生きていたら、すべて解明していたことであろう。人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と物部族
との攻防も鎌倉時代の八世様や聖人様のことや、10年くらいの海没もいきさつを予想できたろうに!
三隅町の伝承。神元といえば、三保から三隅に向かって子落のはずれの東一面の土地をいいますが、この土地の東寄りの大奥に
厳島明神がすんでいたといわれています。今も神元に明神屋敷という地名や明神原という名が残っていますが、そこに明神様の住居
があったのだと伝えられています。厳島明神は、毎日のように舟に乗って海に出ました。ついには、自分の住居近くまで海にしてしまい
ました。これは、私の仮説ですが、何らかの原因で地球温暖化となり、年々海没してしまったら、住民もびっくりしてしまうだろう。地名か
ら岡﨑(岡﨑神楽社中や佐々木桜の地)や森溝(JRの三保三隅駅から 前三隅中学旧舎あたりの地)まで。現在の海から1.5Kmくらいの
ところ。10年くらい話だろう。ここで現在、鎌倉時代の幕府のありかが、わからないらしい。神社が焼 きうちを受け、最終的に広島・宮島
に逃げ去った。関東のどこかにあったであろう、政治を司った建物の柱跡などできるはずがない。北極やグリーンランドの氷 河の溶解
の出来事だったのであろう。宮島移転で運よくまた氷が復活したのであろう。地質学者は全国の伝承、言い伝えを検証したらいいと思う。
238: もうすぐ北風が強くなる エコの嘘と洗脳 2015/08/02(日) 02:58:07.70 ID:SgF82GOmi
ハーマ 詩人の語り ブロージングの首飾り(ブリシンガメンと同義)を持って逃亡する人物。
ヴォルスンガ・サガやシドレクス・サガのヘイミル(ハイメ)のことと思われる。
エオルメンリーチ 同上 ハーマに首飾りを奪われた王。エルマナリク、エルムリッヒと同一人物。
スリュス
(モードスリューゾ) ? オッファ王の妃。以前は残忍な人物だったが、
夫を持ってからは生まれ変わったような賢夫人に。
…ヴァルキューレ?^^;
オッファ ? ヘミング(ヘムミング)の親族。
エオメル
(エーオーメール) ? オッファの息子。ガールムンド公の甥(孫?)にあたる。
インゲルド ヘアゾベアルド フローダ王の子。ロースガールの娘、フレーアワルを娶るが、和平はならない。
エーアンムンド シルヴィング
(スウェーデン) シルヴィングの先王、オフテレ(オーホトヘレ)の息子。
現在の王で叔父であるオネラに叛旗を翻し、ゲータ族の国に助けを求める。
エーアドギルス
(エーアドイルス) シルヴィング
(スウェーデン) 同上。
オネラ シルヴィング
(スウェーデン) シルヴィングの王。オフテレの弟。
ヘアルドレードの跡をついで王となったベーオウルフが
エーアドギルスに手を貸し、倒す。
ダグレヴン
(デイフレヴン) フリジア ヒゲラーク王の殺害者と思われる勇士。
戦場にてベーオウルフと一騎打ちして破れ、命を落とす。
http://ncode.syosetu.com/n6337cb/
239: アササニ文明。それらの系(天体の集まり)は太陽系にとても近い 2015/08/04(火) 02:28:02.45 ID:kmRkCdwmw
岩波文庫版の「ベーオウルフ」を参考にして、登場人物の系譜を作ってみた。
名前の読み方は泉屋書店のほうにあわせてますが、何でかというと字数が少なかったので…(そんな理由かよ)
人物名の下の数字は、生存年。出典は、グレゴリウス(Gregorius Episcopus)の著書…「史書」(Historiarum Libri Decem=直訳すると歴史十巻)または「フランク史」(Historia Francorum) とのこと。
生存した時代は5世紀頃ということで、「ニーベルンゲン伝説」の人物たちや、「ディートリッヒ伝説」に登場する人物の、実在モデルたちと、ほぼ同じ。
生没年がついていないのは、実在したかどうか分からない人物。この物語には、実在と虚構が交じり合っている。
ウェデル族(ゲータ)
http://www27.atwiki.jp/duel_masters/pages/7305.html
75: chikara 2015/02/21(土) 08:44:49.77 ID:2iYPR1Frg
300年前の日本人。
江戸の人(現在の東京)であるが、60歳で大森代官・石見、備後、備中の三国にある幕府直轄天領の最高責任者。井戸平左衛門正明(いどへいざいもんまさあきら)1672~1731。
将軍は吉宗で、享保の飢饉に私財や自身の命を引換に大森銀山領22万の民の救済・支援で一人の餓死者もださなかった。
また、甘藷(かんしょ)・サツマイモの普及に努めた人。
中国地方の民の恩人。
大田市大森に井戸神社が鎮座する。
石見の大田市、江津市、浜田市。
備後の三次市を中心に碑が何十と現存する。
イスラム国と名乗る、盗賊集団に翻訳して聞かせたいものだ。
アルラジージャの記者の方、どうかな?
引用元: ・世界、伝説上の英雄教えろください