メタルギアソリッド2 サンズ・オブ・リバティ
「実戦経験は?」
「いや……無い」
「今回が初めてか……」
「訓練はしている、実戦と区別のつかない訓練を」作中の登場人物がこうした会話をした事を知る人は多いかもしれない。ゲーム好きに限らず、多くのが知るであろう本シリーズではあるが、解説をすると、大まかにはスネークと呼ばれる主人公の兵士が敵の基地などに潜入し、目標の破壊や暗殺を行うと言うのが主となるゲームだ。
今から15年前の2001年に発表された本作では「雷電」と呼ばれるシリーズのもう一人の主人公が仮想現実空間で訓練を積んできた事を語る(実際に本作の完全版と言われるSUBSTANCE版ではその訓練をプレイする事も可能)作中でのバーチャルリアリティ空間では、前述した通り
実戦と区別のつかない訓練のようで、五感もあり、負傷すれば実際に痛みも感じる。
戦闘訓練の他、乗り物の操縦など様々な経験や訓練を実際に体験したかのように得られると言った設定だ。
だがそれでも作中で語られる通りこの技術はあまりにも危険だと言える。
バーチャルな空間では痛みを感じても、実際に負傷はしない。
時には死に至るような訓練ですら、決して死人は出ない。
即ち、実戦での恐怖感……特に
死の感覚がマヒしてしまうのだ。結果として生物ならば必ず持ちうる「死の恐怖」を無くし、ゲーム感覚で殺戮を行う戦闘機械を、言うならば
兵士に対してのマインドコントロールに繋がるのではと言う考察がなされている。
こうした仮想での訓練はシミュレータを利用して、
既に各国の軍隊などで実際に行われているとも言われている。
利用している兵士たちは当然メンタル面でのケアなどが行われているようだが、
仮にこうした技術がクラーク氏の言葉にある「魔法」の領域に達したとすれば……クラインの壺
「戻れ。これ以上進んではならない」ドイツの数学者である
フェリックス・クラインにより考案された、
表裏の存在しない位相幾何学の上で語られる立体。
岡嶋二人が世に送り出したその架空の立体の名を冠した小説が本作だ。
先にメタルギア2の項で説明した物と同様、こちらも
高度に構築された仮想空間体験がキーワードになる。
主人公たちは作中で登場する「クライン2」と言う
アーケードゲームのテストプレイに参加する。
質感、温度、匂い。完璧なまでにありとあらゆる感覚と体験が「これは現実だ」としか感じられない世界がそこには広がっていた。
「クラインの壺」は、境界も表裏の区別も持たない(2次元)曲面の一種で、主に位相幾何学で扱われる。
(Credit:
Wikipedia)
しかしながら、そうした様々な体験の中で
登場人物たちの語る言葉の数々が次第に食い違ってくる。そして主人公・上杉も先の言葉と共に、今の実感が実体験なのか、あるいは仮想での出来事なのかの区別すらつかなくなっていく。同時に、開発したゲーム会社への不信感へと繋がり、物語は思わぬ方向に転がっていく。
既に20年以上前の作品ではあるが、作品全体の雰囲気もあり決して古さを感じさせない作品だ。(無論、一部用語は首を傾げるが)
同時に、
現在を予見したかのような描写もあり、驚かされるだろう。
登場人物たちの会話は、例えどんなに技術が発達しようとも、新たに体験する「未来技術」の素晴らしさと驚異に驚き、笑い、そして次第に恐怖する。周囲のこうした反応とクライン2の見せる数々の「現実感」……技術を生み出した開発会社への不信感、不安。こうした人間性は不変であり現代の我々と何も変わらない。
過ぎた技術により、肉体の感覚は全て架空でいいと考えるようになってしまった時、我々は本当に人間という生き物として存在していいのだろうか?
枷を失った過ぎた技術はこうして人間の在り方を変えてしまう。その事を本作は教えてくれるだろう。
今回紹介したバーチャルリアリティに関連した作品は数ある作品の中でもほんのごく一部に過ぎない。しかしながら、
どちらの作品も現代を予想し、結果としてもたらされる幸福や利益とともにその危険性や問題点を強く指摘している。
一方でそれらの作品が
予見出来なかった物として新たな問題もある。これは仮想現実が、と言う訳ではなく、少々揚げ足取りのような話だが
12歳以下の子供がバーチャルリアリティ機器を利用する事は視覚の成長を阻害する可能性が医学的に指摘されている。
あらゆる技術に言えることではあるが、人類が新しく手に入れたばかりのこうした技術を否定するでなく、うまく付き合って行くべきで、
重要なのは適度な距離感で付き合うことだろう。幸い、バーチャルリアリティ技術と言うのは現在ではゲームでの世界が主な体験になる。故に、ゲームの名人の言葉でその付き合い方の例として締めようと思う。
「ゲームは一日一時間。一時間だけ集中するから上手くなる」