冒頭の津波被害の写真にあるとおり、田んぼは海水が侵入していました。
海岸線の主要道路は、子供がミニカーを部屋の端に重ねて寄せたような、おもちゃをガチャガチャに片づけたような印象。
新聞やテレビを見ているだけではどこか遠くの町の出来事のような気がしていましたが、車で20分のところにあるこの状況を見て初めて、私の中で一気に現実となりました。
そして現地では、私の様に家や住んでいる町が壊滅していない山間部であっても、「世界は狭いんだ」ということを実感させられます。
なぜなら、情報源が無数にあって遠くのことが手に取るように分かっていたつもりでも、電気が止まり携帯電話の充電が出来ずテレビが見られない状況では、3軒隣の家がどうなっているかも分からないのです。壁の向こうに人が死んでいても分からない、これが現実だなと思いました。
そんな中では、たとえよく知っている市内であっても、デマが横行します。
しかしそれがデマなのか本当なのかも、当時は非日常的な状況だったのでいまだに分かりません。
特に良く聞いた噂は、「死体がフェンスに引っ掛かっている」「津波に飲まれた人が田んぼに埋まっている」などという死体の話です。気が張っていて確かめようがない状況では、全て本当だと思ってしまいます。
新聞には被害者○○○人!という文字が躍っていましたが、その場にいる人間のほうが情報は少なく、あんな大きな津波があったのだと知るのは実はもっと後になってからでした。
実際に後からネットで色々な写真が公開され、当時の各地の状況がどうであったかも知るのですが、当時は「被害にあって命を落とした遺体は、どうなっているのだろう」という漠然とした疑問がありました。
彼らにしかできない仕事がある。津波被害地域での歯科医師たち
Credit: 東北地方整備局(
震災伝承館)
当時の宮城県石巻市の様子
警察歯科医という仕事をご存じでしょうか。この言葉が広まったのは、日航機墜落事故が最初だと言われています。大規模な災害や事故によって多数のご遺体の身元確認を行う必要がある場合、特にご遺体の損傷が激しい時は身元の特定が難しくなります。そこで警察歯科医によって歯の状態から身元の特定を行います。
つまり、
検死を行う特殊な歯科医師なのです。
警察歯科医がどんな仕事なのか、現地ではどんな働きをしたのか、当時宮城県石巻市で警察歯科医として検死を行っていた三宅歯科医師の手記を元にご紹介します。
歯科医師の三宅宏之さんは、宮城県石巻市で代々歯科医院を営む4代目の院長先生です。当時の状況を三宅歯科医師の手記を元に追っていきます。三宅歯科医師は、この警察歯科医の講座を震災の起こる2年前に終え、宮城県警から認定を受けた警察歯科医でした。
当時三宅歯科医師は、自分の医院で患者さんの診察中でした。
以下引用しながらご紹介します。
「処置中だった入れ歯がどこにいったか分からなくなるほどの揺れ。患者を帰すと、白衣のままの女性スタッフ4人と高台の自宅に逃れ、津波から助かった」
と三宅医師の
ブログにはあります。二階建ての二階部分にあった歯科医院は床まで水が達し、一階部分は泥で全て埋まったそうです。
歯科医院のスタッフは皆半袖ですが、外は雪も舞っており津波警報も出ていることから高台の私立女子高に避難を開始します。
しかし到着してみると物凄い人の数。仕方がないので近くの三宅院長宅に避難します。
そして高台から海の方を見て、皆絶句したといいます。
このことから、現地の人でも想像を絶するような津波の影響であり、そしてすれ違う人がずぶ濡れである意味を理解したのだと伺えます。
三宅院長宅に避難させていた近所の患者さん、スタッフとその家族、自分の親戚など数名ずつを数日かけて何とか家に帰らせ、三宅歯科医師は自分の仕事に取り掛かります。歯科医師として何が出来るのか動き始めます。避難所ですでに待機していた内科医に話を聞き、警察の要請の元、この日から数か月に渡って遺体安置所に通うことになるのです。
1人の歯科医が語る、東日本大震災での「警察歯科医」
三宅歯科医師は、警察の要請で牡鹿体育館に向かいます。16日のことでした。自分も被災者であるにも関わらず、地震があってから5日ですでに警察歯科医として動いていました。この後17日には体育館はご遺体でいっぱいになり、旧青果市場へ移動することになります。以下の引用は16日からの検視の様子です。
「雪がしんしんと降り続く中、体育館でひたすら口腔チャートを記入した。体育館のガラスはすべて割れていて風が冷たく手が悴んでチャートがうまく書けなかった。講習会では3人1組で口腔内を見る人、チャートを記入する人、明りを照らす人での実習だったが、ここではすべて一人で行うしかなかった。すでに死後硬直がひどく金属性のヘラを無理やり入れ口をこじ開けた。一人で見てチャートを記入するとなると何度もこじ開けなければならない。検視が終わり石巻警察所に着いたのは20時を過ぎて真っ暗だった。腕が筋肉痛になっていた」
チャートとは、口腔の状態を用紙に記録するものです。患者さんの口の中を見て歯科医師が暗号のように「2番シーツー、3番バツ」などと言っているアレです。
用紙には口を開けた形の歯の絵が描かれています。検死ではこれが最重要で、この治療痕を元にレントゲンやカルテと突き合わせ身元を特定します。
虫歯治療が多かった人ほど身元が分かるなんてなんだか複雑ですね。
普段このチャートが簡単に取れるのは、患者さんが口を開けてくれるからです。がっちりと噛んで固まったご遺体の口を無理矢理開けるというのは、もうそれだけで精神的にやられそうな雰囲気であるのが伝わってきます。
そしてこれは16日のことのようです。まだ応援の歯科医師も地元の歯科医師も来ていません。
「がれきで頭部がつぶされたご遺体が何体かあり検視は大変だった。喉まで手を入れ脱落した歯牙をさがし、上顎骨、下顎骨の骨折を整復し顔を整えて歯槽渦に歯牙を戻してチャートをとった」
「また焼死体で自衛隊が車の中の灰を集めてビニール袋にいれて何体か持ってきた。法医の先生と灰の中から歯牙と骨を一生懸命さがした。法医の先生も私も真っ黒になりながら探し、チャートを作った。」
津波にさらわれたり、倒壊によってがれきに押しつぶされたりしたご遺体が、きれいな体でいられるわけありません。
11日の衝撃で亡くなったのだとしたら、すでに5日以上経っています。水に浸かりっぱなしだったかもしれません。歯しか残っていない焼死体もあります。どこからどこまでが体だった灰なのか分からない状態でも自衛隊員がご遺体安置所に運んできます。最前線の自衛隊員も、遺体安置所の警察官や警察歯科医も、想像を絶する状況に何日も晒されているのです。
この頃から遺体安置所に家族を確認に来る人が多くなったそうです。家族の安否確認が取れないから探したい、たぶん確実に津波にやられてしまったからその確認をしたい、生きていると信じているからいない事を確かめたい、などそれぞれの理由で探しに来られます。
そんな時でも警察歯科医はひたすらチャートを取り検死を行っています。その時の様子も、次のように克明に書かれています。
「遺体袋から小さな女の子を取り出し、半日ずっと抱きしめていた母親がいた。案内した警察官もそばに半日ずっと立っていた。その傍らでチャートをひたすらとる。その場から逃げだしたい気持ちで一杯だった。」
「小さい男の子のご遺体に泣きながらすがりつく小学生くらいの女の子がいた。弟だったのだろうか、母親が一生懸命なぐさめる。」
「高齢のご遺体の周りに10人位のご遺族が泣きくずれる。皆に愛されたやさしいお祖父さんだったのだろう。服を着せてもいいかと聞かれたこともあった」
「家が流失しご遺体を持ち帰れないと言い一生懸命、遺体袋の下に布団をひいていたお婆さんもいた。」
「発見場所が同じ3体のご遺体があった。母親と小学生くらいの子供二人である。父親は無事なのか?この状況から立ち直れるのか?
そんな事を考えながらチャートをとった。2、3日後、父親と思われる長身の体格の良い男性が警察と確認しにきた。ご遺体の顔を見たとたん大きな叫び声をあげ泣き出した。場内で作業していた、警察官、自衛隊、歯科医すべての手が止まった。近くでチャートをとりながら私も泣けてきた」
「チャートを記入していると後ろから『ママだけ生き残ってごめんね』とささやく声が聞こえてきた。小さなご遺体に話しかけている女性がいる。胸を締め付けられる思いで耐えられない。検視作業よりもご遺族の悲しみに触れることの方が辛い」
このような状況であってもなんと7月まで検死を行っていたことが記録されています。数日ならまだしも、季節が変わり、それに伴ってご遺体の破損状況も変化する中ご遺体と向き合う状況は、私たちには少しも想像出来ない世界なのではないでしょうか。
それでも耐えられたのは上記のささやく母親を目の当たりにしたことがきっかけだといいます。
「この一件以来ご遺体の損傷、臭いは、我慢できるようになった。
あたりまえだが、私が検視しているご遺体は皆、だれかの夫、妻、父親、母親、息子、娘なのである」
と後に三宅歯科医師は手記の中で語っています。
陰で支えるプロフェッショナルたち
三宅歯科医師の手記の中にこんな一文があります。
「歯科治療はあくまでQOLの向上、より良い生活、より良い人生を送るための手助けをする仕事であり震災や災害などの緊急処置を必要とする場面では活躍の場が無いと思っていた。
しかしこのような広範囲に及ぶ開放型の大規模災害では硬組織と金属で多様化している治療痕が個人の特定に役立っている。
むしろもう
歯科の治療痕でしか個人の特定はできないのではないだろうか」
歯科医院では余命宣告というものは基本的にはありません。
歯がなければ長生きできないということはあっても、寿命に直結するような歯科疾患は基本的にないからです。特に三宅医師がひらいているような一般歯科医院ではなおさらで、多くの歯科医師や歯科衛生士、その他のスタッフが「歯科は生活向上の手助けをする」というようなイメージを漠然と持っています。
しかし三宅歯科医師は、歯科医師はQOLの向上に一役買っているのであれば、人生の最期である死の場面にもQOLの向上を提供したい、それがご遺体の身元特定によって家族の元に帰れるという幸せな最後を迎えて欲しい、家族に見守られて送られる手助けをするという事も歯科医師が提供できる最後のQOLである、そんな思いで検死を行っていたのだと思います。
実は筆者は歯科医院勤務経験があるのですが、これを読んだ時同じ歯科分野の仕事とは思えませんでした。
私が普段見ていた歯科医師とは違う、
まったく別の職業のようでした。これが警察歯科医師という仕事なのだと、手記を読んで何とも言えない存在に感じました。
「大規模震災や事故の場合、救急治療などで医師の活躍は脚光をあび広く認識されているが、歯科は話題にもならない」と手記の中にあります。
まったくその通りで、私が避難生活中に求めたのも医科分野でした。
避難所でも長期避難予定でない限り、多くが歯科ではない医療分野です。しかし大規模震災や大規模な事故の裏にはこのように知られていない多くの専門家が働いています。
ガレキをよけご遺体を運ぶ自衛隊員、同じ様にガレキで溢れた道を開き埋もれた人を救助する警察官、そしてご遺体の身元を特定し家族に返す警察歯科医、このような多くの人々の尽力で遺族が救われ、世界中で起きている大規模な事故や災害をも我々は乗り切ってきたのだと思います。