12: あすにー 2017/08/23(水) 09:15:57.754 ID:/l2/UDfe0
それで、古代ギリシャではポリスと呼ばれる都市国家が発展した
このポリスっていうのはどういうもんかというと城壁に囲まれた数キロ平方の空間に多くの人が集まって住む形態
各人の利害をうまく調整しないととても仲良く暮らしていけない
それだけ高度な文化があったということやね
13: あすにー 2017/08/23(水) 09:22:25.385 ID:/l2/UDfe0
そして紀元前四世紀、ギリシャ文明圏のな中でも辺境の国だったマケドニア王国が強大になって他のポリスを服従させてギリシャ全土を統一
マケドニア王アレクサンドロス三世(大王)は仮想敵国だったペルシャを一気に征服して中東にまたがる大帝国を築いた
14: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 09:24:51.024 ID:uiEmtG0cM
期待!
16: あすにー 2017/08/23(水) 09:30:28.187 ID:/l2/UDfe0
アレクサンドロスが若くして亡くなると部下の将軍たちは後継者の座をめぐって互いに争い、
最終的にセレウコス朝シリア、プテレマイオス朝エジプトなどのヘレニズム諸国が成立した
ヘレニズムという言葉の元になっている「ヘラス」とはギリシャ人たちが自分の国を呼ぶときの名で、ヘレニズム諸国というのはギリシャ系の国という程度の意味
17: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 09:31:00.340 ID:uiEmtG0cM
世界史ってヨーロッパ史だよね
20: あすにー 2017/08/23(水) 09:34:10.731 ID:/l2/UDfe0
>>17
まあ西洋文明の現代における影響の大きさからそうなりがちやね
18: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 09:32:12.862 ID:gLyufB6h0
世界史知らんから期待
19: あすにー 2017/08/23(水) 09:33:41.017 ID:/l2/UDfe0
たとえばエジプトやシリアでは、被支配者層は以前から住んでるエジプト人やシリア人でも
支配者層は他所からやってきたギリシャ語を喋るギリシャ人という状態になったわけだね
23: あすにー 2017/08/23(水) 09:42:26.363 ID:/l2/UDfe0
さて、その頃ギリシャよりも西にあるイタリア半島では、ローマという都市国家が徐々に勢力を拡大しつつあった
イタリアも海に突きだしてるじゃん?だからギリシャとかアジアの文明が進んだ地域から影響を受けるのが早かったわけね
結局ローマがカルタゴ(この地図の紫)とかマケドニア(緑)とかプトレマイオス朝(青)とかセレウコス朝(黄色)とか諸々を倒しちゃって
古代地中海世界の覇者になる
25: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 09:43:53.586 ID:rQOt4eWKd
やっぱローマってやべぇわ
27: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 09:45:21.019 ID:uiEmtG0cM
やっぱローマ最強やな
29: あすにー 2017/08/23(水) 09:52:09.440 ID:/l2/UDfe0
ローマが支配するようになったのは地中海に面した国々だけではなかった
今のガリアと呼ばれていた今のフランスや、スペイン、イギリス(の南部のイングランド)や東欧の一部なども征服して支配下に組み入れた
ローマは最終的にこれくらいでかくなる
このときローマに征服されたフランスやイングランド、それと征服されなかったドイツなんかが中世ヨーロッパの主役になるわけだが
古代はどうだったかというとはっきりいってド田舎だった
30: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 09:53:23.221 ID:+c4Dxs1pr
ローマ最初こんなにちいせえのか
恐ろしい
32: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 09:56:18.218 ID:uiEmtG0cM
スコットランドって妙に独立維持してきた印象だけどローマにも征服されてないのな
33: あすにー 2017/08/23(水) 09:57:39.574 ID:/l2/UDfe0
そこをもうちょい説明すると大雑把にフランスとイギリスにはケルト人、ドイツにはゲルマン人と呼ばれる民族が住んでたわけだが
ローマ人がやって来るまで彼らはいくつも部族に分かれていて文字も持たず町らしい町もなく、
ケルト人やゲルマン人は乱暴な言い方をすればどんぐりうめえwwwってやってるのに毛が生えた程度の文明だったわけだね(ガリア人は多少マシだったが)
35: あすにー 2017/08/23(水) 10:08:34.788 ID:/l2/UDfe0
そういうところに先進的なローマ人が攻めてきた結果、ローマの文明や言語(ラテン語)が征服地では徐々に広まっていく
一方で地中海の東の方、ヘレニズム諸国があった地域ではローマ文化やラテン語は広まらなかった
なぜかというとローマ人自身も認めていたように先輩のギリシャ文明の方が先進的だったから(哲学とか)
というわけで広大なローマ帝国の西方ではローマ文化・ラテン語が、
東方ではヘレニズム文化・ギリシャ語が支配的になるという構図が出来上がる(もちろん民衆の土着の言語もあった)
ここが「中世ヨーロッパ」という世界の枠組みを作るポイントの一つ
36: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 10:10:47.359 ID:Ag90mwa7M
なるほどー
37: あすにー 2017/08/23(水) 10:21:04.111 ID:/l2/UDfe0
しかし無双してたローマ帝国も3世紀くらいから内乱や経済状態の悪化や異民族の侵略などでガタが目立ってきて、
結構頑張ったものの4世紀の末には「こんなデカい国一つにしとくの無理じゃね?」って感じで
時の皇帝テオドシウスは息子に後を継がせるにあたって東西二つに領域を分けた
この時のホノリウス帝の治める「西ローマ帝国」がローマ・ラテン文明の地域で、
アルカディウス帝の治める「東ローマ帝国」はヘレニズム諸国の地域という感じ
この相違は時とともにどんどん大きくなっていって、以前はエリートならラテン語・ギリシャ語どちらも出来て当たり前だったのが
中世にはお互いに通訳を必要とするようになってしまう
39: あすにー 2017/08/23(水) 10:29:40.271 ID:/l2/UDfe0
あとキリスト教の話もしとこう
キリスト教は紀元1世紀のイスラエルで生まれた
もともとローマ帝国に征服されたユダヤ人っていう民族がここに住んでたんだけど
彼らのユダヤ教は唯一の神しか認めない独特な宗教だった
ユダヤ教とその分派キリスト教は、ローマの神々を決して崇めようとしない態度のせいで最初はローマ帝国から迫害されていた
しかしキリスト教はユダヤ人以外の民族にも門戸を開放したり、理論武装のためにギリシャ哲学の一部を流用するなど柔軟に立ち回った
そしてローマ帝国が弱体化して社会不安が増大する時代になると大きな勢力となって
最終的にコンスタンティヌスという皇帝がキリスト教を国教に採用した
コンスタンティヌス
40: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 10:32:57.558 ID:rq1/cP3Ir
現代までの禍根を残したハドリアヌス帝
41: あすにー 2017/08/23(水) 10:41:11.758 ID:/l2/UDfe0
さて、こっからヨーロッパが話のメインな
4世紀末、5世紀初頭あたり
西ローマ帝国にとって最大の脅威になっていたのがゲルマン人だった
ローマに征服されなかったドイツや東欧にいた金髪碧眼の「蛮族」といわれたやつらが大挙して押しかけてくるようになった
そのきっかけになったのはアジアから来た遊牧民の「フン族」がゲルマンの諸部族を圧迫したせいで
故郷を追われたゲルマン人が女子供も引き連れた数万から十万前後の単位でローマ帝国に侵入して暴れまわるという事件がいわゆる「ゲルマン民族大移動」という出来事
42: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 10:46:53.150 ID:lQ0Je/IUa
フン族って確か騎馬民族だよな
44: あすにー 2017/08/23(水) 10:53:58.090 ID:/l2/UDfe0
>>42
情報が少ないので定かではないが中国の歴史書に「匈奴」と書かれている民族の末裔だと言われているね
43: あすにー 2017/08/23(水) 10:52:38.410 ID:/l2/UDfe0
弱体な西ローマ帝国はゲルマン人の侵入を撃退できずに滅亡していき、帝国各地はゲルマン人の王たちの支配に服することになった
スペインに西ゴート王国、イタリアに東ゴート王国、フランスにフランク王国とブルグント王国、ポルトガルにスエビ王国、チュニジアにヴァンダル王国などなど
だがこれらのゲルマン人たちは別にローマ帝国を滅ぼそうとしてやってきたわけではない
元々はもっと安全で豊かな土地を求めてやってきただけ
さらに乗り込んできたゲルマン人は一部族につきせいぜい十数万人程度で、以前からいるローマ帝国の住民は一国数百万人単位でいる
しかもゲルマン人はまともな文字も持たないような民族で、高度に発達したローマ社会を統治する能力などなかった
彼らの支配の根拠は軍事力のみ(ゲルマンが強いというよりローマが弱かった)
結果ゲルマン人の王たちは官僚や大臣にはローマ系の民族を登用するしかなく、また少しずつではあるがローマの文化を受容してゆっくりと被支配者と同化していく傾向にあった
45: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 11:13:24.578 ID:lQ0Je/IUa
ローマコンクリートが衰退して礎石の建物いわゆる石・レンガ造りが主流になるのはもう少し先か
しかしこうやって文化は滅んでいくんだなあ
46: あすにー 2017/08/23(水) 11:14:21.523 ID:/l2/UDfe0
ゲルマン王国の中で当初最も有望そうなのがなんだかんだいって一番発展していたイタリアを獲った東ゴート王国だった
東ゴート族のテオドリックという王は、493年にイタリアを支配していたゲルマン人仲間のオドアケルを倒してこの国を征服した
テオドリックは優秀な統治者で、西ローマ帝国末期の支配者たちよりもはるかに安定した政権を築いて「大王」と呼ばれた
テオドリックのコイン
しかし東ゴート王国は東ローマ帝国が西の領土を取り戻すぞーとおっぱじめた戦争のせいで 553年に滅ぼされてしまう
しかも勝者である東ローマ帝国も、この東ゴート戦争のせいで国力を消耗してしまい、新たな蛮族であるランゴバルド族が侵入してくるとイタリアを維持できなくなった
このランゴバルド族は東ゴート族ほど統制がとれておらず、内部では複数の勢力にわかれていたので東ローマ帝国を半島から完全に駆逐することもできなかった
ランゴバルド王国と東ローマ領
結果としてイタリア半島から統一的な権力は消えてしまい、この国では19世紀まで複数の国家が割拠する
47: あすにー 2017/08/23(水) 11:28:21.441 ID:/l2/UDfe0
ガリアと呼ばれた現在のフランスはどうだったか
そもそもここにはケルト人の一種であるガリア人が住んでいたのをローマが征服して帝国に組み入れたわけだが
ガリア人は時間がたつにつれてローマ人と徐々に同化していき「ガロ・ローマ人」と呼ばれる人々に変わっていった
特にフランスの中でもイタリアに近い南部ほどローマ化が著しく、相対的に北部ではそうでもないという状態
ガリアにまず定着したゲルマン人は西ゴート族で、フランス南部を中心にスペインまで王国を広げた
次に北東のベルギーあたりからフランク族が侵入してくる
フランク族の王クロヴィスは非常に狡猾な一代の梟雄というべき人物で、ガリアに割拠していた他の勢力を次々に征服していった
彼が築いたフランク王国が中世前半のヨーロッパ史の主役
クロヴィスとの決戦に敗れた西ゴート王国はスペインに遷都してその地で生き延びる
クロヴィス
クロヴィスの征服活動
48: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 11:31:53.778 ID:QlHo6kBh0
フランク族って元々フランスにいたんじゃないのか
ゲルマン人といい、ヨーロッパってやっぱそういうもんなんだな
51: あすにー 2017/08/23(水) 11:41:35.078 ID:/l2/UDfe0
>>48
そもそもローマの外にいた頃からフランク族自体いろんな部族の出身者が寄り集まったごたまぜ民族っぽい
50: あすにー 2017/08/23(水) 11:39:54.401 ID:/l2/UDfe0
イングランドでは、そもそもここはローマ帝国の中心地から離れているせいであまりローマの文明は根付いていなかった
409年に余裕のなくなったローマはこの島を放棄して軍隊は引き揚げてしまう
現地の住民たちはブリトン人と呼ばれるケルト系の人々だったが、ローマ軍がいなくなるとスコットランドにいたピクト人やドイツ北部から海を渡ってくるゲルマン人の侵略に苦しんだ
結局イングランドはゲルマン人の一派サクソン族やアングル族の王国が複数乱立するようになるが、ここでは大陸と違って被支配者層のブリトン人が支配者層のゲルマン人に同化していった
イングランドという地名はアングル人の地という意味だし、アングル族とサクソン族を合わせてイギリス人は今日でもアングロサクソンと呼ばれたりする
一方でウェールズやコーンウォールなどの辺境にはブリトン人が生き残った
600年ころのイングランド
52: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 11:42:53.246 ID:bsKbH1530
長らく白いかつら被った貴族と全身鉄鎧で固めた重装歩兵の時代が同じと思ってたわ
53: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 11:46:52.516 ID:jiK4J+hy0
中世はまだか
55: あすにー 2017/08/23(水) 11:53:11.482 ID:/l2/UDfe0
>>53
一応広い定義だと西ローマ帝国滅亡以降が中世だからもう入ってるぞ
まあ騎士もいなければ教会も大した力もなくて蛮族まみれだから一般的な中世のイメージとは程遠いけどな
54: あすにー 2017/08/23(水) 11:51:44.885 ID:/l2/UDfe0
「ゲルマン人がローマの文明を受け入れた」というのは何を根拠にそう言えるのか?という疑問があるかもしれない
一番わかりやすいのは宗教
末期のローマ帝国は既にキリスト教化して久しかった
ゲルマン人はゴート族のようにローマ侵入前からキリスト教徒だったものもいたが、彼らはアリウス派という宗派で(西)ローマ人はカトリックだったから仲が悪かった
フランク族は自然崇拝だった
こいつらも最終的にはみんなカトリックを受け入れるようになる
カトリックはローマにいる教皇を頂点とするヒエラルキーで結びついた教会が、国を超えた組織として存在していて各地を結びつける
中世ヨーロッパは民族が違っても宗教が同じならまあいいやの精神があるのだ
56: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 11:54:44.721 ID:zhHnZW8Aa
なんでローマの発明品とか知識が断絶したの?
58: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 11:57:06.566 ID:xPW2HEFu0
早く2階からうんこ投げる話をしてくれ
59: あすにー 2017/08/23(水) 11:58:55.885 ID:/l2/UDfe0
>>56
このスレを読めばある程度わかるように書くつもり
まあ話してるようにギリシャとは一度断絶してるけど、ローマとはそこまで断絶してないよ
>>58
それローマ時代からナポレオンの時代までやってるからわざわざ中世でやる話でもない
57: あすにー 2017/08/23(水) 11:55:41.041 ID:/l2/UDfe0
ちなみにこの時点で現地住民がゲルマン化する方向に向かったイングランドや
そもそも大半がローマ帝国に支配されたことないドイツはキリスト教を受け入れてない
オーディンとかトールとか北欧と同じ系列のゲルマンの多神教を信仰していた
61: あすにー 2017/08/23(水) 12:13:27.576 ID:/l2/UDfe0
スペインの西ゴート王国は711年まで続いたが、モロッコからやってきたイスラーム勢力に攻撃されてあっという間に滅亡した
この時の生き残りが辺境にアストゥリアス王国を築いてそこからレコンキスタという数百年掛かりの戦いでイスラームから国土を「再征服」していく
このイスラームという宗教は西暦610年にムハンマドというアラブ人がアラビア半島で唱え始めた一神教で、キリスト教の弟のようなものだが宗教と政権が始めから一体化しているのが特徴だった
イスラーム勢力は落ち目の東ローマ帝国からエジプト・シリア・北アフリカを奪って瞬く間に勢力を広げていった
中世のイスラームが高度な文明を持っていたことは良く知られているけど、彼らも初めは「ゲルマンよりはマシ」程度の野蛮人と東ローマやペルシアという先進国からは見なされていた
それがシリアとエジプトのヘレニズム地域を得たことでギリシャの文明の影響を受けて西ヨーロッパより一足先に発展していく
62: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 12:28:10.021 ID:Ag90mwa7M
>>61
イスラム教はユダヤ教からの枝分かれと聞いたが本当?
63: あすにー 2017/08/23(水) 12:29:53.692 ID:/l2/UDfe0
>>62
枝分かれっていうか強く影響を受けているのは間違いないよ
キリスト教の影響もある
67: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 12:36:29.726 ID:HA3QigzcE
>>62
キリスト教みたいに分派と変質じゃなくて設定利用の再解釈だな
66: あすにー 2017/08/23(水) 12:34:39.466 ID:/l2/UDfe0
さて、クロヴィスが建国したフランク王国
伝説の祖先の名前からメロヴィング王朝と呼ばれるこの王家は相続法が独特だった
他の東西ゴートなどのゲルマン人の王国と違って、息子たちに平等に国土を分け与える分割相続だったのである
という訳で511年にクロヴィスが死ぬと四人の息子たちが平等に王国を支配するようになって国土は分裂した
なぜこういう制度を取っていたかというと、元々ゲルマン人にとって財産といえば家畜で土地と違って後からでも増やせるからとか
長子相続制がなく王の子供は平等に権利を持っていたからとかいろいろ言われている
このようにローマ文化に染まった他のゲルマン人よりも相対的にゲルマン色が濃く残っている、
しかしドイツやイングランドよりのゲルマン人よりはローマ的というのが北仏を中心基盤にするフランク王国の特徴だった
テウデリク、キルデヘルト、クロドメール、クロタールという四人の息子が統治するようになったフランク王国
68: あすにー 2017/08/23(水) 12:43:29.523 ID:/l2/UDfe0
四人の王たちは実力が拮抗している時は大きく争うことはなく、共同して軍事行動を起こしてブルグント王国を征服したりしている
テウデリクはチューリンゲン王国を征服してかつてのローマ帝国の領土の外に乗り出してもいる
しかし弟の一人が亡くなると、その幼い息子たちを殺してしまって領土を分け合ったりと抜け目ない
そうこうしているしているうちにクロタールだけが生き残り晩年にはただ一人の王となったが
561年に彼がなくなると王国はまたもや複数の4人の息子たちに分割された
この中でネウストリアとアウストラシアが重要な地域になってくる
72: あすにー 2017/08/23(水) 17:42:34.328 ID:b3lXr8CzM
息子の一人は早死してしまったのでアウストラシア王シギベルト、ネウストリア王キルペリク、ブルグント王グントラムという三人の王が誕生した
ネウストリア王キルペリクは「(キリスト教徒を迫害した古代の王の)ネロとヘロデを合わせたような人物」と歴史書に書かれる暴君で、西ゴート王国からもらった妃を愛人と結婚するために殺害してしまう
フランク族はキリスト教に改宗したといっても中身はまだまだ「蛮族」で、このように荒っぽく有力者は公然と邪魔な身内を殺しもすれば複数の愛妾を抱えているのが普通だった
一方でキルペリクはローマ人の文芸を愛しラテン語で詩を作ってい得意になったり、キリスト教の教義問題に関心を示したり新しいアルファベットを考案したりしている
このような蛮族性とローマ性の同居がこの時代の特徴だった
73: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 17:50:00.638 ID:atSOJWxB0
みてるぞー
74: あすにー 2017/08/23(水) 18:06:21.521 ID:b3lXr8CzM
アウストラシア王シギベルトの妃のブルンヒルドはキルペリクに殺された西ゴートの姫の姉妹だった
この女傑ブルンヒルドが姉妹の復讐を要求したことからアウストラシアとネウストリアの内戦が始まる
戦の得意なシギベルトがネウストリアを制圧してその王位を奪おうとしたまさにその瞬間に、ネウストリアの刺客がシギベルトを暗殺した
ブルンヒルドは捕らえられたが、キルペリクの息子の一人を籠絡して脱出すると幼い息子の摂政としてアウストラシアを統治してネウストリアと戦う
その後キルペリクも恐らくはアウストラシアの刺客によって暗殺され、愛人のフレデグントがネウストリアを治めた
フランク王国は二人の王妃が争う時代になった
76: あすにー 2017/08/23(水) 18:15:43.509 ID:b3lXr8CzM
ブルンヒルドはフランク王国よりもローマの文明の影響を強く受けた西ゴート王国の出身であり、アウストラシアにもローマ的な集権的な統治制度を打ち立てようとした
しかしフランク貴族は王家に強大な権力を持たせることを望まず、ブルンヒルドは国を追われてしまう
最終的にこの争いで生き残ったのはブルンヒルドとシギベルトの息子たちではなく、キルペリクの息子クロタール二世だった
ブルグントとアウストラシアを併合したクロタール二世は高齢になっていたブルンヒルドを捕らえると、情け容赦なく八つ裂きにして彼女を処刑したという
78: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 18:20:16.998 ID:/N6E6OuxM
蛮族側の王がうっかりローマ文化とかに染まると軟弱者あつかいされそう
日本でいう今川義元的な
80: あすにー 2017/08/23(水) 18:34:01.738 ID:b3lXr8CzM
>>78
蛮族の中にもローマ積極需要派と民族主義的な蛮族路線維持派がいて対立してたみたいね
79: あすにー 2017/08/23(水) 18:32:49.642 ID:b3lXr8CzM
613年にフランク王国を単独で支配することになったクロタール二世だが、長い間分裂状態が当たり前になっていた各地の分王国は独立傾向が強くなっていた
特にアウストラシアではメッツ司教アルヌルフと大ピピンという有力者がいて独自の王を戴きたいとクロタール二世に要求した
クロタール二世自身がそのような在地の有力者の支持を得て勝ち残れた人だったので、これに応えて幼少の息子のダゴベルトを王として派遣して大ピピンは宮宰(宰相)となった
クロタール二世時代に発せられたパリ勅令はその土地に大きな領地を持つ人物が官職に就くことを定めたもので、
アルヌルフやピピンのような豪族が台頭してくる時代の始まりを告げていた
81: あすにー 2017/08/23(水) 18:44:04.242 ID:b3lXr8CzM
クロタール二世の子のダゴベルトは父がなくなると他の後継者を排除して単独の王となることに成功して安定的な政権を築いた
しかしダゴベルトの後の時代になると、短命な王や家臣の操り人形に過ぎない王が続き、メロヴィング王朝の王たちは歴史の主役ではなくなっていく
代わって主役になるのは宮宰と呼ばれる宰相たちだった
ダゴベルトの死後、大ピピンの子グリモアルドは自分の息子をアウストラシアの王にしようしてクーデターを起こす
しかし他の貴族たちはグリモアルドに味方せずこの王朝乗っ取りは失敗して彼は殺された
しかし大ピピンの娘とメッツ司教アルヌルフの娘との間に生まれた中ピピンの子孫がこの野望を継承して王朝交代を果たすことになる
82: あすにー 2017/08/23(水) 18:50:07.985 ID:b3lXr8CzM
ここまでの流れを整理しておくと
古代ギリシャすごい!
↓
ギリシャの次は古代ローマすごい!
↓
ローマ帝国弱体化でゲルマン蛮族祭り
↓
ローマと同化していく蛮族たちの中ではメロヴィング朝フランク王国が一番強そう
↓
王族で争ってたらいつの間にか豪族たちの力が増してきた!←いまここ
83: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 18:53:35.274 ID:/N6E6OuxM
中世の、君主はいるけど諸侯に見放されたら終わり(ジョン王とかハインリヒ4世とか)の伏線はそのへんで出来てるんだな
84: あすにー 2017/08/23(水) 19:21:26.973 ID:b3lXr8CzM
ここらへんでローマ時代からどのように社会が変化したかまとめてみよう
・西ヨーロッパはギリシャ文化と断絶した
これはローマ帝国が東西に分裂して東との交渉が少なくなっていったから
哲学や科学などのギリシャの知識が西ヨーロッパから失われた
・地中海・都市の重要性が低下した
ローマは元々都市国家から始まった国で、都市こそが政治・経済・文化の中心地だった。この傾向は地中海とイタリアに近づくほど強くなる
しかしゲルマン人の王国がいくつも並び立ったことと地中海がイスラームと東ローマ帝国という二つの勢力に分断されたせいで
遠距離との交易が安全に行えなくなったせいで都市の経済力は低下した
85: あすにー 2017/08/23(水) 21:05:14.476 ID:/l2/UDfe0
・中央集権から地方分権へ
ローマ帝国では官僚制が発達していて権力が支配者に一元的に集中していた。
フランク王国でも官僚にはローマ系の民族が登用されたが、その規模は小さくそもそも国王の権力の浸透具合は地域によってバラバラで中央集権的な統治は行えなかった
この時代王はどうやって税金を集めているかというと領地を王が宮廷ごと移動してそこで歓待をうけて税を現地で消費し、しばらくたったらまた別の地方へ行くというやり方
さらにメロヴィング朝の後半になると豪族の力が増して、地方の権力は中央から独立していく傾向がより強まる
90: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 21:16:26.765 ID:nGcn6qHJ0
みてるよ
91: あすにー 2017/08/23(水) 21:19:29.216 ID:/l2/UDfe0
一方でローマ時代から変わらないものもあった
それはキリスト教と教会の権威、ラテン語の力
キリスト教は自然発生的に生まれたものではなく元から人為的に発生した組織化された宗教で、各地の主要都市には司教という人がいてその地域の民衆を宗教的に導く役割を持っている
それがローマ帝国の末期に帝国政府が行政・防衛の機能を果たせなくなると、その土地の司教が都市行政や時には襲来した蛮族との交渉を行うようになった
蛮族の王国ができてからもそれは続いていて、ゲルマン人とローマ人の同化が進んでいくとゲルマン系の名前を持った人が司教になったりしている
司教などの役職は世俗の利権でもあったから、有力者に乗っ取られるようになったわけだ
ローマ帝国の公用語だったラテン語は、中世になるとだんだん方言化していって現代のフランス語やイタリア語、スペイン語、ポルトガル語などの先祖に分化していく
これらの地域に信州してきたゲルマン人たちには独自の言語があったが、支配者層の話していた言葉に合わせてゲルマン語は消えていったわけだ
そして書き言葉、教会や行政で使われる言語としてはラテン語がそのまま生き残り、中世ヨーロッパ世界では文書を書くときや別々の国に生まれた人間(上流階級に限るが)が会話をするときにはラテン語が使われた
今でも生物の学名にはラテン語で名づけられるけど、それもこの言語が学問の言葉として生き残っている名残
92: ぺろぺろ紳士 ◆p51RVEp752 2017/08/23(水) 21:20:08.216 ID:Gqk8pPTo0
東ローマ帝国や神聖ローマ帝国はどんな気持ちでローマ帝国を名乗ってんの?
93: あすにー 2017/08/23(水) 21:28:38.003 ID:/l2/UDfe0
>>92
東ローマ帝国は首都が変わっただけでそのままローマ帝国、西ローマ帝国が滅んでからは唯一のローマ帝国
という気持ちで本人たちはやっているが客観的に見るとローマ人じゃなくてギリシャ人の国化してるし西ヨーロッパの諸国とも違う独特の国家体制なんで「ビザンツ帝国」と歴史学的には呼ばれている
神聖ローマ帝国の話はこれからかな
現代人が「ローマ帝国」と聞くと一世紀とか二世紀とかの帝国を思い浮かべるかもしれないが
中世人にとっては4世紀の初めに帝国を再統一してキリスト教を公認したコンスタンティヌス"大帝"の帝国こそが理想のローマ帝国像なんでそこまで大きな矛盾はない
96: あすにー 2017/08/23(水) 21:46:15.544 ID:/l2/UDfe0
650年ころのメロヴィング家の王たちが力を失っていった頃のフランス(ガリア)と周辺の地図
ピンク色のアウストラシアと紫のネウストリアにフランク王国は分かれている
ネウストリアはローマ帝国も進出しなかったドイツ(ゲルマニア)にも勢力を伸ばしていっている
周辺にはスペインの西ゴート王国、イタリアのランゴバルド王国、東にはハンガリーのあたりにアヴァール人(灰色)というアジア系の遊牧民が現れて脅威になっていた
イングランドはアングロサクソンの諸王国が成立して代表的な国を数えて七王国時代という頃
7世紀頃にはローマ人とフランク人の同化が進み区別も徐々に失われていってて、外からはみんなフランク人と呼ばれるようになっていく
つまりローマの高度な文明の名残が本格的になくなっていった時代でもある
ぶっちゃけこの辺が中世の文明的な最底辺だと思ってそう間違いではないと思う
98: あすにー 2017/08/23(水) 21:58:30.257 ID:/l2/UDfe0
7世紀の後半には大ピピンとメッツ司教アルヌルフの孫の中ピピンがアウストラシアの宮宰
一方でネウストリアには最後のローマ系官僚というべきエブロインが宮宰として集権的な国家を築く挑戦を行っていた
エブロインは非貴族層から台頭した人物で、その土地に領地を持つ豪族がその場所と関係する王国の官職を得ることを阻止して中央の権力を維持しようとしていた
しかしエブロインはアウストラシアとの戦いに勝利したものの、暗殺されてしまい彼の計画は頓挫した
中ピピンはエブロインの後継者たちを破ってネウストリアとアウストラシア両方の宮宰となり、フランク王国の事実上の単独支配者となる
だが中ピピンが714年になくなると各地で一斉に反乱が起きてフランク王国は再び混乱した
100: あすにー 2017/08/23(水) 22:14:33.329 ID:/l2/UDfe0
この混乱状態を収拾したのが中ピピンの私生児、つまり正式な跡継ぎではなかったカール・マルテルである
マルテルというのは鉄槌を意味するあだ名だと言われているが、戦争に強くて脳筋なのが特徴
ひたすらライバルたちをボコりまくって国を統一した
戦争するお金が無くなると教会から土地を取りあげてそれを元手にまた戦争した
7世紀の初めにスペインの西ゴート王国がイスラーム勢力に滅ぼされると、フランク王国の南部のアキテーヌ地方にもイスラームの軍勢が侵入してきた
現地の支配者アキテーヌ公ウードはマルテルと対立していたが、イスラームに対抗するために和睦し同盟を結んだ
732年のトゥール・ポワティエ間でイスラーム勢力とフランク軍の決戦があり、この戦いに勝利したマルテルは「キリスト教世界を守った男」として後世英雄になった
しかし実態は同じキリスト教徒にも戦争を吹っ掛けまくって教会の権威を無視する人物であり、事実マルテルはウードが死ぬとまたアキテーヌ地方を攻撃している
マルテルが南部に戦争をふっけまくったため、フランスの中ではイタリアに近く先進的な都市文化が残っていた南仏は衰退した
カール・マルテル
101: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/23(水) 22:31:48.776 ID:ljajpT/Ud
なる
管理人です!
ここからが追記の部分になります(2017年9月9日)
110: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 07:56:44.429 ID:R4V3AxWjd
ドイツとオーストリアの関係教えろよ
114: あすにー 2017/08/24(木) 12:31:51.944 ID:YMM0NY1z0
>>110
オーストリアはドイツの一部でドイツ人とオーストリア人は本来同じ民族だけど
ハンガリーとかドイツ民族以外の住民を大量に抱えてるハプスブルク家の領地だったから統一国家を作るときにハブられた
中世よりずっと後の話やね
115: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 14:22:54.200 ID:BgUaQE/A0
続きはよ
日本史しか履修してなかったからオモロイんや
116: あすにー 2017/08/24(木) 15:03:22.578 ID:YMM0NY1z0
カール・マルテルの子が小ピピンである
彼はもはやお飾りでしかなかったメロヴィング家(クロヴィスの子孫)の王を廃して
自ら国王となりカロリング朝フランク王国の初めての王となった人物である
カロリングというのは「カールの一族」という意味で小ピピンの父の名に由来している
カロリング朝初代国王の小ピピン
そもそもメロヴィング朝フランク王国では王は「(長男でも弟でも嫡出・非嫡出でも問わないが)王の息子」であるという血統原理で選ばれていた
しかし王の子ではない小ピピンにはそこで新たな権威が必要だった
そこで接近したのがローマ教皇である
117: あすにー 2017/08/24(木) 15:06:33.929 ID:YMM0NY1z0
ここでローマ教皇について簡単に説明しておこう
ローマ教皇というのはローマ市の司教のことである
「十二使徒の頭」だった聖ぺトロが初代のローマ司教であることから、「うちは他の司教よりも圧倒的に偉い」という特別なプライドを持っている
ざっくりいうとこの論理を認めるか否かがカトリックと
東ローマ帝国の国教である正教会という二つの宗派の分かれ道で
時間とともに両者の相違は大きくなっていって元々は一つだった教会は分裂していくことになる
118: あすにー 2017/08/24(木) 15:32:43.579 ID:YMM0NY1z0
そんなローマ教皇だが彼もローマ皇帝の家来である変わりはない
前にも書いたがイタリアはランゴバルド王国領と東ローマ帝国領に二分されていて、後者の一部はローマ教皇が管理していた
そのランゴバルド王は領土を広げようと東ローマ領を度々侵略してた
ランゴバルドと東ローマ帝国領
危機を感じる教皇は度々東ローマ皇帝に救援要請を送っていたが、イスラームを初め多方面に敵を抱える帝国には本国から離れたイタリアに軍を増派する余裕はなかった
しかもこの時期東ローマ帝国の教会とローマ教皇=カトリックとは教義上でも対立していた
そこで教皇は東ローマではなく手近なフランク王国を頼ることに決める
120: あすにー 2017/08/24(木) 15:40:05.675 ID:YMM0NY1z0
頼られたフランク王国の宮宰小ピピンはイタリアに攻め込むと、ランゴバルドから奪った領地を教皇に「返却」した
これが「ピピンの寄進」と言われる出来事で
この時からローマ教皇は中部イタリアに広大な領土を持つ世俗の君主と宗教のトップという二足のわらじを履くようになる
教皇に恩を売った小ピピンはこんな質問を送った
「名前だけの王と、王の権利を行使するものとどちらが王に相応しいのか?」
教皇はこう答えた
「権利を行使するものこそが王にふさわしい」
こうして751年、小ピピンはメロヴィング朝の王を修道院に押し込めて、聖職者のマインツ司教ボニファティウスから塗油の儀式を受けて即位した
王という地位とカトリック教会が強固に結び付いた瞬間だった
122: あすにー 2017/08/24(木) 15:47:55.746 ID:YMM0NY1z0
宗教の話をどの程度するべきなのかまよう
124: あすにー 2017/08/24(木) 16:13:12.728 ID:YMM0NY1z0
宗教の話も簡単にしとこう
まずキリスト教はローマ帝国の国教だった、ここが重要なポイント
つまりキリスト教が広まった地域≒東西ローマ帝国の領土だった地域
アフリカとか中東、スペイン・ポルトガルはイスラーム勢力が制圧してからそちらが主流派になったが、キリスト教とが消えたわけではない
それとイギリスではゲルマン人の宗教が支配的になってキリスト教は一旦消えた
東ローマ帝国では皇帝が宗教にも強い影響力を持っていてこちらが東方正教会という宗派
西ローマ帝国はすぐに滅んだから、西ヨーロッパではローマ教皇が宗教を主導することになってこちらがカトリック
125: あすにー 2017/08/24(木) 16:24:21.067 ID:YMM0NY1z0
そしてローマ帝国の領域を超えてキリスト教が広まった国としてアイルランドがあった
アイルランドはケルト系の部族が割拠する地だったが、5世紀頃にキリスト教の修道士たちが渡って布教した
アイルランドはヨーロッパの辺境にあって大陸やブリテン島が混乱している間も平穏な時代を過ごしたので、ケルト系キリスト教とも言われる独特の宗教が育った
この国では多くの修道院ができ宗教的に重要な人物が多く現れる
イングランドのゲルマン(アングロサクソン)人やスコットランドのピクト人といった異教徒にも、アイルランド人がキリスト教を広めている
126: あすにー 2017/08/24(木) 16:38:41.970 ID:YMM0NY1z0
一方西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は最初のうちは大した力を持っていなかった
「ピピンの寄進」までは領土もないし、宗教的にも大した力はない
なぜなら西ゴート王国、東ゴート王国とその後継になったランゴバルド王国などの蛮族の国家の王たちは、
ローマ人たちとは別の宗派であるアリウス派のキリスト教を信じていたからだ
6世紀の終わりに「大教皇」と呼ばれるグレゴリウス一世が現れて
これらアリウス派の諸国をカトリックに改宗させることに成功した
さらにグレゴリウス一世はイングランドにも宣教師を送り込んでカトリックを広めた
結果としてイングランドではカトリックとケルト系キリスト教の布教競争のような様相を呈する
最終的にはカトリックが勝利してケルト系キリスト教はカトリックに取り込まれていく
127: あすにー 2017/08/24(木) 17:23:29.279 ID:YMM0NY1z0
なぜローマ帝国に侵入した蛮族はキリスト教(のカトリック)を受け入れ
さらにローマ帝国の支配を受けなかった地方にキリスト教が広まっていくのか?
それは侵入してきたゲルマン人たちは少数で、人口の圧倒的多数を占めるローマ系住民に宗教を合わせた方が統治する上で都合がよかったから
そしてキリスト教の教会や修道院はローマ時代の学問・文化を保存している唯一の機関となっていったため、
それらを知らなかった地方の支配者にとっては先進的で魅力的なものに映ることがしばしばあったから
もちろん反発を受けることもあって、たとえば小ピピンに塗油を行ったマインツ司教ボニファティウスは
フランク王国の支配が及ばないドイツに布教を行って「ゲルマン人の使徒」と呼ばれたが
最後はオランダに布教しにいった先で異教徒に襲撃されて命を落とした
彼はイングランド出身で、聖人にもなっている
カロリング王朝の時代はアイルランドやイングランドからの影響が宗教・学問的には大きい
128: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 17:35:07.597 ID:PE9y4dq90
司教の娘とか孫とか出てきたけどカトリックの聖職者に子供がいても良かったの?
129: あすにー 2017/08/24(木) 17:41:58.857 ID:YMM0NY1z0
>>128
この頃は教会も聖職者も無茶苦茶で聖職者でも妻帯してたりその地位が金で売り買いされるのが普通になっていた
中世の前期は教会よりも世俗権力の方が力が強い
あと何百年かするとそういうの良くないって改革運動が始まり教会の力も強くなる
130: あすにー 2017/08/24(木) 17:49:08.282 ID:YMM0NY1z0
もちろん聖ボニファティウスのような命がけで布教にいくような真面目な?人もいたけどね
でも有力者の親戚とかが俗人としての生活を続けたまま修道院長や司教の職を得るのが珍しくなかった
131: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 17:51:36.901 ID:+Uzla2fO0
>>129
東方正教会もプロテスタントも妻帯ありやけど
なしてカトリックだけアカンようなったん?
132: あすにー 2017/08/24(木) 17:57:14.464 ID:YMM0NY1z0
>>131
そういえばなんでだろうね?
聖パウロは「本当は俺みたいに独身でいられるならその方がいいけど、性欲で悩むくらいなら結婚した方がマシ」
って言ってて何がなんでもNGって訳じゃないんだよね
正教会も妻帯可能なのは下級の聖職者だけで司祭以上の地位になると結婚はできなくなる
プロテスタントはルターがカトリックの結婚不可って教義を廃したからだね
133: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 18:02:17.074 ID:+Uzla2fO0
>>132
ほーん、勉強なるわ
イッチの話オモロイから中世終わるまで走りきってや
134: あすにー 2017/08/24(木) 18:23:14.137 ID:Vkytti60M
文章書くの遅いけど頑張る
135: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 18:25:35.481 ID:nBvbLlh6M
面白いから応援してるよ
妻帯禁止とかしちゃうからショタに走ったり、転んだ拍子にジャガイモが尻に入ったりするんだよ
141: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 18:53:27.127 ID:XlX2EMkS0
中世ヨーロッパには生まれたくないね
薔薇の名前とか見てるとその時代の陰鬱さが見て取れる
142: あすにー 2017/08/24(木) 18:54:54.610 ID:Vkytti60M
中世の特徴は自力救済なんだよ
自分で解決できることは自分でどうにかしてね、っていうのが基本
簡単に言えばモノを盗まれた!とか身内が殺された!とかでも現代だったら
犯人を警察に捕まえてもらい然るべき裁判で量刑して国から裁きを受けさせてもらうのが解決だけど
中世だったら自分で盗まれたもの(の被害に相当する財産)取り戻した!とか自分で仇を討った!とかで解決していい
それで相手方からさらなる訴訟がなければ事件は終了
143: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 19:04:17.837 ID:nBvbLlh6M
時代と国さえ統一されてたらいいじゃない
前に聞いたのは、バロックとゴシックゴッチャになってるやんけ!とか
それフランスっぽいけどたまに出てくるイングランド何!とか
そういうニュアンスの話だった
146: あすにー 2017/08/24(木) 19:21:38.088 ID:YMM0NY1z0
だから地縁血縁もない社会から孤立した人物はたとえ殺しても訴えてくる身内がいない、と見なされてしまうので法的な保証はないも同然だった
そういう意味では小さな殺し程度じゃ動かないというのは合ってる
でもそんな社会だからこそ身内の権利侵害にとても敏感なのも中世
自力救済も別に等価である必要なくて身内が殺されたから相手と交渉して慰謝料もらったとかでもいい
148: あすにー 2017/08/24(木) 21:24:35.449 ID:YMM0NY1z0
768年、小ピピンの死後二人の息子がその王国を分けあった
カールとカールマンの兄弟である
このカールが「帝国」を復活させて「大帝」と呼ばれ、フランス語ではシャルルマーニュと呼ばれる人物
この頃にはフランク王国は西ヨーロッパ随一の圧倒的な強国に成長していた
フランク王国がどのように拡大してきたかを表した地図
ランゴバルド王デシデリウスはカールマンと同盟してカールと戦おうとしたが
カールマンは不審な死を遂げて兄のカールが全フランクを一人で支配することになった
163: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 22:29:02.112 ID:qHETys1k0
>>148
シャルルマーニュてあれか、ワインの語源になっとるんか
はえーフランク王国すごいんやなぁ
149: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/24(木) 21:25:05.140 ID:gFGW4H8H0
これは面白い
150: あすにー 2017/08/24(木) 21:37:15.227 ID:YMM0NY1z0
カールの生涯は戦いの連続だった
王位についてからほぼ毎年のようにどこかへ遠征に出掛け、自ら指揮を取った戦闘で負けたことはほとんどなかった
ランゴバルド王国もカールが攻めてくるとほとんど何もできずに774年に征服された
カールの戦争の目的は一言で言えば「キリスト教世界を守り、また広げること」だった
ランゴバルド以外にもスペインのイスラーム勢力、ハンガリーの遊牧民アヴァール人、バイエルン公国などと戦っている
特にドイツ北部のザクセン人との戦いは数十年に及び
強固に部族制社会が根付いていてキリスト教を受け入れようとしなかった彼らも最終的にはカールによって改宗させられた
カール大帝の時代にドイツのほぼ全域がフランク王国に征服され、キリスト教を受け入れヨーロッパ世界の「仲間入り」を果たしたのである
青がカール以前の、オレンジがカールが新しく征服した領域
黄色はカールに服従している地域
151: ぺろぺろ紳士 ◆p51RVEp752 2017/08/24(木) 21:38:00.244 ID:EbA9T82/0
ヨーロッパにおける教皇って日本でいう天皇陛下みたいなもん?
152: あすにー 2017/08/24(木) 21:41:07.362 ID:YMM0NY1z0
>>151
まあ皇帝よりは教皇の方が近いかもしれない
でも教皇は「ヨーロッパ」じゃなくて「カトリック」の頂点だし国を超えた存在だから現在はあまり似てないね
153: ぺろぺろ紳士 ◆p51RVEp752 2017/08/24(木) 21:48:52.306 ID:EbA9T82/0
>>152
ヨーロッパって日本でいう戦国時代から統一されていないイメージ。
織田領や武田領がそのまま現代まで残ってる感じ。
現代ではEUがあるけど、あれもイギリスの脱退で危機だし。
155: あすにー 2017/08/24(木) 21:59:33.196 ID:YMM0NY1z0
>>153
それはちょっと違うな
そもそも中世以前に「ヨーロッパ」みたいな統一体や一体感みたいなものは政府という意味でも文化圏という意味でも存在してなかった
この場合ヨーロッパという言葉は地理的領域以上の意味を持たない
ローマ帝国は近いかもしれないが、ドイツを始め東欧の大部分や北欧やアイルランドは入ってなかったし、帝国はアフリカや中東にまで延びていた
ゲルマン人とローマ人・ギリシャ人とはほとんど似たところはなかった
中世になって始めてキリスト教やローマが残したラテン文化が、
フランク王国や教会の活動などで広まっていき、その影響を受けた地域が「ヨーロッパという世界」になったんだよ
154: あすにー 2017/08/24(木) 21:54:05.058 ID:YMM0NY1z0
戦争に明け暮れたカールだが文化面での業績も大きかった
7世紀頃からローマが残した文化が消え始め西ヨーロッパは知的に低迷していたが、カールはヨーロッパ各地から学者を集めてラテン語文献の筆写や学習を盛んに行わせた
カールの最大のブレイン、アルクインはイングランド人だし、スコットランドやイタリアから来たもの、ゴート族出身の者もいた
この時に写本が量産されたお陰で消失を免れた古代のラテン語文献も存在する
現代のアルファベットの小文字もこの時に作られた読みやすい「カロリング小文字」がベースになっている
学校を作って身分の上下を問わず子供に教育を授けるという試みも行っている
この文化の復興運動をカロリング・ルネサンスという
180: あすにー 2017/08/24(木) 23:53:20.995 ID:YMM0NY1z0
こうしてローマ教皇の管轄するカトリック、キリスト教の領域とカールのフランク王国の範囲はほとんど一致せんかの勢いだった
一方でこの頃ローマ教皇と東ローマ皇帝の中はますます疎遠になっていたし、ローマ市の政情も不安定で時の教皇レオ三世は強力な後ろ楯を欲していた
西暦800年の東ローマ皇帝はエイレーネ、史上初の女帝だった
皇帝は本来男しかなれないはずなのにである
このような背景があって教皇はローマを訪れていたカールを皇帝にしてしまう
カールの戴冠
これは西ヨーロッパの東ローマ帝国からの独立宣言のようなものだった
182: あすにー 2017/08/25(金) 00:09:45.981 ID:klEvdqWN0
カールはローマ皇帝になったわけだが、完全に手放しでそれを喜んで楽観的に捉えているわけではなかった
まず東ローマ帝国との軍事衝突を引き起こす可能性がある
東ローマ皇帝って地中海の東部地域だけを治めてたんじゃないの?と思うかもしれないが、
名目上はかつて西ローマ帝国があった領域は西の皇帝の消滅後は東ローマ皇帝の統治するところということになっていたのである(実権は全く及ばなかったが)
さらに教皇の手によって戴冠されたということは自分の地位が教皇の下に立つということになりかねない
結局東ローマ帝国には帝国の一部を治める皇帝ということで妥協してもらい
さらに自分の後継者には自らの存命中にカール自身の手で共同皇帝に任命するという手順で教皇の介入から逃れようとした
183: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 00:36:30.242 ID:+xM9rlDw0
ローマがその巨大な領土と経済圏でもって強大であったことは否定しないけど
ローマが滅亡して、先端科学が欧州から失われた
というのは色々語弊があるような気がしてならない
185: あすにー 2017/08/25(金) 01:33:55.332 ID:5RK7JRDKM
しかしこの帝国はカールの晩年には暗雲が立ち込めていた
カール大帝はドイツ北部のザクセン地方を征服したが、その結果としてゲルマン人の中でも北方の人種、ノース人やノルマン人、デーン人などと呼ばれる人々と領域を接することになった
いわゆるヴァイキングである
カールの生存中フランク王国に大規模なヴァイキングが襲来することはなかったが
イングランドでは本格的な攻勢が始まっていて間もなく大陸も彼らに襲われることになる
さらに後継者の悩みもあった
カール大帝には複数の男子がいたが、父よりも長生きしたのはルイ(ドイツ語でルートヴィヒ)ただ一人だった
ルイは「敬虔帝」と呼ばれる信仰心の篤い男だったが、カールほどの覇気はなかった
このルイの時代に復活したローマ帝国(フランク帝国とも呼ばれる)は早くも崩壊への道をたどり始める
186: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 01:36:46.672 ID:A42Bimsi0
干し肉ってどう作ってたの?
187: あすにー 2017/08/25(金) 01:42:35.649 ID:5RK7JRDKM
>>186
干し肉というくらいだからやっぱり干して作ってたんじゃないかな
塩漬け肉もよくあった
どちらも水で戻して食うようなものだったらしくあまりうまくはなさそう
189: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 01:44:46.133 ID:rABt1HfO0
(話がかなりずれるけど)祭政一致って一言でそう言われることが多いけれど、その内容ってかなり多岐にわたる気がする
たとえば祭祀者が王になるのと王が祭祀者になるのとではまったく別物だし
191: あすにー 2017/08/25(金) 01:59:18.394 ID:5RK7JRDKM
>>189
そうかも
テオクラシーとかカエサロパピズムとかいろんな用語が
190: 死姉ちゃん ◆Dluid9NitI 2017/08/25(金) 01:51:15.092 ID:L6ug8nee0
ハムベーコンソーセージの歴史を調べたい
253: あすにー 2017/08/25(金) 20:35:50.161 ID:klEvdqWN0
814年、40年以上王国を統治してきたカール大帝が死んだ
西暦800年からは「帝国」でもあった彼の国は、実際カール個人のカリスマと盛んな軍事活動によって何とか統一が保たれていたような状態だったと言えなくもない
帝国の官僚制度は極めて貧弱で、帝国各地には多数の民族が住んでおり地方の独立傾向は常に存在していた
さらに四方からの異教徒の襲撃は年を追うごとに激しくなる
このような状況でカールの死後帝国が遠からず崩壊する運命にあるのは避けられないことだったのかもしれない
しかしカロリング家の内紛という王家の人々の個人的な失敗が帝国の分解に拍車をかけるのである
258: あすにー 2017/08/25(金) 20:43:47.324 ID:klEvdqWN0
カールの帝国を単独で継承したルイ敬虔帝は817年、自分がいつ亡くなっても問題が起きないように帝国の相続について取り決めを作っておくことにした
ルイ敬虔帝には三人の息子がいた。そのうち長男のロタールには皇帝位と領土の大部分を、弟のピピンとルートヴィヒ(後のドイツ人王)にはアキテーヌとバイエルンという王国を与え帝国の辺境を守らせ兄の皇帝を支えることを命じた
これを帝国計画令という
この相続計画から除外されたルイ敬虔帝の甥、イタリア王ベルナルドという人物がいたが彼は翌年に反乱を起こして捕らえられ目を潰されて死んでいる
カール大帝の後継者、ルイ敬虔帝
265: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 20:52:24.388 ID:rABt1HfO0
>>258
画像のやつ、十字架の部分だけ白文字なのね
十字もおおむね文字列にあわせて延びてるみたいだし、なんらかの意味が込められてるんだろうなあ
264: あすにー 2017/08/25(金) 20:51:09.032 ID:klEvdqWN0
そこまでして押し通した相続計画だったが823年、
妻を亡くしたルイ敬虔帝が再婚ユディット相手との間にシャルル(後の禿頭王)を儲け、妻の頼みでこの息子にも大きな領地を与えようと帝国計画令を自らご破算にしてしまったのである
これに反発したロタールがクーデターを起こしたことで、帝国は骨肉の争いへと突入していく
クーデターを起こし父を廃位したロタール一世
269: あすにー 2017/08/25(金) 21:00:37.531 ID:klEvdqWN0
ロタールの二人の弟、ピピンとルートヴィヒには父への忠誠も帝国の統一性への献身もなく自らの権力の拡大だけを望んでいた
初めはロタールに味方したが兄が一人勝ちしそうになると父を復位させロタールを追い詰めるという風に、父と兄の陣営を行き来して内乱を長引かせた
長引く内乱の中でアキテーヌ王ピピンがなくなるとルイ敬虔帝はピピンの子ピピン二世を排除して末っ子のシャルルにアキテーヌを与えようとしている
ルイ敬虔帝とロタールの対立は前者の死の時まで続いた
子らに背かれ多くの部下たちにも見捨てられたルイは840年、失意のうちに亡くなった
ルートヴィヒ・ドイツ人王とシャルル禿頭王
フランク帝国の統一をぶち壊した彼らは別の見方をすればドイツ、フランスという国を独立させることになった初めての王たちである
271: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 21:07:35.349 ID:3PHaqWPK0
王族みたいに一部の人に権力集中すると大きく影響が来るのがキツいな
ロマン主義的価値観ならそれが良いのかもしれないけど
272: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 21:08:17.077 ID:LJvTwfSm0
西方における国家総力戦の原型の初出は古代のポエニ戦争時のローマかな
この意識はローマ世界の解体でまた薄まったみたいだけど
273: あすにー 2017/08/25(金) 21:08:48.610 ID:klEvdqWN0
敬虔帝が死んでもルートヴィヒとシャルルは結託してロタールと対立を続け、841年のフォントノワの戦いが決戦となった
この戦いで大きな敗北を喫したロタールは弟たちと妥協せざるを得なくなった
そして843年、結ばれたのがヴェルダン条約である
シャルル禿頭王には帝国の西、ルートヴィヒ・ドイツ人王には帝国の東に大きな領土が与えられ、二人の弟は兄と同等の権利で王国を治めることになり実質的な独立国となった
ロタールには帝国の中央部分と皇帝の名が残され名目的には帝国のリーダーであり続けたが、817年の帝国計画令のような実権は残っていなかった
この時に誕生した王国をそれぞれ西フランク、東フランク、中部フランクと呼ぶ
カロリング帝国は三つ分裂してしまったのである
カロリング家の系図
ヴェルダン条約によって成立した三国
274: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 21:11:15.365 ID:jGkb3jD40
そいやローマ帝国亡き後のイタリアってなんでああまで弱くなったんだろ
諸外国から介入うけるまでの経緯がよく分からん
275: あすにー 2017/08/25(金) 21:16:02.509 ID:klEvdqWN0
276: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 21:19:11.724 ID:jGkb3jD40
>>275
なるほどねー長きにわたる戦乱で田畑も荒れて人も逃げて
飯も食えなきゃ兵も戦えないな・・・兵站能力もない、偉大な指揮官もいない・・・かこの時代の戦争は1人のカリスマの存在で左右されるからなあ・・・
277: あすにー 2017/08/25(金) 21:25:17.979 ID:klEvdqWN0
その後855年のロタールの死に際して中部フランクはさらに三つに分割されしまう
もはやロタールも帝国の解体を止めようとはしなかったのである
そして彼の三人の息子はいずれも後継者を残せずこの家系は断絶することになる
ロタール一世の死後三分された中部フランク王国
ピンクがイタリア王兼皇帝のルイ二世、紫がロタール二世のロタリンギア王国、オレンジがプロヴァンス王国のシャルル、
まず末子のプロヴァンス王シャルルが若くして病死し二人の兄がその領土を分割した
中フランクの北部を継承してロタリンギア王国を形成することになったロタール二世は正妻との間に子がなく、愛人との間に息子を儲けていた
だがこの時代には教会の権威が強くなりつつあり、もはや嫡出の正規の結婚で生まれた子にしか継承権が認められなくなりつつあった
ロタール二世は妻と離婚し愛人と結婚するためにローマ教皇と交渉を進めたが、二人の叔父ルートヴィヒ・ドイツ人王とシャルル禿頭王はそれを妨害した
結局869年、ロタール二世が愛人と結婚する前に死んでしまうと、二人の叔父は速やかにロタリンギア王国を占領して領土を分けあった
この時のメルセン条約が後のフランス、ドイツ、イタリアという国家の基本的な枠組みとなる
メルセン条約
279: あすにー 2017/08/25(金) 21:36:55.365 ID:klEvdqWN0
しかしいうてもイタリア都市国家が一国単位で他の大国とタメ張れるくらい強くなるのは12世紀あたりからでしょ
中世前期はひどいもんだ
280: あすにー 2017/08/25(金) 21:47:59.160 ID:klEvdqWN0
ロタリンギア王国の本来の継承者は兄のルイ二世のはずだった
しかし皇帝位とイタリア王国を受け継いだこの王は、二人の叔父に兄弟の王国が横取りされていくのを黙ってみているしかなかった
ルイ二世の喫緊の課題はサラセン人とよばれたイスラーム勢力との争いだった
イタリア半島の南部はランゴバルド系の独立諸侯と東ローマ帝国領が乱立する地域だったが、近年サラセン人までもが侵入してそこにバーリなどに国を築くようになっていた
キリスト教世界を守る皇帝としてルイ二世はキリスト教勢力が共同してサラセン人と戦うことを提唱し、二人の叔父がロタリンギアに食指を伸ばしている間も半島の南部で戦い続けていたのである
ルイ二世の戦いは871年にバーリを攻略するところまで行くものの、結局土壇場で味方に裏切られ、この同盟は崩壊し南イタリアから引き上げざるを得なかった
875年、この皇帝は失意の内に死んだ
彼にも後継男子がいなかったことからロタールの家系はこれで途絶え、皇帝位は東西フランク王家の誰かが継ぐ必要が出てきた
中部フランク王家最後の皇帝ルイ(イタリア語でロドヴィコ)二世
281: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 21:49:47.759 ID:i1ZrqX7C0
そのころはゲルマンの均等相続の影響で領土が細切れの群雄割拠状態
国と言っても緩やかな主従関係で結ばれた諸侯の連合体に過ぎんし
それが中世後期に再統一されていく
283: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 22:12:02.210 ID:i1ZrqX7C0
ゲルマン人は狩猟民族で財産と言えば土地ではなくて家畜だったからその名残
284: あすにー 2017/08/25(金) 22:14:58.476 ID:klEvdqWN0
狩猟って言うか牧畜ね
農作業より畜産が主産業って感じ
291: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 22:58:41.889 ID:LUrinTJn0
おいついた
おもしろいなぁ
292: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 23:01:08.070 ID:LUrinTJn0
しかしゲルマン人がローマに勝てたのが信じられないな
293: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 23:05:15.061 ID:LJvTwfSm0
>>292
3世紀あたりからゲルマン側がぐんぐん成長したってのもあるけど
時同じくしてローマ側が内紛やら経済崩壊やらで急激に弱まっていったてのもある
ちょっとひどい言い方をすると病気がちの老人を襲撃した感じ
294: あすにー 2017/08/25(金) 23:08:50.856 ID:klEvdqWN0
ローマはむしろ三世紀の危機の時代に崩壊さず一時的に持ち直したのがすごい
あそこまでいったら普通そのまま滅ぶやろ
297: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 23:18:04.225 ID:LUrinTJn0
ゲルマンはローマの都市を破壊し焼き付くしたの?
300: あすにー 2017/08/25(金) 23:28:21.281 ID:klEvdqWN0
>>297
古代末期から中世前期にかけて都市の規模は縮小傾向だが都市自体が消滅したところはほとんどない
301: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 23:37:58.651 ID:i1ZrqX7C0
>>297
ゲルマン人達は黄金にしか興味が無かったので
大理石の彫像などは価値を理解できなかったので放置されてる
それらを破壊したのはキリスト教化したローマ人自身
303: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 23:53:26.126 ID:rVyASLUJ0
中世ヨーロッパならではの職業ってどんなのがあるの?
304: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/25(金) 23:54:14.052 ID:9zqS8qeR0
ローマ時代の街道に使われてた石を剥がして城壁とかに使ったってマジ?
305: あすにー 2017/08/25(金) 23:58:35.312 ID:klEvdqWN0
>>303
なんだろ、「中世だけ」ってうのはあんまり思いつかないな
中世にいた職業はだいたい他の時代にもあるしなぁ
>>304
過去の建築物から石材分捕って再利用するのは古今東西ごく普通にあることなのでマジなんじゃないかな
308: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 00:02:30.957 ID:P1Z2xQpE0
>>305
今だとめっちゃ廃れてるけど当時はめっちゃ職業人口多かったんだぜとか
そんなんでもいいから
311: あすにー 2017/08/26(土) 00:07:22.180 ID:HCjqG/o00
>>308
じゃあ粉引き屋とか?
農民は収穫物を勝手に小麦粉とかに加工することは許されておらず
水車等を管理する地域の粉引き屋にお金を払って粉にしてもらわなければならなかった
そこから領主は税を得てるから勝手に粉にするとのは脱税みたいな重罪
水車や風車とか複雑な機械は作るのに技術いるし真似されたくないから利権を産む
312: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 00:08:51.157 ID:P1Z2xQpE0
>>311
へえー収穫物を加工するだけでもダメなのか
自分の取り分でもあかんの?
314: あすにー 2017/08/26(土) 00:28:20.363 ID:HCjqG/o00
>>312
細かいルールはケースバイケースだったら部分的に認められているところもあったかも知れない
315: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 00:30:33.873 ID:P1Z2xQpE0
>>314
サンクス。十分面白いよ
他にも面白い職業あったら気が向いたときにでもおせーて
340: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 13:07:48.936 ID:zlM9wTgK0
中世のベルギーのたち位置を教えてほしい
国力や力関係とか、、、
341: あすにー 2017/08/26(土) 14:51:57.885 ID:HCjqG/o00
>>340
ベルギーというかあそこらへんはオランダと一纏めにネーデルラントと呼ばれていた
ベルギー中心の地方はフランドルやね
最初はフリジア人とよばれていて、カロリング朝の時代にフランク王国に組み込まれてキリスト教化した
ネーデルラントは中世の真ん中あたりにはフランスや神聖ローマの支配下だったけど
実態としてはかなり独立性の高い地域でフランドル伯は半分独立君主みたいなもんだった
中世から都市が発展して西ヨーロッパ随一の経済力を持つ地域になった
中世の後期にはブルゴーニュ公家と合体して、そこからハプスブルク家領になる
小国だが発展しててお金はある、ってイメージ
342: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 17:21:17.597 ID:yivntks+0
>>341
サンクス
国力もあって金持ちだったんだな・・・たしかに今でも美しい中世の街並みがよく残ってる俺が唯一行った外国でもあるから感慨深い
あと、ハンガリーってww1の時はオーストリアと併合して大した反発もなかったが中世も持ちつ持たれつみたいな関係だったのかね
344: あすにー 2017/08/26(土) 18:00:29.060 ID:HCjqG/o00
>>342
ハンガリーとオーストリアがハプスブルク家の元で合体するのはちょうど中世と近世の境目あたりの時代だね
オスマン帝国と戦いでハンガリー王ラヨシュ二世が戦死したからその姉妹の嫁ぎ先だったハプスブルク家に王位が転がりこむことになった
それ以前の中世の間は結構別々の歴史の歴史をたどっていた
343: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 17:21:51.784 ID:aOt/IQJ00
ブルゴーニュ公国って裁判所がおかれ夜盗がでてこないほど治安がよかったと聞いたことがあるのですが本当ですか?
344: あすにー 2017/08/26(土) 18:00:29.060 ID:HCjqG/o00
>>343
裁判所はどこにでもあったけどブルゴーニュ公国は
中世後期のヨーロッパで最も先進的な国の一つだったから治安良くても不思議じゃないね
346: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 19:10:14.394 ID:b9ElYtBP0
ブルゴーニュってフランスの臣下なのに本家フランスより権威と影響力あったよな
まあフランスが当時相当落ちぶれてたのが大きいけど
347: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/26(土) 19:33:06.199 ID:BAO4dmSY0
カール大帝が読み書きできなかったとは
いつまでそんな感じなの?
348: あすにー 2017/08/26(土) 19:59:53.599 ID:HCjqG/o00
>>347
多分11世紀から13世紀くらいかけて徐々に改善されていった感じだと考えていいと思う
中世の中期になると商業が発展して商人にも読み書きの能力が求められるようになって、
都市の発達したイタリアみたいな地域から先にリテラシーが普及していった
ちなみに当時は読み書きされる価値のある言語はラテン語だけで、他の言語はそもそも文章にされることがほとんどなかった
カール大帝の母語はゲルマン系の言語だけど宗教・行政上必要とされるラテン語も口頭ではペラペラだった
そしてこういう人たちの場合側近の聖職者が文章を読み聞かせて喋ったことを記録するのもやってくれるから
貴族に読み書きの能力は必要とされていなかった
だからカールも子供の時にその手の教育を受けることがなくて、大人になってから本人の希望で練習したけどほとんど身につかなかったみたい
356: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/27(日) 00:53:33.100 ID:gF+/7jUx0
役職ってどんなのがあったの?
国王の下の内政外政をする大臣
関所を守る人
騎士を束ねる人
村や街を治める人
これらはなんて呼ばれてるのかがわからない
360: あすにー 2017/08/27(日) 02:43:13.594 ID:hBmjQGrJM
>>356
イギリスだと
大法官(チャンセラー)
わからん、関守とか渡守?
元帥(マーシャル)
村や街を治めるのは領主で、伯だったり公だったり王だったり司教だったりいろいろ
村を実際的に管理してるのは領主の執事(スチュワード)とかいう役職の人
街の場合は市長(メイヤー)
そもそも中世の前期には王家の家政機関、つまり王様の家のことを取り仕切る召使いの集団の業務が国政とイコールだった
それが中世の中頃から独立した機関になって大法官府や財務府というものができるようになる
358: ぺろぺろ紳士 ◆p51RVEp752 2017/08/27(日) 01:46:45.709 ID:nRsUV6UM0
中世ヨーロッパはローマ時代より衰退したみたいに言われるけど、
農業生産力は上がったんじゃないの?
三圃制とか鉄製農具とかで。
360: あすにー 2017/08/27(日) 02:43:13.594 ID:hBmjQGrJM
>>358
うん、10世紀とか11世紀頃からはそういう農業技術の進展でローマ時代の全盛期を超えた人口を養うことができるようになるよ
逆にいうと5世紀にローマが滅んでから500年くらいは人口が減少、停滞していたということでもある
361: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/08/27(日) 02:48:31.647 ID:mIx7/31Gd
あすにーもう本一冊くらい書けるんじゃね?
362: あすにー 2017/08/27(日) 02:50:39.435 ID:hBmjQGrJM
それはむりー
363: あすにー 2017/08/27(日) 02:51:43.078 ID:hBmjQGrJM
このスレも早く続きを書かないとと思いつつ自分のあまりの文章作成能力のなさに二の足を踏んでいる