「近親者が死にすぎる!」ナゾの夫が行方不明
第二次世界大戦が終わってから3年後の昭和23年(1948年)11月17日。全国紙に突如、奇妙な見出しの記事が掲載された。
「近親者が死にすぎる 姿を消した男に疑い」
記事によると、東京都中野区に住む田村正治(仮名)という32歳の男性の行方を中野区野方署が探している、という。
さて、この田村という男。素性について調べてみると、とんでもない事実が次々に明らかとなった。
田村は1947年前後に同い年の女性とお見合い結婚をしたのだが、1948年の5月に
結婚相手の女性およびその父親が相次いで死亡。田村はその後、別の女性とお見合い結婚し生活していたことから、中野区野方署は田村を
殺人の疑いがあるとし行動をマーク。
しかし、妻の死因は田村との間にできた子供の
死産による病死、義父に関しては胃ガンによる死亡であったことが明らかになったため、野方署は田村のマークを一時的に解いていた。
だが、11月に入り田村は死亡した妻以前にも、7年の間に2度の結婚をしており、
妻が全員死亡しているという事実が判明。さらに田村は11月に入り、またも新しい妻(つまり4番目)と結婚し、さらに3番目の妻の財産を売り払い、4番目の妻とも離婚し行方が知れていないところから、野方署は田村を財産狙いの連続殺人の疑いがある人物として再度行方を追うことにしたのだ。
果たして、田村は戦後の日本が生んだ稀代の「シリアルキラー」なのだろうか……。
「ナゾの男」逮捕される
この事件が全国紙の新聞に掲載されてすぐの11月17日の14時頃、田村は警察に身柄を拘束……というか、田村本人が交番へ出頭してきたのだ。
「あの記事は正しくない!」
田村本人いわく、財産を売り払ったのには特に悪意はなく「遺族が自分しかいなかった」また、結婚した相手が次々と死亡した事実については
「全員病死で事件性はない」と訴えているのだ。
田村の自供によると、最初の妻はお見合い結婚で昭和19年(1945年)に
24歳で肺炎で死亡。最初の妻との間には娘がいたことから、親族である最初の妻の妹と結婚したが、
2番目の妻も1947年に24歳で病死しているのだ。
そして3番目の妻は前述の通り、死産により死亡。後に義父も失っている。
4番目の妻となっている女性は1947年11月17日付の読売新聞のインタビューに答えており、「悪い人ではないのだ生活力はなかった」「思いつめたような一日、口をきかないこともあった」と証言している。
次々と明らかになる新事実…
この記事は当時大きな反響を呼び、今とは違い数ページしかない新聞紙面のなか、2日続けて報道された後、翌日11月19日にも続報が全国紙に掲載された。
記事によると、なんと田村は「ナゾの夫」の記事が掲載された翌日の18日、
別の女性とお見合いする予定(つまり5番目の妻)であった事実が公表された。
このお見合いをセッティングした結婚相談所および、お見合い相手の女性は、報道された
新聞の記事を見て驚きお見合いを中止している(田村はこの時点で逮捕済み)。
さらに翌日の11月20日にはまたも続報が掲載された。
記事によると、なんと田村は都内某所の法律相談事務所へ財産処理の相談の投書していたことが判明したのだ。
この投書には
「親戚のいない新婚の妻と義父が相次いで亡くなってしまい財産の件で悩んでいる。どうしたらいいか」と書かれていたという。
つまり、田村は(アリバイ作りの可能性はあるにしても)、単に
財産目当ての殺人である可能性は薄いことが明らかになった。
話がやや複雑になってきたので、改めてここで時系列をご紹介しよう。
時系列にまとめると、田村という男の近辺でいかに多くの死人が出ていたか、おわかりいただけるだろう。
【ナゾの夫事件の動きと新聞報道】
1941年未明→一人目の女性とお見合い結婚。後に一人娘をもうける。
1945年08月→一人目の女性が肺炎で死亡。
1945年11月→二人目の女性(前妻の妹)と結婚。
1947年08月→二人目の女性が病死(原因不明)。※遺された一人目女性との間の子は妻の実家へ預けられる。
1947年10月→三人目の女性とお見合い結婚。
1948年05月→三人目の死産により母子ともに死亡。義父も胃ガンで死亡。
1948年同月→妻の実家の財産処理を行うため法律相談所へ相談。怪しんだ野方署がマーク(後に解除)。
1948年06月→四人目の女性とお見合い結婚。
1948年11月未明→四人目の女性と離婚。三人目女性の実家の財産を売り行方をくらます。野方署が過去2名の妻が死亡していることを突き止め捜査を開始。
1948年11月17日→「ナゾの夫」の見出しで新聞掲載。
同日 →本人が出頭し逮捕。「全員病死である」と訴える。読売新聞に四人目の女性のインタビュー掲載。
1948年11月18日→結婚相談所紹介の女性(事実上五人目)とのお見合い予定だったことが判明。
1948年11月19日→お見合い予定だった記事が新聞掲載。
1948年11月20日→財産処理について法律相談所へ相談へ行った事実が新聞掲載。
1941年~48年のわずか7年で、3人の妻、1人の義父、赤ん坊(死産)が相次いで亡くなったこの事件。偶然にしてはあまりに死人が出すぎたこの男の近辺。果たしてこの男はいったい…?
死神につかれた男…?
そして11月30日。この不可解な事件は突如、結末を迎える。
田村の身柄を拘束していた中野区野方署は11月29日付で、
田村を身分保留のまま釈放した。
疑いは残ってはいるが、
どこをどう調べても3人の妻および近親者の死はすべて医師の診断書付きで病死であり事件性がなく、また遺された財産の処理について、弁護士に相談したりといった常識的な行動が見られたことで、警察としても釈放せざるを得なかったのだ。
田村は釈放される際、その後のことを尋ねられ「死んだ妻の霊を弔うため信仰の力を使い再出発したいです」と寂しく語っていたという。その後、田村が幸せに暮らせたかどうかは定かではない。
なお、毎日新聞では後日、本事件を「死神の夫」という見出しでこの事件を報道していた。
「死神」とは確かに彼の体質を的確に表した言葉ではあるが、果たして田村という人間の正体は、「死神」ではなく、人並みの幸せを願いながらも、神様のいたずらか何かしらの要因で果たすことができなかった、世にも不幸な男の姿ではなかったのだろうか。
事件から70年。戦後の日本には確かに「ナゾの夫」は実在したのである。
参照:朝日新聞縮刷版 読売新聞縮刷版
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