優秀賞4話目『声』
ペンネーム:やるら
もう今から20年近く前、当時私は小学校低学年で、都内某所の少しくたびれたマンションに住んでいました。父親が警察官で、そのマンションは警察の家族が住めるものだったと記憶しています。
本当かどうかは分かりませんが、近所に住むおばさんたちが、昔この場所は刑場でたくさんの人間がここで殺されたんだと噂をしていました。
私はその噂は概ね本当なのだろうな、と子供ながらに思っていました。何故ならその頃私は日常的に、マンションやその周辺で幽霊を見ていたからです。
少し開いた玄関の扉の先から手首から先だけが覗いていてこちらに手招いていたり、深夜に目が覚めると4階なのにカーテンの向こう側に人が見えたり、寝ていると枕元で誰かに話しかけられるのはしょっちゅうでした。
子供でしたので、見たものや聞いたものをそのまま家族や他人に伝えて、その度に気味悪がられて、遂には叔父さんに「幽霊が見えても何も言うな」と軽く怒られてしまったことがあります。そこで初めてこういうのは異常でおかし
な事なのだと理解し、それからは目の前でどんな不思議なことが起きても、誰にも言わないようにしていました。
これはそんな夢か現かの区別もつかない頃の私が体験した、今でも鮮明に覚えている不思議な話です。
その夜、私は誰かの声に起こされました。
「ねぇ、起きて」
まるでこれから遊びにでも誘うような、そんな楽し気な子供の声がすぐ耳元で聞こえてきました。
「ねぇ、早く起きて」
その声の主は、私が使っていた枕の縁をとんとんと叩きながら、非常に楽し気な様子で私の耳元で囁き続けました。
「ねぇ、起きて。面白いもの見れるから。ねぇ」
明らかに相手が人間じゃないのは分かりましたが、あまりにその陽気で無邪気な声色にあまり怖いという感情は湧いてきませんでした。
そしてその時、私はもう眠くて仕方がなかったので、その声の主に対して無視を決め込むことにしました。
今まで寝ていて声をかけられたパターンの時は、目をつぶってやり過ごせばそのうち声も聞こえなくなっていたからです。
だがその日の声の主は中々いなくなってくれませんでした。
「ねぇ起きて。面白いもの見れるよ。ねぇ起きて 面白いもの見れるよ」
まるで壊れたレコードみたいに、声の主は同じ台詞を何回も何回も僕の耳元で囁き続け。るのです。そしてその声は時間が経過するにつれ段々と変化していきました。
「ねぇ起きて! ねぇ起きて! ねぇってば! ねぇ!」
段々と枕を叩く音にも力が込められて、語気もどんどんと強まっていきます。
「面白いもの見れるよ! 面白いもの見れるよ! 面白いもの見れるよ!」
やがてその声はとても無視できるものではなくなりました。
穏やかで楽し気だった声の調子はどんどん激しくなって、囁くようにゆっくりだったスピードも急かすようにどんどんと早くなっていきました。
僕の耳元で狂ったような音量と勢いで何回も同じ言葉を繰り返して、必死に僕の気を引こうとしてくるのです。
機械的に繰り返されるリズムと、耳が痛くなるぐらいの声のボリュームにとうとう耐えられなくなり、
「うるさい!!」
僕はそう言いながら、目を瞑ったままそう叫んで体にかけていた毛布を一気に頭まで引っ張り、そこへもぐりこみました。
すると、さきほどの騒ぎが嘘みたいに、辺りには静寂が戻り、横で寝ていた家族の穏やかな寝息が聞こえてきました。
久々に訪れた静寂に安心して寝返りをうつと、
「起きろ」
今度ははっきりとした低い男の声でそう聞こえました。
驚き、弾かれた弦のように勢いよく体を飛び起こして、辺りを見まわします。
けれど周囲には何の気配はなく、眠りこける家族以外には誰かがいる様子は全くありませんでした。
地の底から響くような男の恐ろしい声に驚き、バクバクと鳴る胸を抑えながら前方に視線をやると、いつもはきっちりと閉まっているはずのカーテンが少し開いていて、そこから微かに月の明かりが差し込んでいました。
なんとなしにそれを眺めていると、窓の外に黒い影が落ちていきました。
それは上から下へとあっという間に過ぎて、そして少しの間を置いてからドンっと言う何かがぶつかったような鈍い音が聞こえてきました。
途端に私は急に怖くなり、慌てて布団を頭から被りました。今、自分は見てはいけないものを見てしまった。幼心に僕はそう思い、強く目を閉じて必死に眠るように努めて、やがて気を失うように眠りに落ちました。
普段は起きないような早い時間に目が覚めて、リビングに行くとゲッソリとした表情をした母親がテレビを見ていました。
私が朝の挨拶をしようとしたら、母は私の顔を見るなり聞いてもいないのにその表情の理由を教えてくれました。
「このマンションの屋上で飛び降り自殺があった」
母が朝の5時頃にゴミ出しに行ったとき、ちょうど担架で運ばれるその死体を見てしまったそうです。担架には白い布が被せられていて、全体は見えなかったそうですが、ぶらりとそこから垂れた腕が紫色に変色していた、まくしたてるようにそう言うと母はまた陰鬱な表情で朝のニュース番組へと視線を戻しました。
「面白いもの見れるよ」
母の話を聞きながら、私は昨日の声と、落ちていく影のことをすぐに思い出しました。けれど気持ち悪がられるだけだと思い、黙っておくことを選びました。
後日分かったことですが、飛び降りた方は少し離れた場所に住んでいた30代の主婦。育児ノイローゼだったんじゃないかと、周囲の人たちは噂をしていました。
ただ電車で数十分かかるような場所に住んでいる主婦が何故、電車も止まっている時間にその場にいたのか、何故多く立ち並ぶマンションの中から特別背か高い訳でもない私が住んでいるマンションを選んだのか、今思えば不思議なことがたくさんあります。
全て偶然だと言えばそうかも知れませんが、私は、彼女は声の主に呼ばれてしまったのではないかと思っています。なぜそれを私に見せようとしたのかはさっぱり検討もつきませんが。
現在そのマンションは取り壊されて更地になっており、最早声の主が一体何だったのかを確かめる術はありません。
ただ、今でも時折あの時の子供の楽しそうな声と、男の悪意のこもった声を思い出して眠れない夜があります。