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    【読み物部門】厳選6話



    この記事では、まるで小説を呼んでいるような気持ちにさせてくれる話を6話ご紹介させていただきます。
    どのお話も独特の世界観に惹き込んでくれます。

    目次

    ● 簡単なバイト 名無し(記載なし)様
    ● 四国遍路 椿 拓実様
    ● 笑子(えみこ) 一鶴様
    ● あの夏の日の勇気を私は今でも忘れない 名無し(記載なし)様
    ● 白い波頭 ニコG様
    ● 死臭 ニコG様





    簡単なバイト

    ペンネーム:名無し(記載なし)

    当時、ぐうたらな学生であったわたしは割の良いバイトを探していた。

    政令指定都市と謂えども東北の漁村で育ち、猛勉強の末念願かなって東京の大学にはいり、都会で大フィーバーしたわたしは、無駄遣いがすぎた。

    今思えば、流行りの洋服やら靴やらに散財するより、学生時代にしかできない長期の旅行などにお金を使えばよかったと思うが、それはもうどうしようもない。

    ***

    とにかく、当時のわたしにはお金がなかった。
    そんなわけで、先輩のツテやら求人広告やらでバイトを探してたんだけど、とある先輩がいいバイトを紹介してくれることになった。

    なんでも数時間、ちょっとした事をするだけで10万円くらい貰えるらしい。

    エッチなこととか怪しい犯罪行為は嫌だったので、その先輩に確認したが、ゼッタイに安全だし違法性はないとのことだったので、事務所の地図を貰い、その場所に向かった。

    ***

    バイト先の事務所は派手さはないがこざっぱりとした清潔なオフィスで、わたしは胸をなでおろした。汚い雑居ビルのチンピラの事務所みたいなのを想像していたからだ。

    そこで眼鏡をかけた、これまたこざっぱりしたスーツ姿の男性と面接したのだけど、仕事の目的がちっとも理解できない。

    ともあれ、即日バイト代が出るので、これから仕事をしないかと言われ、金欠であったわたしは、良く事情が呑み込めないまま、とりあえず頷いた。

    仕事の内容は『指示された江戸川のとある場所にいって、そこに置いてあるロープが付いた石を川に投げこめ』で、あった。それだけである。

    私は地図を渡され、電車でその場所に行き、ロープが結び付けられた石を川に投げ込んだ。おわり。仕事オワリ。終了。ミッション・コンプリート。

    事務所に戻ると、さっきの担当の男性から3万円が入った封筒を貰った。なにこれ・・・おいしすぎる!!!

    ***

    その後、何度か電話がかかってきて様々な依頼を受けた。『○○県の〇〇橋の歩道に30分立ってろ』とか、『どこどこの自動販売機でコーラを3本買って適当なホームレスに配れ』とか、カラオケ店を紹介されて、『そこで3時間ヒトカラしろ』とか、意味不明な依頼ばかりだったが、その都度、数万円が貰えたので、まぁいいか、と思うようになっていた。

    ***

    あるとき、出張込みの依頼が来た。
    なんでも『東京近郊の有名な温泉地の崖の上からブロック塀に使うコンクリートブロックを落とす』、だけの仕事らしい。
    その温泉地に興味があったわたしは、旅行もかねて仕事を請けた。

    旅館にチェックインすると、フロントで初老の男性がロビーでなにやら揉めていた。
    チェックインをしながら聞き耳を立てていると、「ここに置いてあったカバンを知らないか」、「あの中には大事な薬が」、「わたしは持病がある」等の内容であった。

    しばらくするとその男性は「大事な用事がある」とかで、足早にホテルを出ていったが、わたしには関係ない。

    チェックインして部屋に荷物を置き、指定した時間に指定された場所へ行き、置いてあったブロック塀用のコンクリートブロックを、崖の下に落とす。ミッション・コンプリート。あとは温泉を楽しむだけ。なんて楽な仕事だろう。

    ***

    旅館に戻る途中、古民家風のカフェがあったので入ってみた。まぁこういうあざとい『古民家風』みたいな町おこしは好きじゃないが、喉が渇いたので仕方がない。

    アイスコーヒーを注文する。後ろの方の席で、若い男性が興奮ぎみに話しているのが聴こえた。

    「いや~今回も楽なバイトだったよ、橋の上で20分タバコ吸ってただけで5万だぜ?5万!」、「なんかハゲたジジィがタバコに顔しかめて、どっか行ったけど、そんだけで5万!www」とかはしゃいでいる。

    あれ?

    わたしと同じようなバイトの人が同じ場所にいる。違和感を感じた。

    ***

    その夜は温泉を楽しみ、料理に舌鼓し、眠った。

    翌朝、旅館の朝食を食べながら、フロントに置いてあった無料の地方新聞を読んでいたら、昨日心臓発作で男性が亡くなったという記事が目に入った。

    あれ???この男性、昨日この旅館のフロントでカバンを知らないか、と言っていた人じゃないのか?『つり橋が壊れ、薬も持っておらず、壊れた橋の場所で死んでいた』らしい。嫌な予感がした。

    ***

    数日後、東京に戻って、学校で先輩に会った。まだバイトは続けているのかと聞いたら、続けている、とのこと。
    なんでも、最近の依頼は『とある温泉地の旅館で、落とし物のカバンを隣町の交番まで届ける』だったらしい。わたしがコンクリートブロックを落としたあの温泉地だ。旅館も一緒だ。

    わたしは地図でコンクリートブロックを落とした場所を調べた。男性が亡くなっていたつり橋があった場所と一致する。つまり、つり橋を壊したのは私???

    先輩が交番にカバンを届け、男性から薬を奪う

    古民家カフェで話していた男性が別の橋でタバコを吸うことで、急いでいるタバコ嫌いの男性が別の道を選択する

    男性はボロイつり橋を渡り目的地に向かうが、その橋はわたしがコンクリートブロックを投げ込んで壊している

    発作を起こした男性がつり橋を戻ろうとするが戻れず、死亡。

    そんな自分の想像に身震いする。

    おそらくだが、他にも何人もの『バイト』が『簡単な仕事』につられてその男性の死に関わっているのではないか、とすら思える。
    殺意のない暗殺者だ。

    突然、電話が鳴った。バイト先からだ。



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    四国遍路

    ペンネーム:椿 拓実

    徳島(発心の道場)
    「新婚旅行は試練がなければならない。決してバカンスに非ず」
     ――それが厳格な父の教えだった。
     その言葉通り、式を挙げた六月。勢いそのまま、五泊六日のスケジュールで四国八十八カ所霊場巡拝を課すことにした。一般的には、車での巡礼は十日を要すると言われていることから、この旅が如何に強行軍であるか分かるだろう。
     そしてとうとう、全行程一四五〇キロという果てしのない旅が始まった。きっとこの修行を積んだ暁には、互いの結束が高まっているだろとそう信じて……。 

    「山深いなぁ」
     ため息交じりに妻は呟いた。徳島県内の巡礼を順調に終えて、十二番札所「焼山寺」に向かう三十キロの道中でのことだった。この経路は「遍路ころがし」の異名を誇るお遍路泣かせの道である。
    徳島県内の巡拝を開始して直前の十番札所まではスムーズに進めることが出来た。ところが、前の十一番から様子が一変した。車幅ぎりぎりの峠道に二人は慄いてしまった。ガードレールもなく一歩間違えれば、転落してしまう。正に「生」を感じ、自分の鼓動が脈打つのが分かった。
    レンタカーで山道の険しい道を丹念にハンドルを切る。車内は自然と沈黙が続いた。

    高知(修行の道場)
    三日目の行程は室戸岬から始まった。辺りは生憎の雨模様であり、車窓から見える海は荒れていた。
    この日から妻の奔放さが目に余るようになった。
    何寺か廻った後、妻が突然「坂本龍馬記念館を見物し
    たい」と言い出したのだ。三十七番札所「岩本寺」に到着する直前のことだった。「何を今更」というのが正直な気持ちだ。今来た道を六十キロ戻って桂浜まで戻ろうというのである。
    「今から引き返したら、八十八廻れなくなるかもしれない。悪いが、泣いてくれ」
    私が子どもを諭すように言うと妻は「分かった……」と一言だけ呟いた。
    確かに高知県内の巡拝は、霊場がそれぞれ離れた場所に位置しており、長距離移動の連続だ。退屈なドライブだろう。――しかし目標を貫徹しなければならないのだ。

    「岩本寺」から約一時間半経ち、四国最南端、足摺岬の突端に位置する三十八番寺「金剛福寺」に到着した。
    助手席で寝ている妻に「おーい着いたぞ」と呼びかけた。
    すると、「私は車酔いしてしまったから、ここで待ってる」と言い出した。
    ――「それじゃあ何のために百キロの道程を来てるか分からないじゃないか」という言葉が喉元まで出かかったが、寸前のところで飲み込んだ。
    体調不良では仕方ないだろう。早くホテルに向かって休ませてやろう。

    愛媛(菩提の道場)
    早朝から巡礼を始めて早や十二時間が経過して、我々は四十五番寺「岩屋寺」に向かって車を走らせていた。辺りは霧が立ち込めており、視界は不鮮明だ。

    五十番札所「繁多寺」に向かう道中、とうとう夜も深くなってきてしまった。「私はここで降ります」と妻は掠れた声で言った。
    「一体、何を言ってるんだ。こんな夜更けに危ないだろう」
     私が厳しい口調で言っているが、妻は意に介さず明後日の方向をボーッと見続けている。まるで夢遊病者のようで甚だ不気味だ。出会って二年になろうとするが初めてみる表情だった。
     しかしそれ以降、なるべく気に留めないように車を走らせた。すると突然「バタン」と音がした。走行中にも関わらず、妻が助手席の扉を開けていたのだ。
    「おい、何をやってるんだ」
     驚いて急ブレーキを踏んで停車すると、妻はスッと立ち上がり「先にお寺さんで待ってます」と消えそうな声で言うと、そのまま闇の中に消えてしまった。私は呆然としてしまい、しばらくは何も出来ずにいた。
    「もう何が何だか。訳が分からない」
     ハッと我に返り、妻の携帯電話に連絡するが、電源が切られている。とてつもない不安に駆られた。車を路肩に停めて妻の後を追った。
    きっと「繁多寺」の境内で待っているだろうと淡い期待を胸に駆け出した。
     ――自分の何が悪かったのだろう? そもそも新婚旅行で「お遍路」をすることが誤りだったのだろうか。そういえば妻は海外に行きたいと言ってたなぁ。その意見を半ば無視するような形で独断専行してしまった。八十八全て廻ることより大切なことがあるじゃないか。あるじゃあないか。――この時やっと気付いた。

     間もなく「繁多寺」に到着すると辺りは暗く静まり返っていて、頼りになるのは月明かりのみであった。
    「おーい! ○○どこにいるんだー」
     精一杯、妻の名前を叫んだ。しかし広い境内には自分の声が虚しく木霊するばかりだった。

     ……タシカ最後二『寺で待ってる』ッテ言ッテタナ。
     ……一体何処ノ札所二イルノダロウ? 捜シニ行カナクチャ。

    香川(涅槃の道場)
     六十六番札所「雲辺寺」……大興寺神恵院観音寺本山寺弥谷寺曼荼羅寺出釈迦寺甲山寺善通寺 金倉寺道隆寺郷照寺天皇寺國分寺白峯地根香寺一宮寺屋島寺八栗寺志度寺長尾寺大窪寺・長尾寺 志度寺八栗寺屋島寺一宮寺根香寺白峯寺國分寺天皇寺郷照寺道隆寺金倉寺善通寺甲山寺出釈迦寺 曼荼羅寺弥谷寺本山寺観音寺神恵院大興寺雲辺寺 伊予(菩提の道場)
     三角寺前神寺吉祥寺宝寿寺香園寺横峰寺国分寺仙遊寺永福寺泰山寺南光坊延命寺圓明寺太山寺 石出寺繁多時浄土寺西林寺八坂寺浄瑠璃寺岩屋寺大寶寺明石寺佛木寺龍光寺観自在寺 土佐(修行の道場)
     延光寺金剛福寺岩本寺青龍寺清滝寺種間寺雪蹊寺禅師峰寺竹林寺善楽寺国分寺大日寺神峰寺金 剛頂寺津昭寺最御崎寺 阿波(発心の道場)
     薬王寺平等寺太龍寺鶴林寺立江寺恩山寺井戸寺観音寺国分寺常楽寺大日寺焼山寺藤井寺切幡寺 法輪寺熊谷寺十楽寺安楽寺地蔵寺大日寺金泉寺極楽寺霊山寺

    ――――。 何処ノ寺ニモ妻ガイナイ。 (了)



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    笑子(えみこ)

    ペンネーム:一鶴

    オチらしいものはないが、いつか整理して文章にしたいと思っていたので、この機会に。

    永峰笑子が死んだ。
    そのニュースは悲しみと動揺を伴って全校に広まった。

    彼女とは同じ学部で、話した事はなかったが、一方的に顔は知っていた。
    行き遭えば振り向かない者はいない程度の美人で、学内ではちょっとした有名人だったからだ。

    遺体は都内の公園で発見された。
    園内の貯水池に浮かんでいたらしい。
    そこは定番の行楽スポットのひとつで、大学生が出掛けたとしても不思議な場所ではない。
    遺書などは見つかっておらず、事件と事故の両面から捜査がなされているとのことだ。
    葬儀は遺族と親しかった友人で執り行われ、俺の知り合いも何人か参列したと聞いた。

    都心にほど近い閑静な大学は、悲哀な雰囲気に包まれていた。
    この女子学生死亡・失踪事件によって。

    そう。
    笑子の事件と時を同じくして、同大学の学生が更に1名、行方不明になっていたのだ。
    彼女の名は佐々木真名。
    俺の通う大学の2年生であり、高校からの同級生でもある。
    高校時代から顔馴染みではあったが、同じ大学の同じ学部に通い始めたのがきっかけで親交を持つようになった。

    入学当初は互いに知り合いも少なかった為、2人で履修科目の情報を交換しながら、授業を選んだりもした。
    そうすると当然、授業で顔を合わせることも多くなる訳で、定期試験の期間には、ノートや過去問を共有する仲ではあった。

    しかし、2年に進級すると話す機会はめっきり減った。
    それぞれ異なるコミュニティに所属するようになり、そちらの仲間と履修を被せるようになったからだ。
    俺も入会したアメフトサークルの連中と過ごす時間が増え、真名とは疎遠になっていった。
    そうは言っても、校内で顔を合わせれば、足を止めて与太話をするくらいの間柄で、失踪前に会った時には充実した学生生活を送っているように見えた。

    永峰笑子と佐々木真名。
    2人には接点があった。
    学内のアナウンス研究会、通称アナ研に2人共所属していたのだ。
    真名が笑子の話題に触れたこともあったし、2人が一緒にいるのも見かけたことがある為、親しくしていたのではないかと思う。
    むしろ、同じ大学・同じ学部・同じ学年で同じサークルとくれば、仲良くなるのが自然だ。
    同族嫌悪で気不味くなることも、ない訳ではないと思うが。
    ただ、あの2人を同族と括るのはいささか無理がある。
    真名が快活で親しみやすいキャラクターだとしたら、笑子は物静かで、謎めいた雰囲気のあるタイプだ。
    同族と言うより、正反対の属性だったように感じる。
    そんな2人が仲良くお茶でもしに行って、事件に巻き込まれたのだろうか。
    真相はまだ明らかになっていない。

    何にせよ、俺の身近で2人の人物が消えてしまったのは事実で、学内も心無しか活気に陰りが見えていた。
    せめて真名だけでも無事でいてほしいと願ってはいたが、時間と共にその可能性が擦り減っていくのも実感していた。

    そんな出来事から日の浅いある日、俺は友人の順地と学食で昼食を取っていた。
    3限の授業の後だったので、食べ終わる頃には16時過ぎになっていた。

    くだらない話の流れで順地に恋人候補を紹介してやることになった為、俺は帰りの電車の中でラインの友達リストを手繰っていた。
    4月の新入生勧誘の時期に大量の連絡先を交換したので、ディティールが定かでない氏名が大量にあった気がする。

    そんなリストを漫然と読み流していると、佐々木真名の名前が目に付いた。
    失踪後、安否確認で真名に送ったメッセージは、当然の如く既読にはなっていなかった。
    さして期待もしていなかったが、改めて失落感を覚えた記憶がある。

    翌朝、6:50。
    大学生の生態からすれば早朝とも言えるこの時間、俺は地下鉄に揺られていた。
    直し切れていない寝癖を弄りながら。

    その日はサークルの朝練がある日だった。
    大学の北グラウンドを借りて、1限開始までの時間汗を流す。
    木曜は、その後に2・3限の授業もある為、文武両方の荷物で手一杯になる。
    起床時間にもっと余裕があれば、寝癖を衆目に晒すことも無かったのだろうが、どうも朝は苦手だった。

    そうやって瞼の重さと格闘していると大学がある駅に着いた。
    駅から大学までは少し歩く。
    西門に直結する公営駅もあるが、地下鉄の駅からは徒歩10分程の距離がある。
    そこに、肌を刺す日差しと荷物のウェイトが加わると存外堪えるのだ。

    そんな過酷な道程を亀の歩みで進んで、正門まであと100mという地点だった。

    「おはよう。今日は早いじゃん」

    耳慣れない声でそう呼び止められた。
    足を止め、左肩越しに振り返る。

    眼前にいたのは、
    永峰笑子だった。

    「どうしたの?元気なくない?」
    幽霊でも見たような顔して、とその女は続けた。

    幽霊。
    まさにその通りだった。

    「な…………」

    幽霊を見ているのでなければ、寝不足で幻覚を見ているのか。
    いや、俺はまだ布団の中で夢を見ていて、今日の朝練には大遅刻と言う線が1番現実的かもしれない。

    最近の事件報道で用いられた顔写真と同一人物。
    時折、校内で見かけていた端正な顔立ち。

    永峰笑子が。
    そこに立っていたのだ。

    「ねえ、具合悪いの?それとも…」

    背の高い広葉樹が歩道に影を落とす。
    遮られた朝日さえ、気怠い熱気を帯びているように見える。
    そんな、怪奇現象には到底似つかわしくない光景の中でー。

    「もしかして真名の事忘れちゃった?」

    亡霊とも幻ともつかないその女は、俺に話し掛けてくる。
    両の脚で地面に立つ姿と、薄く紅潮した頬の血色を見るに、確かな肉体を持っているように見えるが…。

    え?

    「まな…」
    今こいつ、まなと言ったのか?
    文脈から察するに、自らの名を名乗っているようだが。

    その女は咳払いをして、姿勢を正した。

    「はい、真実の名前と書いて真名。正真正銘、本名です!」

    ホントに忘れちゃったの?と微笑を浮かべる女。

    鳥肌が立った。
    それは佐々木真名のお馴染みの自己紹介、そのものだった。
    地面から立ち昇る蒸気を遮って、全身に悪寒が走る。

    何が何だかわからない。

    死んだはずの知人が白昼堂々出歩いていて、さらに自らを別人だと名乗っている。

    混乱。錯綜。
    様々な可能性に考えを巡らせた結果、処理能力が追い付かず、俺の思考は完全に停止していた。

    茫然と立ち尽くす俺。
    女はその様子をやや怪訝そうに見ていたが、
    「1限の課題、まだ終わってなくて。先に行くね」
    と告げて、歩み始めた。
    訝しむ感情を笑顔で押し隠して、会釈する彼女。
    俺の右肩をすり抜けると、立ち並んだ街路樹の木陰に沿うように去って行った。

    奇天烈な夢を見ているのだと思った。
    近い将来、人間は覚醒したまま夢を見ると科学的に証明され、世界中が驚愕したとしても、俺はそのニュースを抵抗なく受け入れるだろう。
    全て錯覚だったとしか思えない。
    それ程に不可解な現象に、俺は行き遭っていた。

    彼女の後ろ姿を目で追う。
    煙のように霧散したり、天使と共に空に消えたりもせず、歩行という極一般的な方法で俺の視界から消えていった。
    咄嗟に俺は携帯を取り出し、ラインを見返した。
    ーー今思えば、何か直感的なものがあったのかもしれない。

    既読。

    佐々木真名へのメッセージは既読になっていた。

    通い慣れた通学路。
    熱を孕んだ外気。

    真夏の朝に起こった些細で衝撃的な不可思議によって、俺は朝練に5分遅刻した。

    消化不良な話で申し訳ないが、俺にとっては心の底から戦慄した出来事だった。
    そして、これ以上なく不思議な体験でもあった。
    真名への憂いが幻覚を見せたのだろうか。
    だとしたら、既読に変わったメッセージは誰が読んだのか。

    ーもしこの先、彼女から返信があった時、俺は素直に無事を喜べるのだろうか。
    事件の真相は、まだ明らかになっていない。



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    あの夏の日の勇気を私は今でも忘れない

    ペンネーム:名無し(記載なし)

    数年前の出来事だ。

    恨めしいほどに照りつける太陽。
    憎らしほどに真っ青に輝く海。
    潮の満ち引きが、裸足の素足に絡みつく。
    私は、波の飛沫が混じる透明な海の中に浸かった色白な足を見下ろす。
    あと一歩。
    あと一歩、前に踏み出す勇気が欲しい。
    それがあの日、私を助けてくれた『彼』の…、名も顔も覚えていない『彼』の勇気に報える、最良の方法だと思う。

    私は、海が苦手だ。
    水の中に入る事すら嫌いだ。
    小学生の頃。
    海水浴に行った私は、海で溺れかけた。
    泳ぎは得意なはずだった。
    見渡す限りの水平線は穏やかであり、高波も見えなかった。
    それでもなぜ溺れたのか、今もわからない。
    私の身体は、海に飲まれたまま波に攫われ、沖まで流された。
    もうだめだ。そう思った時。
    力強い腕が私の身体を掴んだ。
    溺れた私を助けたのは、一人の男性だった。
    その男性は、海の中で意識を失いかけていた私を抱え、沿岸まで運んでくれた。
    男性は、波を掻き分けて駆けつける両親に私の身体を預ける。
    その後、両親の介抱のおかげで、私は一命を取り留めた。
    安堵した両親は、私を助けた男性を礼を言おうと浜辺を探した。
    しかし、結局その男性の姿は見つからなかった。
    慌てる両親の傍で、その男性はいつのまにか姿を消したらしい。
    私もその男性の顔は覚えていない。
    唯一記憶にあるのは、幼い私の身体を抱き締める、その『彼』の力強い腕だけだ。
    『彼』がいなければ、私は確実に死んでいた。
    私が助かったのは、名も顔も知らない『彼』のおかげであり、運が良かっただけなのだ。

    その出来事があってから、私は海に近付かない。
    泳ぐ事も、水着を着る事もなかった。
    怖かったのだ。
    あの時、私が溺れた理由は、今でもわからない。
    けれど、一つだけ気付いた事がある。
    海から引き上げられた私の足首に、痣ができていた。
    その痣の形はまるで、私の足首をがっちりと掴んでいるような、人の手の形をしているように見えた。
    この痣と、私が溺れた事は、
    きっと、
    たぶん、
    おそらく、
    関係ないと思う。


    夢を見た。
    ゆっくりと海を泳ぐ、幼い私。
    砂浜では家族が手を振っている。
    立ち泳ぎながら私も手を振り返す。
    塩辛い海水が私の口元を舐めた。
    澄み渡る空。水面の遙か先の水平線。
    近所の市民プールとは違う、自然がつくる圧倒的開放感。
    海に来て、良かった。
    だがその時、
    私は突然、海の中に引き摺り込まれた。
    唐突に浮力を失い、頭まで海中に浸かる。
    顔面を覆う海水が呼吸を遮断する。
    私は両手両足を必死に動かして海中から脱出しようとがむしゃらにもがく。
    だが片足だけが私の意思を無視して動かない。
    いや、動かないのではない。
    掴まれているのだ。
    何者かが、私の足を捕らえて、海の底に引き込もうとしているのだ。
    海中でもがき苦しむ私の視界の先で、海の底の闇の中の小さな瞳が私を見詰めているのが見えた。
    …。
    …。
    ハッ!
    自室のベッドで私は眼を覚ます。
    夢だ。
    あの時の夢だ。
    夢だ。夢なんだ。
    全身が汗まみれだ。胸元に滴る汗がパジャマを滲ませる。
    ふぅ…。
    ため息を吐いた私は、部屋の窓を開けて外気を入れる。
    月の綺麗な夜だった。
    夏に生温い夜風が私の部屋の淀んだ空気を入れ替える。
    天気予報によれば、しばらく快晴が続くらしい。
    世間は絶好の、海水浴日和である。


    トラウマ。
    心的外傷。
    海は、私にとってのトラウマである。
    だが、あれから十年余りが経ち、小学生だった私も、今は立派(?)な社会人となった。
    大人になり、社会に揉まれれば、考え方も変わる。
    今、私はもう一度、海に行こうと考えている。
    恐怖を乗り越えてトラウマを克服したい。
    勇気を出して。
    だが、トラウマを克服をしようと考えた理由は、そんな情緒的なものではない。
    社会人となり、交友関係も広がり、「海が嫌だ」「水が嫌い」などと言ってられなくなった。
    水を怖がる私の言動は陰気と捉われ、つまらない女だと認識された。
    付き合いの悪さは人間関係に直結する。
    お洒落な水着も着たいし、友人とも遊びたい。
    彼氏も欲しい。
    そんな俗な事を考えていた矢先、私の海嫌いを知らない知り合いから「海水浴に行こう」と誘われた。
    …いい機会かも知れない。
    私は勇気を出して、友達の誘いに乗る事にした。

    友達と一緒に訪れた海水浴場。
    そこは奇しくも、過去、私が溺れた海と同じ場所だった。
    友達には私の過去の事は話していない。友達に他意はない。
    今日、私がこの海水浴場を訪れたのは、ただの偶然である。
    だが…。過去を乗り越える場所として、この海はちょうどいいのかも知れない。
    この偶然を私は前向きな形で捉える事とした。

    浜辺に着いた私は、水着に着替え、ゆっくりと砂浜を踏み締める。
    波打ち際の一歩手前。
    ここから一歩踏み出せば、そこには海水がある。海がある。
    私は喉をごくりと鳴らして、唾を飲み込み。
    さぁ。一歩を踏み出せ。
    勇気を出せ。
    成長しろ。
    私は、自分の足元に目を向ける。
    大丈夫。
    もう、足首の痣は消えている。
    ヒヤリとした海水の冷たさが、私の足を包んだ。
    波が私の腰を濡らす。
    …気付いた時には、私は胸元まで海に浸かっていた。

    ゆっくりと海を泳ぐ私。
    砂浜では友人が手を振っている。
    立ち泳ぎながら私も手を振り返す。
    塩辛い海水が私の口元を舐めた。
    澄み渡る空。水面の遙か先の水平線。
    海に来なければ味わえない、自然がつくる圧倒的開放感。
    海に来て、良かった。
    本当に、良かった。
    これでやっと、私は前に進める。

    …あの時の勇気を私は一生涯、忘れない。

    一緒に来た仲間達とビーチバレを楽しんだ。
    サンオイルを塗って砂浜に寝転び太陽の光を浴びた。
    海の中で海水を浴びせ合ってはしゃいだ。
    胸元に浮かぶ水滴は、汗か海水か。
    ひとしきり海水浴を楽しんだ仲間達は、浜辺で休憩をとりに行った。
    けど、私はまだ、海に浸かっていたかった。
    私は仲間達から離れ、一人で泳ぐ。
    一人で、海の楽しさを、そして、自身のトラウマを克服した喜びを味わっていたかった。
    …。
    その時である。
    …〝助けてくれ〝
    声が聞こえた気がした。
    助けを求める声だ。
    波に身を揺られながら、私は周囲を見渡す。
    ふと、沖の向こうに何かが浮き沈みしているのが見えた。
    私は目を凝らす。
    それは、人だった!
    男性がうつ伏せになったまま、流されている!
    裸の上半身がぷっかりと海を漂っている。
    …どうしよう。人を呼ぼうか…。
    だが、浜辺は遠い。目を離した隙に男性の姿を見失ってしまうかもしれない。

    その時、男性の腕が動いた。
    もがき苦しむように水を掻いている。
    溺れているのだ。
    助けを求めているのだ。
    私の脳裏に、過去、自身が溺れた時の恐怖が浮かぶ。
    そして、私は決意した。
    助けよう!
    海で苦しむ人を放ってはいけない!
    『彼』だって、そうした!
    そう決めた私は、溺れる男性に向かって泳ぎ出した。

    …この時の勇気を、私は決して、絶対に、忘れない。

    波を掻き分け、全速で泳いだ。
    だが、男性の元にはなかなか辿り着かない。
    泳いでも泳いでも、男性の姿は遠い。
    なんで! なんで近付かないの!
    まるで私が進んだぶんだけ、男性自身が流されているようだった。
    助けなきゃ!
    助けなきゃ!
    でも、でも…。
    間に合わないかもしれない。
    そんな弱気な予感が頭をかすめる。
    その時である。
    視界に先で、男性の右腕が水面から這い出て、私に向かって手を伸ばしている姿が見えた。
    あの溺れる男性も、私の姿に気付いたのだろう。
    助けを求める姿に勇気付けられた私は、決意を新たに、波を掻き分ける腕に力を入れる。

    …あの時の勇気を、私は忘れない。
    …忘れることなんて、できる筈がない。

    声が聞こえた。
    『嫌だ嫌だ…
    『帰りたい…
    『冷たいのは嫌だ…
    『一人は嫌だ…
    『あの時、見えたんだ…
    『小さな足に絡まったアイツらを…
    『このまま流されるには嫌だ…
    『帰りたい帰りたい…
    『食われたくない…
    『なんで、こんな…
    『助けなきゃ、よかった…
    『痛い…
    『寒い…
    『冷たい…
    『帰りたい…
    海を掻く私に男の声が聞こえた。
    助けを求める声だった。
    待って!
    行かないで!
    私が、あなたを助けるから!
    心の中で私は叫ぶ。
    その時、不思議なことが起こった。
    あれほど近付けなかった彼が、す〜っと私の元に流れてきたのだ。
    良かった! これで助かる!
    彼の腕が、私に向かって伸びる。
    私も手を伸ばす。
    二人の手が触れようとした瞬間。
    私は、見た。
    彼の、顔を。
    暗い穴だけになった、彼の両眼を。
    その穴の中の闇に潜む、小さな瞳を。
    私は息を飲む。
    私が触れた瞬間。
    彼の腕を抱き寄せた瞬間。
    気付いた。思い出した。
    …その腕はあの、幼い頃のあの時のこの海での過去の私の記憶の中にある『彼』の力強いあの腕の…、その、
    グローブのようにふやけたその腕は肩の根元からズボリと抜け落ちた。
    私が伸ばした手はそのまま指先から、『彼』の身体にズブリと埋まる。
    目の前の僅か数センチの距離で、『彼』の姿を、私は凝視した。
    腐敗ガスで膨張し触れれば崩れる程に腐敗した全身は白く石鹸のように脆く、その、皮膚の剥がれ落ちた腕には藻屑が覆い、肌を食い破るフナムシの群は腐った内臓を餌にして、あの、腐敗の進んだ無残に膨らむ彼の、嫌、顔面の髪は全て抜け落ちて肉の隙間から白い頭蓋骨が覗いている。
    腐り落ちた二つの瞳の中で蠢く蟹の群。その幾数個の小さな瞳の塊が、私をじっと見ていた。
    言葉を失い、息する事すら忘れ、私は海の中で立ち竦む。
    グラリ。
    『彼』が、動いた。
    長い時間を海水に曝されて半ば腐液と化した『彼』の身体が腰からポキリと折れて、私に向かって倒れ込む。
    私は、『彼』を、全身に、浴びた。
    ひゅうと息を飲む。
    同時に海水を飲み込んでしまう。
    腐った『彼』の身体が溶け出した、その海水を。
    呆然とする私の腕の上で、一匹の蟹がカサカサと笑っていた。


    あれから数年が経った。
    私はあの時の勇気を今でも死ぬほど後悔している。
    漏らした吐息には腐臭が混じる。
    今でも私の指先からは腐った肉の臭いが消えない。
    …消えてくれない。



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    白い波頭

    ペンネーム:ニコG

    大学3年生の秋、私と後輩のHは、青山にある公立会館へサークルの会合の下見に行った。
    日曜日で、気持ちのよい風が吹いていた。Hの車で会場へ行き、難なく用を済ませてしまうと、午後の時間がたっぷり残った。車を停め、街をぶらついていると偶然にも、昔の仲間とばったり出会った。
    「あれ、君は……」
    「あら?**さん、まあーびっくりしちゃった!全然変わってないのね!」
    黄色いセーターにミディのスカート、まぶしいほど美しくなった、かつての遊び友だち、S子の姿がそこにあった。後輩のHは、びっくりしてS子と私の顔を、かわるがわる見つめていた。実際、人が振り返るほどにS子は美しかったのだ。折よく目の前に喫茶店があったので、中で少し話をし、意見が合って横浜へ行くことになった。Hは助手席にS子 を乗せて顔を紅潮させていた。私は少し笑みがわいてきた。

    広尾から、少し回り道をして目黒通りに入り、第3京浜に乗って横浜へ出るつもりだった。都立大学のガード下を潜り、右手に駒沢公園の塔がちらりと見えた。
    おかしいと感じ始めたのは、中根の交差点を過ぎてからだった。
    たしか、この道は駒沢通りと並行して走っているはずで、この辺りだともう駒沢公園の塔は真横近くにあるはずなのに、ガードを潜った地点から少しも近づいていない気がしたのだ。私はルームミラーでHの表情を伺おうとした。が、HはすっかりS子に気を取られて、やたらにニコニコしながらスピードを出すばかり。S子もはしゃいでいる様子だった。

    これはだめだと思いながら前を見ると、観音開きの懐かしい旧型クラウンが左から現れて、私達の車を追い抜いていった。日曜にしてはかなり通りは空いていたが、それにしてもHは飛ばしているようだった。私はその頃まだ車の免許を持っていず、Hのなすがままに任せるきりだった。
    (おや、まだあんな木の塀の家がある)

    左側の商店街が切れると、昭和30年代には普通だった、黒塗りの木塀の家があり、通り過ぎるとき見やると、中にはやつでの木があった。まだこんな家が残っていたのか、と思っていると、右側にも赤いトタン屋根の家が見え、その先にはバラックのような廃屋のような朽ちかけた家があった。

    (このへんは高級住宅街ではなかったか……)初めて通る道だったが、付近に遊びにきたことがあり、地図の上でもこの目黒通りを知っているつもりだった。けれども、なんだか風景がだんだん貧しくなるようで、それに比例してあたりが広く感じられてきた。道路も、対向車線から走ってくる車がほとんどないのに気づいていた。しかし、それでいて、駒 沢公園の塔だけは、相変わらず右手斜め奧に見えているのである。

    交差点の数が少ない、いや少なすぎる。いくらなんでも、目黒でこんなに一直線の道があるわけはない。
    私はこの時点ではっきりと感じていたが、口には出さなかった。どうせもうすぐ等々力の駅に出ると思っていたからだ。ところが、いつのまにか先行していたクラウンもどこかへ消え、木造建築のひしめき合う地域を過ぎると、わずかにドヤ街のようなところを通って、道路の両側が、汚いゴミの山になってしまったのだ。

    もう、対向車線にも前方にも、車の影はなかった。歩道は続いていたが、歩く人とてない、寂しい一本道になってしまっていた。そしてなんということか、ゴミの山の向こうに、何故か駒沢公園の塔がまだ見えているのだった。私はミラーでHの様子を伺った。しかし私はチラリとHの表情を見て、心から後悔した。Hはすでに青ざめ、唇を震わせていたのだ。ハンドルを持つ手も、小刻みに震えているようだった。もう、止まることもUターンすることもできない、このまま突っ走ってしまわなければならない。今となってはHに話しかけることもためらわれた。話しかけたが最後、叫びとともにHは狂ってしまうのではないか。
    (S子は?)……S子は、膝を硬くして、ただじっと息をこらしていた。その細い肩の向こうに、白い鮮やかなセンターラインが見えた。

    ゴミの山を走りすぎていく道が大きく右に曲がると、いきなり目の前が開けた。痩せた松の木がまばらに植わっている向こうに、青い海が見えた。左手は50メートルはある断崖となり、こわごわ下を覗くと、白い波頭が岩に押し寄せているのが見えた。
    凍りつくような時が、否応なく過ぎていった。心臓を素手でつかまれたような苦しさのなか、私もHも、S子も無言を守り、ただ軽いエンジン音とアスファルトを摩擦するタイヤの音が聞こえるばかり。そして、私は茫漠とした丘の向こうに、まだ駒沢公園の塔がほの見えているのを、叫びだしたい気持ちをこらえて見ていた。

    そうして、どのくらい時がたったのか。もう一度道は大きく右へ曲がり、海が視界から消えると、再びゴミの山の地帯に突っ込んだ。スピードメーターは60キロほどを指し、ほとんど動いていない。私は、喉がカラカラに渇いて、まともに声も出せないのに気づいた。2時間、3時間も走ったような気がする。私の目は、前方に張りついて動かなかった。

    やがて、遠くに木造の家が見えてきた。そしてその前を過ぎていくと、交差点が現れ、右手に車が何台か止まっていた。私はゴクリと唾を飲んだ。
    木造家屋の立ち並ぶ通りを走って行くと、向こうからランサー(三菱の車)が走ってきた。私はこのとき、深く溜め息をついた。あらためて、震えが襲ってきた。
    交差点が増え、信号が現れ、歩道を人が歩いていた。そして、後ろから車が追い越していったかと思うと、車は住宅街を走っていた。このとき、もう駒沢公園の塔は見えなくなっていた。

    前方に踏切が見えた。等々力の駅である。私の意思が伝わったように、Hは踏切の手前で車を停めた。
    もう、横浜どころではなくなっていた。私は、Hに小さな声で、「だいじょぶか?」と問いかけた。
    「はい」と、小さくHは答えた。S子はまだ鳥膚を立てていたが、私の腕につかまるように車を降りると、Hにコクン、という感じで挨拶をした。
    等々力から、私とS子は、全く話をすることができなかった。
    自由が丘でS子は降り、私はそのまま渋谷へ出て、山手線へ乗り換えた。ここまできてようやく私は安心することができた。力が抜け、もう一度全身が震えた。

    Hとは今でもつきあっているが、Hは決してあのときのことを話そうとしない。
    S子もまた、人気者になり、芸能界を引退して結婚してもまだ私の家に遊びに来るが、あのときのことは、まるでなかったような顔をしている。しかし、私はあの日の、駒沢公園の塔と、押し寄せる白い波頭が、忘れられないのだ。



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    死臭

    ペンネーム:ニコG

    「Iさん、きょうも来てないね」
    私のすぐ後ろで、そんな声を聞いた。聞いてはならない声だった。
    まだまだ暑さの残る宵であったが、私の二の腕に鳥膚が立つのが自覚できた。
    「**さん、日本酒でいいですか」
    居酒屋の大将はそう言いかけて、私をじっと見た。
    「何かあったんですか?」


    常磐快速で通勤していたころ、何度かおかしな臭いをかいだことがある。
    朝が早い分、午後2時には帰宅できるときがあり、柏駅で快速電車を待っていると、さまざまな形式の電車がやってくる。そのなかで、対面式4人掛け座席の普通電車は、通勤とは違い、旅の雰囲気や地方の生活が感じられて好きなのだが、その電車が停止してドアが勢いよく開くと、どういうわけかイカの臭いがするのだ。それは、アンモニアほどではないが、鼻腔に直線的に飛び込んでくる強いもので、思わずうっとなる。しかし電車のなかへ入ってしまえば、さほど気にならなくなる。

    普通電車でも、白い車体にブルーのライン、先頭車両のライトが特別大きなものがあり、その電車だとやけに強く臭うのである。私はこの電車をひそかに「イカ電車」と名づけていた。
    そんな話を、つい行きつけの居酒屋で話してしまったのがいけなかった。
    「それは**さん、欲求不満なんじゃないですか」
    そう笑いかけてきたのは、ある化粧品メーカーに勤めるI氏である。
    「ぼくに言わせれば、ほとんどの人は4階調程度しか匂いをわかってない。でも、匂いの世界にだって、本当は64階調もあるはずなんです。匂いと記憶の関係も、大脳生理学の大きなテーマの1つですしね」
    「例の『マドレーヌ』ですか?」
    「マドレーヌ?」
    彼はプルーストを読んでいないらしかったので、その話には方向転換できなかった。

    それにしても匂いの世界に関する彼の博識は相当なもので、事実とても興味深かった。麻薬探知犬の、人間には信じられないような能力も、彼に言わせれば人間のほうが鈍感すぎるので、きっと犬は人間を気の毒に思っているだろうと言う。
    「1万倍ですよ、1万倍。同じ五感のなかで、そんなに差がついてるものってありますか。人間から見ると、犬はカラーが見えないから世界が豊かじゃないって思うでしょうけど、犬からすれば、人間は匂いの交響楽もわからないし、素晴らしい匂いのグラデーションもない、貧しい世界に住んでいるらしい。匂いについては立体も平面もわかってない、なんという劣った動物だろう、ってね」
    「でもさ、Iさん。麻薬探知犬って、完全密閉した箱に麻薬の袋を入れて、その箱を大きな木箱のなかに置いてその周りをキムチで埋め尽くしても、中身をかぎ分けるんでしょう、どうしてそんなことができるんですかね」
    「それですよ」
    I氏はよくぞ聞いてくれたという顔をした。
    「青と黄色で埋め尽くされた画面のなかに、1点だけ小さく赤を入れます。人間なら、よほど小さな点でも、それが赤だってわかるでしょう。でも、その画面をグレーの階調にしたらどうなります?ねっ。判別ってのはそういうことなんですよ」
    なるほど、とその場にいたみんなが納得した。I氏は調子に乗って得々と会社内での出来事を話し始めた。
    「するとIさんは、1人1人の体臭の区別がつくんですか」
    居酒屋の常連の1人である、年若い眼鏡の男が、こちらのほうへ首を曲げながら訊いた。
    「わかりますよ。体臭もそうだし、着ている服や下着、昨日何を食べたか、大体わかっちゃうんですよ」
    カップルで来ていた1組の女性のほうが、眉をしかめた。それを見て、相方の男が言った。
    「やべえな」
    大笑いとなり、その場は大団円となった。


    別の日、I氏は奥の席で飲んでいる私のそばに来て、いつもより乾いた口調で話し始めた。
    「**さん、死臭ってかいだことあります?」
    唖然とする私の返答を待たずに、I氏は言葉をつなげた。
    「朝の通勤電車でよく乗り合わせる中年の男なんですがね、特別の匂いなんです」
    「へえ、どんな」
    「ひと言で言うと臭いんですが、湿ったワラが発酵し始めたような、嫌な匂いです」
    「それが死臭なんですか?」
    「いや、それがその中年のいつもの匂いなんです。ところがその男は、水曜日に限って別の匂いを出すんですよ」
    「ほう」
    「それが何の匂いなのか、私にもよくわからないんですが、とにかく水曜日なんで、私の目についた、いや鼻についたというわけです」
    「なるほど」
    「その男の匂いで、きょうは水曜日だったなと判るほどなんですが、それが」
    生ビールのジョッキを口に流し込んでからI氏は言った。
    「10日前ほどから、匂いがしなくなったんです。水曜日だけじゃなく、ほかの曜日も」
    I氏の表情が一時に曇った。
    「気になりましてね。そばで顔色を見ても、別段変わったところはないし、やせたり太ったりもしていなくて、ごく普通にしてるんですが、匂いがしない」
    私は、はっとして箸を中空で止めた。
    「……そうなんです。今朝の新聞に載っていたんです。その中年が昨日、交通事故で亡くなったんですよ」
    耳の奥のほうで、何か金属音がしたような気がした。
    「それでね、**さん。実は私の体も、昨日から何も匂わないんですよ」
    I氏の額にじっとりとした汗の粒が浮かび、しわのなかに入り込んで鈍く光っていた。酔おうとして酔えない男の目は、カウンターの冷蔵ケースに注がれていた。私は何も言えずに杯を傾けた。



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    コメント一覧

    1  不思議な名無しさん :2018年09月08日 02:12 ID:cVMUETLg0*
    簡単なバイトが怖いな
    2  不思議な名無しさん :2018年09月08日 15:42 ID:csY65nFL0*
    面白いです。ありがとう。
    3  不思議な名無しさん :2018年09月08日 22:06 ID:dtZTFxRj0*
    ブロックで橋は壊れねぇしタバコごときで遠回りはしない
    4  不思議な名無しさん :2018年09月10日 02:48 ID:aVtBOlGu0*
    文章力があればもっとイメージし易くて面白いだろうなと思う話が体験とかではあったけど、さすがに読み物系はリアリティがなくてつまんないなぁ…
    5  不思議な名無しさん :2018年09月10日 03:26 ID:Jj3QuA.90*
    リアリティってよりは読み物(小説?)と割り切って読めば良いのでは
    かなりおもしろかったですよ

     
     
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