2: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:02:34.61 ID:AYPU1R2FM
[メモ用紙の記述。同じく万年筆による筆致と思われる。1頁目の1行目から、細かく丁寧な文字で、端まで詰めて書かれている]
電柱とはなにか。電柱とは送電線や通信線なんどの架空線を吊り下げるための柱である。
主にコンクリートで出来ており、高さは約5mほど、一抱えの太さを有している。
まさか見たことのない者はないだろう。いまや日本中津々浦々のそこここににょきにょきと林立している。
3: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:04:21.13 ID:AYPU1R2FM
最近電柱になる男どもが後を絶たぬというもっぱらのうわさだ。
10年ほど前の絶頂期を過ぎて以降ここしばらくは鳴りを潜めていたにも関わらず、である。
ここに理由を見出したがるような酔狂な輩も同様に後を絶たぬというのはもはや言うまでもないことかも知れないが、
彼らの弁を全く無視してしまうというのもこのメモの公平性如何に関わってくるものと思われるから、簡素なりとも主だった論のうち幾つかくらいには触れておきたいと思う。
多少冗漫で退屈な妄想語りのような前置きになってしまうかも知れぬが、暫しの辛抱を貴殿にも期待することとする。
4: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:06:09.83 ID:AYPU1R2FM
先ずはじめに、現在最も勢力を得ていると思われる説が、電柱を所謂「つながり」の象徴とする見方である。
要するに電柱のぽつりぽつりとほぼ等間隔に立っているその姿、そしてその上を走る黒黒とした送電線電話回線その他諸々の線なんかを人や人の間にある情などに見立てているわけだ。
さらに穿った見方を好む偏屈の輩は電柱に巣食うツバメや烏や雀なんぞも引き合いに出して、あれこそ電柱が憩いの象徴である証左であるとまで言い出したりする。
だが紐でつながっているものと言えば別に電柱だけではないし
(例えば最近の機械類などはコードがうねうねと巡り巡っているのだし、いっそ電子計算機の電源コードにでもなってしまえば良いのだ。
そうすればあのコードが足りぬこのコードが足りぬなどという頭の足りぬ父上どのも救われて一石二鳥だし、電源コードが嫌だというなら縄跳びだって首吊り縄だって紐である。
つながりというのは別に電柱の専売特許というわけではないのだ)、
つばめに好かれたいと言うなら梁に、烏に好かれたいと言うならゴミ袋にでもなったほうがよほど効果的というものだ。
つまり何が言いたいのかというと私はこの説を支持するものではない。
5: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:08:41.62 ID:AYPU1R2FM
次に有力と思われる説はむしろ電柱を時代遅れのものと見て、頭の硬い老害どもの気違ったノスタルジーの象徴とする見方である。
彼らの説では時代は今こそ全世界的無線覇道時代であり、もはや有線など見るに耐えぬ前世紀の異物なわけである。
機械仕掛けの神に魂を売った汎神論的な現代社会において、我々はすべて0と1の無味乾燥な数字の羅列へと集約されるわけである。
もはや地球は丸くなどないのだ。
彼らのそうした、時代を行き過ぎて錯誤した世界観のもとでは、いまだ多くの一般家庭に愛されてやまない有線回線もクフ王のピラミッドと同様に過ぎた日の栄光となるわけである。
だがよく考えてもみるがいい。果たしてどれほどの数の人間が好き好んであの無骨なグレイの無機木に懐かしさなんぞを投影するというのか。
貴方が懐かしいと思うものはなんですか、と試しに訪ねてまわってみるといい。
賭けても良いが100人にきいたところで電柱と答える馬鹿は一人もあるまい、
在ったとすればそいつは電柱のもとに生まれ電柱のもとに育ち電柱のもとに恋をして電柱のもとに死んでいくよう運命づけられてしまった哀れな羊飼いに違いない。
そんな人間がまさか無宗教国家たる日本なんぞに居るとも到底思われないから、つまりそんな人間はいないのである。
拠って私はこの説を支持するものでもない。
6: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:11:29.32 ID:AYPU1R2FM
さらには電力会社の策略であるとか国家による来る新時代のための電線類地中化構想のための布石であるとかの陰謀論、
宇宙人の侵略であるとか未来の人類による間引きであるとかする超科学論、
そもそも電柱などなかったのだとする認識論、プラグマティズム、虚無論、果ては数学の公理まで引っ張りだしての馬鹿馬鹿しい水掛け論にまで発展する始末。
あらためて言うまでもないかも知れないが、私はこれらのうちのいずれの説を支持するものでもない。
つまりお前は世に蔓延る電柱男どもを言葉や思考のうえでどう始末を付けるつもりなのかと問われれば、こう答える他に言いようなどないと思うのだ。
「電柱男どもは存在するがそれは存在するためにただ存在するのであり、電柱となる男は電柱という存在があるために逆説的に存在しているにすぎぬ。
存在そのものが存在の理由であり、それ以上に理由を求めるのは間違っている」と。
だがしかし、そんなことは正直に言ってしまえばどうだっていい。
私が言いたいのは、つまり電柱は男であり、その電柱となる男についての詳細で具体的な記録を後世のためここに書き記すべきである、と、私は最終的にそう判断したのだということだ。
7: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:12:12.14 ID:AYPU1R2FM
さて、長くなってしまったが本題に入ろう。
本題とはつまり電柱男の観察記録である。
以下は私のよく知るある一本の電柱男についての観察記録である。
まずは電柱になる以前の男について、それからその男が電柱に至るまでの詳細な経緯について書くこととしよう……。
8: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:12:38.79 ID:AYPU1R2FM
[1頁の空白を開けて再び記述の続きが記されている]
9: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:15:27.66 ID:AYPU1R2FM
その男を便宜上Aと呼ぶことにする。
Aは禿頭の小男であった。
町では冴えないサラリーマンであり、家では亭主関白であった。
彼には幸せな家庭があり、堅実な未来が在った。家族は妻が一人と息子が一人。
息子は最近思春期に入ったばかりで彼に対して反抗の気を見せ始めていたが、そのほかでは非行に走ることもなく真面目で極めて優良な学生であった。
妻は専業主婦をやっていて、近所のうわさ話に耳ざとく、なにか聞きつける度に彼へと報告する癖は彼をうんざりさせたが、そのほかでは全面的に夫に信頼をおき付き従う、彼にとっての理想の妻であった。
そんな男の家庭生活は全く円満であったと言わざるを得ない。
夫婦の間での口論などには縁がなかったし、不義密通にはまして関わりがなかった。
それではなにが彼を電柱に至らしめたか。
私の見る処、直接的な原因はおそらく彼の勤め先にあったように思われる。
10: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:16:11.51 ID:AYPU1R2FM
Aが勤めていたのはある零細な広告代理店だった。
それというのも彼は美術大学の出であったから、最終的にその仕事に行き着いたというただそれだけの話である。
しかし実のところを言うと、彼の勤め先であるところの零細広告代理店(仮にここのことをR広告代理店とよぶことにしよう)は彼の望んでいた就職先ではなかった。
11: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:17:14.81 ID:AYPU1R2FM
彼は幼少の頃からある夢を抱いていた。
それは自身の絵が大衆に認められ、いつかパリの美術館に飾られることだった。
彼は芸術家になりたかったのだ。
そんな幼稚な彼の夢は、しかし陳腐な自尊心とともにぶくぶくとふくれあがり、理想に迷う大学生活を送るうち、彼をとうとう盲目にしてしまった。
大学での彼の成績はそこそこ優秀な方であったし、彼は教授からも好かれる性質の人だったから、彼は自身に天賦の才があるに違いないとそう信じた。
事実、彼の絵はなかなかに見応えのあるものだったし、大学内でのまわりからの評価もなかなか良かったのである。
しかし実際に大学を卒業し画壇に入ってみれば、そこには現実の壁とでもいうべき厚く非情な評価の槍衾があった。
目を爛々と輝かせたまま、そんな非情な現実に飛び込んでいった彼は、勢い余ってしとどに貫かれた。
12: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:18:34.28 ID:AYPU1R2FM
「ぁあ、ええ、おほん……ええ、そうだね……うん。
なんというか……ええ……ひとりよがり、ええ、そう……ひどくひとりよがりな絵だね……ええ、おほん。
ああ、ああ、もちろん知っているとも、ええ……あれだろう、大学を主席で……ええ、ええ、わかっている……ただね……実際問題、社会というのはだね……」
13: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:19:54.35 ID:AYPU1R2FM
結局Aは2年でその画壇を抜けた。彼はその時分、そのことを独り立ちと言い張っていたが、事実上ドロップアウトに違いなかった。
そうして、半ば挫折したにもかかわらず、彼はしかし夢を諦めきれなかった。彼はその後3年に渡りアルバイトを転々としながら片手間に創作活動を細々と続ける。
しかしアルバイトというのは彼の性に合うものではなかったし、一度やめてしまえば雇い主がいつでもあるというものでもなく、二進も三進もいかぬというとき、彼は親に金を工面してもらった。
親は渋い顔をしたが、その度、いつか返すように、といって彼に5万円ずつの封筒を手渡してくれた。
だが、何時までたってもやはり彼の絵は評価されず、とうとう親の手前もありそれも続けていられなくなった。
親には「まともな」職業に就くようにとせっつかれるようになり、彼も渋々ながら創作活動から身を引くようになる。
14: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:21:03.64 ID:AYPU1R2FM
Aは、しかし、この時点でR広告代理店への就職を希望したのかというとそうではなかった。
彼はここまで現実に打ちのめされてなお、自分には才能があるのだということをこれっぽっちも疑ってはいなかった。
彼にしてみれば、悪いのは自身の才を認め得ぬ世間のほうであり、彼の方に非があるなどというのは実は明日明後日世界が滅びるというような冗句と同程度の質の悪い妄言に過ぎなかった。
彼にはいまだ譲りきれぬ自尊心というやつがあったのだ。
ならば彼はどうしたか。彼はある大手広告代理店―こちらはK代理店としておく―の就職を希望したのだ。
しかし当然のことながら門前払いをされた。
創作活動をしていたとはいえ、実際、履歴書の上では5年ほどものあいだフリーターをしていたのだ。
それにそもそもAはアートしか学んでおらず、デザインの知識など持ちあわせてはいなかった。
そうそう雇ってくれるような企業があるわけもなかった。まして有名企業ともなればなおさらである。
だから彼はそれからさらに暫くのあいだ、就職口をもとめ路頭に迷うことになる。
15: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:22:10.28 ID:AYPU1R2FM
結局、就職活動をはじめてから4年ほどして最後にいきついたのがR広告代理店であった。
そこでの仕事はAにとってとうてい受け入れられるようなものではなかった。
そのR広告代理店というのは時代遅れも甚だしく、未だ一台の電子計算機も持っていなかったのだ。
故に彼の仕事はすべて手作業に限られた。
さらに言うなら彼は新米も新米であり一人前の仕事などまかせてもらえなかった。
そのため彼はもっぱら先輩の仕事の修正と手伝いをしてすごした。
その内容は例えばタイプして打ち出された文字なんかを一つ一つずらして位置を調整するというようなものであり、こういってはなんだが、大層地味な作業だった。
彼は毎朝7時に出社し、事務所の片付け掃除をし、8時ころから自分のデスクに張り付いて作業にとりかかった。
昼に一度休憩を挟むほかは全く休憩も取らず、ひたすらピンセットを片手に文字やポスターとにらめっこし続けた。
夜の8時や9時になってようやく作業が終わることもあれば終わらないこともあった。
終わらなければ当然残業となるわけだが、R広告代理店には残業手当を出す余裕がなかったため、Aは延々とただ働きをさせられた。
しかし彼はただ黙々と作業を続けた。
16: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:23:03.56 ID:AYPU1R2FM
それが彼の生来の気質であったのか、あるいは人生への諦めなどからくるところであったのか、いまとなってはもうわからないが、彼はその日の作業が終わるまでは決して誰と話すこともなくただ黙々と作業を続けた。
日をまたぐことも屡あった。
17: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:23:48.98 ID:AYPU1R2FM
ある日Aは例のごとく作業をし、そして0時をまわったというころだったろうか、やっと一日の作業を終え事務所を出ようとした。
ふと、そこで彼は思ったのだ。
一体俺の存在意義というのはなんなのだろうか、と。
いつもならばそんな役にもたたぬ凡百の疑問など頭を振って忘れてしまうものなのだが、その日の彼はどこか違っていた。
一体俺の存在意義とはなんなのだろうか。頭に疑問が張り付いたまま離れなかった。
Aは事務所の扉にかけていた手を離し、自分のデスクへと戻った。そして椅子に腰掛けた。
狭く汚い事務所の隅から隅までを、あらためてゆっくりと眺め回して見るに、彼はだんだんとおかしな感覚に囚われていくのを感じた。
18: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:24:32.53 ID:AYPU1R2FM
―此処は一体どこだろう。無論事務所である。毎日毎日飽きもせずに通い詰める事務所である。
いやいや待てよ。落ち着けよ。そんなことはわかっているんだ。俺が言っているのはそういうことでないんだ。ここは確かに事務所だが俺の居場所でないんだよ。
何を馬鹿げた事を言っている。ここがお前の居場所でないはずがない。なぜならお前は、ほら、そこに座っているじゃないか。
その椅子だ。背もたれが破け始めて綿が飛び出している、座面が硬くてすぐに尻の痛くなっちまうその椅子だ。
ああ座っているとも。ならばここは俺の居場所か。そうか俺の居場所か。
ああ、ああ。そうだとも。そうともお前の居場所だとも……。
19: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:25:30.82 ID:AYPU1R2FM
Aは半ば自身に言い聞かせるように納得してみたがやはりなにか腑に落ちなかった。
―俺はとっくの昔から、自分に才能のあるのを知っていた。
誰より早く気がついたといってよい。
それだのになんだ。何故俺はこんなところにいる。
此処はパリどころかイタリヤですらない、寂れた日本の偏屈な一角ではないか。
俺はここにいるべき存在でない。
そのはずだのにここに居る。
俺は本当におれなのか。
俺がおれではないとするならば、果たして俺とは一体何ものなのか……。
20: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:25:52.39 ID:AYPU1R2FM
ふときがつくと、Aは無意識に窓の外を眺めていた。窓の外には一本の電柱が途切れかかった蛍光灯に照らされていた。
21: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:26:15.26 ID:AYPU1R2FM
―あいつは此処にいるべき存在なのだ。あいつがなければ電気の供給もままならぬ。こいつに比べていったい俺は……。
22: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:26:44.39 ID:AYPU1R2FM
そこまで考えて、Aは慌てて窓から目をそらした。
慌てたあまり、手に持っていたピンセットを放り投げた。
ピンセットは彼の振り上げた腕の勢いに乗って部屋の隅へと飛んでいった。
Aは時間がとうに1時をまわっているのに気がついて、鞄を持って事務所を出た。
23: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:27:19.92 ID:AYPU1R2FM
以降、Aは度々その入り組んだ回路のような思考にとらわれるようになった。
特にいつと決まっているわけではなかったが、彼は一人で居るとすぐそのことばかり考えるようになった。
自分が一体なにものなのか。
その問を自身に何度も聞き返し繰り返すうちにいつの間にか彼は本当に自分が一体なにものなのかを忘れるようになってしまった。
自分の名前が思いだせない。自分の家が思いだせない。此処が何処なのか思いだせない。
しかし大抵の場合すぐに思い出して、彼はほっとしてそのことを忘れた。
24: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:28:10.98 ID:AYPU1R2FM
勤め始めて5年も立つ頃には、Aはその生活に慣れきっていた。
依然、彼の仕事はずっとかわらなかった。
かれは自分が忘れっぽくなってしまったのを認めていたが、ほぼ実害のあるようなことでなかったから目をつむってやりすごした。
思考はより頻繁に巡回し、彼の意識をのみこむようになっていった。
Aが結婚したのはこの頃で、かれが就職を決めたのに気を良くした両親が見合い相手を引っ張ってきたのだ。
彼は安定と引換にして自分のパリが遠ざかるのを感じたが、親に意見できる立場ではなかったから文句を言えなかった。
結婚して1年ほどで息子が生まれた。
それはあるいは抑圧された感情の発露であったのかもしれぬ。
25: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:29:10.38 ID:AYPU1R2FM
Aは無害すぎる毎日を送った。
会社に満足してはいなかったが直接傷つくようなことはなかったし、家族に不満はなく順調な毎日をすごしていた。
そんな日々をおくるうち、彼は自身のなかからなにか大切な部分が失われているのを自覚するようになった。
まるでじぶんの胸の真ん中にいたずら好きのだれかが大きなほら穴を穿ってしまったかのような感覚。
かれはそれが不快でならなかったが、対処の術をしらなかった。
放置するうちにだんだんとその穴が大きくなっていくのを感じたが、放置するほかなかった。
26: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:30:14.08 ID:AYPU1R2FM
日々大きくなってゆくほら穴にAは怯えて暮らすようになった。
自分が何者か、自分からなにが失われてしまったのか。
あるとき、そのほら穴がとうとうAをのみこんだ。
彼の胸のなかにあったはずのほら穴がいつのまにか彼の頭身の大きさを超えていたのである。
Aはちょうど先輩にあたらしい仕事をたのまれたところで、手渡されたポスターを小脇にかかえ、反対の手で貼り付ける文字の用紙を持ち、自分のデスクに向かっていた。
彼がデスクにつくと、ようすがおかしい。
自分のからだのどこか漠然とした中心付近に、なんだか妙なしこりのようなものを感じたのだ。
それはたとえるなら額にできたニキビにもにていたし彼の右足指のつけねに生えていた魚の目にも似ていた。
ようするにできものの一種のような何か。
かれは初め自分の背中とかお腹とかいろんなところを掻きむしってみたのだけど、しかしその感覚がひどく散逸でその元がどこからきているのか特定しかねた。
結局、Aはどうしようもないからほうっておくことにした。
27: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:31:22.31 ID:AYPU1R2FM
彼はすぐに頼まれた仕事にとりかかったのだけど、どうにもそのしこりがきになっていけなかった。
集中できない。
そうして気もそぞろにしごとをしていると、他のものまで気になってくる。
かべかけ時計の針のおと、事務所のゆかをたたくスリッパのおと、窓からさしこむ暑いなつのひざし、デスクをはう羽虫、頬をつたうあせ……。
もはや仕事どころではなかった。
そんなAをみかねた先輩は休憩となるごとにAのデスクへとやってきて、あれがずれている、ここがいけない、早くすすめろ、とAをせっついた。
それがまたAの集中をそいだ。
Aはそうしてもんもんと謎のしこりにもだえているうちに、とうとうあの妙な思考の循環までもが彼をとらえはじめたのにきがついた。
28: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:31:49.26 ID:AYPU1R2FM
―俺はなぜここにいるのか。
29: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:32:12.14 ID:AYPU1R2FM
そんなことを考えている場合ではないのは、かれとて百も承知であったが、しかし考えずにはいられなかったのだ。
それはかれの意思とははなれたどこかべつの場所から不意におとずれる迷惑なふうらいぼうだったから、かれの手におえるものではなかったのだ。
30: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:32:41.56 ID:AYPU1R2FM
Aはひたすら自分に集中をいいきかせ、そうしようと努めた。ただただ意識を手先へともっていき、じぶんは脳ではなく手先で考えているのだと思いこむように仕向けた。
それでもまだ集中にいたらないものだから、かれはさらに自分が無機物であるのだと思いこもうとした。
31: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:33:49.21 ID:AYPU1R2FM
―無機物。無機物。そうだ。おれはピンセットだ。ピンセットに違いない。
そうでなければはじめからおかしかったのだ。
ここはおれの居場所でない。
つまりおれはここにいるはずがない。
ならばここにいるおれはなにものだ。
そうともおれはピンセットだ。ピンセットならばここにいるのが当然じゃあないか……。
32: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:34:12.91 ID:AYPU1R2FM
Aはそんなふうに、手先の1ミリに集中しぼっとうする余り、とうとうピンセットになってしまった。
それを一種の逃避であるとか投射であるとかいうむきもあろうが、どちらにせよ、かれがピンセットになってしまったことにはかわりがない。
いつ、どの瞬間からそうであったのかはもう知るすべがない。
33: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:35:11.77 ID:AYPU1R2FM
Aは困ってしまった。それというのも、ピンセットとなってはもはや文字の修正もできなくなってしまったからだ。
Aには、せんぱいにたのまれた仕事があったし、それをこなさなければ、せんぱいに迷惑がかかってしまう。
そうするわけにはいかないから、どうにかして、じぶんのことを周囲に伝えようとしてみた。
しかしこれがうまくいかなかった。
給仕のかのじょも、同僚のかれも、Aのことなど、いままできにしていなかったし、はなしたこともなかったから、そもそもいてもいなくてもかわらなかったのだ。
それでもAはじぶんにできる限りのことをしようとしてみた。
しかし、いったい一本のピンセットごときになにができるというのだろう。
手をのばすこともあしをのばすことも、まして一人で立つことすらできぬ。
人になにか伝えることなど、できるはずがなかった。
34: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:36:30.66 ID:AYPU1R2FM
だからといって、みながみな、Aを知らんぷりしたというわけではなかった。
もし隠そうとしたとして、いずれはばれるに決まっていた。
まず気がついたのはせんぱいだった。
せんぱいがAの失踪にきがついたのは、昼のとき。
昼のきゅうけいになって、Aの様子を見にいこうとしたとき、Aがいなくなっているのに、きがついたのだ。
かれはおそろしいほど怒りくるった。
それもとうぜんだろう。Aはしごとをほうっておいて、にげてしまったのだから。
「あの野郎。みつけたらただですまさねえ」
Aはやはり、どうにかして、せんぱいにじぶんのいばしょをつたえようとしてみたのだが、ピンセットはぴくりとも動かぬ。
Aは絶望した。
じぶんに口がないこと、手がないこと、あしがないことに絶望した。
そして日がくれ、みな事務所から帰っていった。
Aはひとりぽつねんとそこにとりのこされた。
35: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:37:00.44 ID:AYPU1R2FM
真暗な事務所のやみのなか、気がつけばAは人間に戻っていた。
Aはじぶんの手あしをたしかめてから、じぶんがもうピンセットでないことに安堵すると、じぶんのにもつを持って家に帰った。
36: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:37:26.74 ID:AYPU1R2FM
つぎのひ、Aはひどく怒られた。
Aはいっしょうけんめいじぶんのおちいった状況をせつめいしたのだが、それをしんじるようなひとはいなかった。
Aはひそかに、給仕のかのじょならあるいは、と心のうちで思っていたのだが、それもやはり願望にすぎなかった。
37: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:38:23.65 ID:AYPU1R2FM
それからたびたびAはピンセットになった。
事務所でAがしゅうちゅうりょくを途切らせると、必ずしこうの循環がやってきて彼をさいなんだ。
それがひどくなるとかれはピンセットになった。
ときどきなどは湯のみであったり、部長の付け髭であったりもしたが、いずれにせよAは怒られた。
Aはそんな生活がまったく不満で仕方なかったが、どうしてよいのかわからなかった。
一度などは妻にも相談してみたりもしたが、生憎かのじょは近所のせけんばなしというやつに興味津々であって、かれのよたばなしに耳をかすじかんなどなかった。
まったくだれひとりとしてかれのなやみを真摯にききとどける人はいなかった。
しかし、Aは、だからといって仕事をなおざりにしたりはしなかった。
かれはもう、いちにんまえのしごと中毒者のひとりだったから、じぶんからしごとをとりあげるなどということを思いつくはずもなかったのだ。
38: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:40:36.23 ID:AYPU1R2FM
あるとき、Aがしごとのきゅうけいじかんに、ふらふらと歩いていると、このあいだの一本の電柱が目に止まった。
電柱は、電線をつなぐもので、いまのエネルギー大量しょうひしゃかい、というやつにとっては、そのこんかんをなす血管のようなものだ。
Aはそれを見てなにをおもったのだろう。
そっとそのグレイのつめたいひょうめんに触れた。
その感触はまさにむきぶつとしか言いようのない、ぶこつであじけないものだったが、Aはそのかんしょくにひどくこころ踊るのをかんじた。
Aのゆびさきがコンクリートのかたさにふれた瞬間、Aのむねのうちにたけだけしいあらしのようなうねりが生まれたのである。
―いったいぜんたい、このおもいはなんだろう。まるでいままで夢見ていた……
Aはふとそこでパリに電柱は立っているのだろうか、とおもった。
―でんせんがそらをはっていない街なんて、そんなものは、とかい、とよべるだろうか。
かごのなかのとりとなって押し込められるから、とかいはとかいなのだ。
そうでなければ、いなかがいなかである意味がないじゃあないか。
Aは電柱のそんざいいぎをかんがえてみた。
はたしてわからなかった。
Aのしこうは、だっせんと、ちょくしんを、くりかえし、やがて、じこを、とうえいするにいたった。
Aはでんちゅうと、じぶんをかさねあわせ、そこになんのいわかんも持てないことに、さしてふしぎを、かんじなかった。
Aはきっと、そこになにかしら答えをみいだしたのだろう。
Aはそのしゅんかん、もうひとであることをのぞまなくなった。
39: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:41:24.09 ID:AYPU1R2FM
きがつけばAはもうでんちゅうだった。
Aはそれからもしばらくでんちゅうをしていたが、たまに、あきるとにんげんにもどる。
しかし、きがつけば、またでんちゅうにもどっている。
Aはやはり、こちらのほうがしっくりくる、とかんじている。
でんちゅうは、つねにうごかないわけではない。
かれらのなげきとともに、よるの、むこうで、うごめいている。
Aはいま、
40: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:41:54.36 ID:AYPU1R2FM
[文章はここで途切れている。残りのページは全て白紙に罫線のみである]
41: 以下、VIPがお送りします 2015/12/20(日) 00:44:10.52 ID:AYPU1R2FM
課題が終わらないので書きました。
もし読んでくださった方がいたらここにお礼申し上げます。
長々と読んでくださってありがとうございました。