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    『不思議な話部門 第三部』真冬の怖い話グランプリ


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    この記事では「不思議な話 部門」から8話をご紹介いたします。
    第三部は比較的長編のお話が多いです。

    良いなと思った話の番号とタイトルを投票ページから投票してくださいね!

    目次

    47.首つり屋敷とY先生 ななし様
    48.山の怪 ミヤマ様
    49.お守りの中身 ゴジラ4343様
    50.窓を叩いたのは…… 真冬のそうめん様
    51.秒針の針 糖分6ぱーせんと様
    52.赤い部屋 フラさん様
    53.明日を夢見て G.S様
    54.神様との約束 トマト様

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    47.首つり屋敷とY先生

    ペンネーム:ななし

    前置きが少し長くなりますが、よろしくお願いします。
    皆さんの学生生活の中で、最も印象に残っている先生は誰でしょうか。私はと言うと、やはりY先生のことが1番印象に残っています。
    それはまだ、私が中学生の頃の話です。確か、中学三年生になる春、彼女は音楽の先生として赴任してきました。彼女は雪のように白い綺麗な肌と、それに釣り合う程に整った顔立ちをしている女性でした。教員になったのがだいぶ前と話していましたので決して若い訳ではなかったのですが、それでも美魔女という言葉が似合う程の、歳を微塵も感じさせない美人でした。着任式の時、男子達が嬉しそうにコソコソ話していたのを覚えています。彼らの期待は、すぐに打ち破られることになるとも知らずに。

    というのも、彼女はとにかく表情が薄く、というか、皆無に近い人でして、正直不気味でした。授業中、教科書を読んでいる時はもちろん、ピアノを弾いている時ももちろん、その場にいる誰でもがクスリと笑いそうな、クラス一のお調子者の冗談すら、彼女は無表情を貫いていました。そんな彼女は時が経つに連れ、不気味と言うよりは、ただ単純に愛想の悪い人として認知されるようになりました。ただ顔立ちは確かによかったため、生徒から何らかの嫌がらせを受けていたり、変なあだ名を付けられていたりといったことはなかったと思います。

    ・・・・・そんなある日のことでした。私はお世辞にも勉強が出来る方ではなく、毎週行われる漢字テストでは毎週の様に不合格でした。そのため、日の沈む頃まで補習として、漢字の書き取りをやらされていたのです。
    不幸にも私のクラスメイトは皆そこそこ頭がよかったため、基本的に補習を受ける時はいつも1人でした。たまに一緒に不合格になっている人もいましたが、そんなの三ヶ月に一回あるかないかです。

    基本的に二時間くらいでしょうか。その間、A3の用紙にダラダラと漢字を書き、それを職員室前のBOXに提出します。その日も、いつものように書き取りを終え、用紙を持って一階の職員室に向かおうとしていました。すると、二階階段の端にある音楽室から、何やら音が聞こえてきました。私は音楽のことは詳しくないのでよく分からなかったのですが、なんだか悲しくなるようなピアノの旋律でした。ですが、素人の私からでも分かるように、父が聞いていたクラシックのCDにも負けないほどに上手いのです。・・・・・誰がその旋律を弾いているのかは、だいたい検討がつきました。

    私は好奇心で、音楽室の扉をゆっくりと開けてしまいました。するとピタリと、流れるような旋律が止みました。恐る恐る、私が音楽室へ入ると、そこには予想通り、Y先生がピアノに向かって座っていました。「何か用?」と、まるで最近、よく店頭に置かれているPEPPER君よりも無愛想に尋ねるY先生に対し、私は反射的に「いいえ」と答えました。するとその刹那、先生はまたピアノを弾き始めました。誰かが楽器を演奏している姿を直に見たことは殆どありませんでしたので、人間の指がこうも複雑に、一寸の狂いもなく動けるものなのかと、その美しいメロディと共に感動したのを覚えています。

    それから五分ほどして、曲が止みました。気まずい沈黙が流れるかと思いきや、「どうだった?」とY先生の方から話しかけてくれました。私は率直に「凄かったです」と答えました。今思い返せばもっとましな回答があったなぁ、とは思いますが、その時の私にはその言葉が精一杯でした。
    すると先生は「ならよかった」と呟き、「音楽、好き?」と再び私に問いかけてきました。私は少し悩み、「普通です」と答えると、先生の頬が少し緩みました。何故、この時先生が微笑んだのか、私にはわかりません。もちろん、今もです。ただ一つ、私は初めて見る先生の表情に、(あぁ、この人もやっぱり人の子なんだな)と安心しました。

    それから先生は何曲かピアノを演奏してくれました。その演奏は、時間が経つことを忘れるほどに、本当に素晴らしいものでした。そして時刻は、確か十九時を回っていたと思います。最後の曲も終わり、先生は「本当は、ブラスバンドの顧問をやりたかったんだけど」と言い残し、「またね」といつもの様に無愛想に呟き、部屋を後にしました。
    パタンと閉まる扉を見つめる私の目は、きっと輝いていたことでしょう。私は純粋に、彼女のことをかっこいいと思いました。それに加え、なんだか彼女の微笑んだ顔を見た事が私だけの秘密に思えて、とても嬉しい気持ちでいっぱいでした。無論、補習の提出時間を過ぎてきたため、後日怒られましたが。

    それから、私は毎週の様に漢字テストに落ちては、(しっかりと補習の提出を終えた後に)音楽室に向かうようになりました。その時の私はとにかく暇だったのです。(本来ならば勉強をやらなければならなかったのですが)
    というのも暇つぶしに入っていたバスケットボール部は一年生の夏に辞め、3年になってクラスも変わり、放課後遊ぶような友達も出来ませんでしたから。
    たまに先生がいない日もありましたが、私が音楽室へ行くと、先生はいつもの様に黙々とピアノを弾いていました。私が部屋に入るのは基本的に曲の最中ですので、その曲が終わると決まり文句のように私の顔を見て、先生が「また来たんだ」と言ってくるので、私は椅子を持ってきて先生の横へ座り、「来ちゃいました」と照れくさく答えます。そうして先生の弾くピアノに耳を傾けるのです。そこに会話はありませんでした。先生は一通りピアノに触れ、十九時前後になると席を立ち、いつもの様に私に一声かけて部屋を出ていきます。

    そんな日々が暫く続きました。確か、九月の中旬頃だったでしょうか。いつもの様に、漢字テストに落ちた放課後。相変わらず授業中も放課後も無愛想な先生に、思い切って聞いてみたことがあります。「なんで先生はそんなに無表情なのか」と。
    すると、初めて音楽室を覗いた時のように、旋律がパッと止みました。しばらくの沈黙の後、「生まれつきなのよ」とだけ答え、先生はまたピアノを弾き続けました。私はその沈黙に、その答えが嘘であると感じました。しかし、誰にも触れて欲しくはない部分はあると思い、深く言及はしませんでした。

    季節の移りは早いもので、受験シーズンになりました。その頃にはさすがに勉強をしなければやばいと思い、音楽室へは殆ど行かないようになりました。先生の顔も、音楽の授業の時だけに見かけるようになっていました。
    そして受験を終え、私は落ちるだろうと思っていた高校に前期試験で合格し、そのまま卒業しました。卒業時、Y先生に一言かけようか悩んでいたのですが、悩んだ末にやめました。というのも、先生と私は決して仲が良かった訳ではなかった、というのと、そういう水臭いのを先生が嫌ってそうだと思ったからです。卒業してから一度も、Y先生に会ったことはありません。

    前置きが長くなってしまってすみません。Y先生の話はここで1度終わらせていただき、本題に入りたいと思います。

    それはY先生に出会う前の、まだ私が小学生だった時の話です。皆さんの地域にも、一つや二つ、変な噂があると思います。私の住んでいた田舎では、小学校の頃から「首吊り屋敷」と呼ばれる一軒家の噂がありました。噂というか、本当にその家では首を吊った人がいたのです。中学生か、高校生かは分かりませんが、確か首を吊ったのは女学生だったと耳にしていました。私もそこまでよくは知りません。

    それは併設されていた小中学校から少し離れた山の麓にありました。山の麓と言っても、私の住んでいた田舎は駅前以外、殆ど麓のようなものですが。
    首吊り屋敷は数十年前にその女学生が首を吊って以来、一緒に住んでいたおじいちゃんおばあちゃんも亡くなってしまい、廃墟になっていると友達から聞いていました。「首吊り屋敷に行くと、数日後に交通事故にあう」「テストの成績が落ちる」「女の霊が殺しにくる」など、バリエーションはいっぱいあるのですが、とにかく首吊り屋敷に行くと呪われると皆が噂していました。しかし、学校から二十分ほど歩けば首吊り屋敷には行けましたので、歳を重ねるごとに「首吊り屋敷に行ってきた」と武勇伝の様に語る男子が増えていきました。

    私も一回だけ、確か小学六年生の時に屋敷に行ったことがあります。女友達二人と、万が一の護衛として、1番背の高かったM君を誘って行きました。M君は何回も首吊り屋敷に行ったことがあるらしいので、とても心強かったです。しかし、さすがに放課後の夕暮れは嫌でしたので、首吊り屋敷に向かおうと決めたのは土曜の日中だった気がします。私も含めて計四人でしたので、あまり怖い気はせず、ピクニック気分で屋敷に向かいました。

    しばらく歩くと、林の中に一件の家を見つけました。私はそれが首吊り屋敷なのだと直感でわかりました。それは想像よりも大きな家で、まさに屋敷という言葉がぴったりだと思いました。しかし随分年季が入っているらしく、所々壁が崩れ落ちていたのを覚えています。
    私たちはMくんを先頭に生い茂る草をかき分け、どんどん進んでいきました。首吊り屋敷の玄関に続く草は踏み潰されていましたので、男子達は本当にここに来ていたんだなぁ、と確信しました。

    いよいよ、屋敷内に入ります。M君ががらがらっとツタの絡まった引き戸を開けました。するとむわっと、埃とカビの入り混ざったなんとも言えない臭いが立ち込めました。日中といえども中は薄暗く、ここで人が死んだんだと思うとひどく不気味でしたが、皆はどんどん中に入っていきます。それはまるでその時読んでいた童話、ハーメルンの笛吹き男の、連れ去られる子供たちのようでした。

    仕方が無いので、私も皆に続いて中に入りました。床はぎしぎしと軋み、家の壁紙は虫に食われていました。ですが決してゴミが散らかっていたりしている訳ではなく、思っていたよりも小綺麗でした。家具はそのままになっているようでして、ボロボロではありましたが、特に変わったものはありません。居間に置いてあったクローゼットの中身を皆で開けてみましたが、ハンガーが数本入っているだけでした。電気の入っていない冷蔵庫の中もすっからかんで、正直、期待していたほど面白くなかったのを覚えています。

    一通り一階を見終えた後、女友達の1人が、女学生はどこで首を吊ったのか、とMくんに訪ねました。すると、M君はニヤニヤと笑いながら「今から行く」と言いました。そして、彼は得意げに玄関脇にある階段を上り始めました。なんだか嫌だなぁ、と思いながらも、私たちはM君について行きました。まるで自分の家のように、M君はズカズカとまるで我が家の様な足取りで、とある部屋に入っていきます。そこにはベッドと勉強机が置かれており、色褪せたアイドルのポスターが貼られていました。「ここで、首吊ったらしいぜ」と低い声を作って囁くM君でしたが、窓から差し込む日差しのせいで、全然怖くはありませんでした。怖いどころか、つまらなさすら感じました。勉強机の上にも、ベッドの下からも、何も面白いものは見つかりませんでしたから。M君も私たちのリアクションを見て、なんだか申し訳なさそうにしていました。

    すると女友達の一人が「帰ってみんなでバドミントンしよう」と言いました。皆口々に「そうだなー」と呟き、部屋を後にしました。私も皆に続こうとしたのですが、誰も手をつけてなかった勉強机の脇についていた収納ボックスが気になったため、それを最後に開けて帰ろうと思いました。
    上二段はすんなりと開きましたが、何も入ってはいませんでした。しかし、最下段の引き出しが開きません。よく見ると、簡易的な鍵穴がついていました。とても気になりましたが、皆はもう階段を降りています。一人で誰かが死んだ部屋にいるのも気味が悪かったので、しょうがなく屋敷から出て、皆と一緒に公園でバドミントンをして、その日は家に帰りました。


    それから首吊り屋敷の噂もどこかへ消え、Y先生との出会いを経て、小中高と無事に卒業した私は都内の大学へと通っていました。
    そして大学二年生の冬、私は実家に帰省して成人式に参加しました。そしてその夜、私の地域は小学校単位で同窓会が開かれていましたので、折角だったので参加しました。もちろんM君もそこにいました。
    私以外の皆がお酒を飲み、懐かしい面々と思い出に浸る中、M君と喋る機会がありました。そこでお互いの近況を話すうちに、M君の口から首吊り屋敷の話題が出てきました。
    首吊り屋敷の言葉に釣られ、そこにいた全員が「懐かしいなぁ」と口を揃えました。変な噂があったことや、各々が首吊り屋敷を探検した思い出を語り合いました。
    そしてそのまま酔った勢いで、M君が「今から首吊り屋敷に行こう」と言い出しました。雪の降りそうな寒空の中、率先して行こうという人はいませんでしたが、M君と仲の良かったR君は賛同しました。
    そんな中、ただ1人お酒を飲んでいなかった私に車を出してもらおうと、M君がしつこく私を誘ってきました。最初は断りましたがR君の後押しもあり、車内で待っているという条件付きで、しぶしぶ了承することにしました。

    私は首吊り屋敷から数十メートルも離れていない場所に車を止めました。M君とR君が寒い寒いと言いながら外に出ていく最中、私は屋敷の閉ざされた棚のことを思い出しました。当初は屋敷内に入る気はありませんでしたが、折角ならと思い、彼らと共に外に出ました。
    スマホのライトを翳し、数年ぶりに見る首吊り屋敷の外観は何一つ変わってはいませんでした。強いていえば、草木が依然よりも長くなっていたことくらいでしょうか。
    薄暗い中、あの時と同じようにM君が先頭に立って屋敷の引き戸を開けました。すると以前とは違い、屋敷の中がだいぶ荒らされていました。スプレーの落書きと辺りに散らばるビールやチューハイの空き缶を見て、R君が「ひでぇ」と呟きました。それは本当に、本当に酷い有様でした。ですが、ここまで来て引き返すのも名残惜しかったので、とりあえず二階に行ってみようということになりました。

    足元を照らし、埃まみれの階段を土足で上がります。女学生が首を吊ったその部屋もまた、酷く荒らされていました。しかし、なんとか机は無事のままでした。私は財布からクレジットカードを取り出し、その角を棚に付けられた小さな鍵穴へ押し込みました。そんな私を、二人は不思議そうに覗き込んできました。
    それは古い仕様の鍵穴でしたので、いとも簡単に鍵は回りました。カチリという音とともに、私は引き出しを開けました。そこにあったのは、二つの厚い封筒でした。一つは黄ばんでおり、もう一つはそれほど古いものではないようでした。両方の封筒とも、切手は貼られておらず、あて名も書かれておりませんでした。M君は私よりも先にそれらをつまみあげて、「きったねえ」と騒ぎ始めました。そしてそれをポイッとそこら辺へ投げ捨て、「帰ろうぜ」と呟きながら、Rくんと共に階段を下りていきました。それはまるで、数年前と同じような状況でした。最後に残った私は何を思ったのか、その二通の封筒を慌てて拾い上げ、くしゃくしゃに握りつぶして無理やり上着のポケットの中にしまいました。

    そのまま彼らと別れ、私は実家にある自分の部屋で、先程の封筒を取り出しました。他人の封筒の中身を見ることは、相手の恥部を見るようで後ろめたかったのですが、好奇心には勝てませんでした。
    とりあえず最初に、黄ばんだ古い封筒を開けることにしました。封を開くと、中には数枚の手紙が入っており、その一枚一枚に細かい線で、みっちりと文字が書き連ねられていました。以下はその手紙の内容を、私なりに要約して書いたものです。(一部、本文をそのまま書いております。人名は仮名です。)





    『私には姉がいました。
    姉と言っても、実の姉ではありません。義理の姉です。
    姉は凛々しい人でした。それを凛々しいというのは、私と二つしか年が違わないのが嘘の様な彼女の美貌のせいであり、本来は気味が悪い、と思うのが普通だったのかもしれませんが。――他人は勿論、義母や義父、そして義祖母の前でも、彼女は一切の表情も表には出しませんでした。ですが、彼女は私と話している時だけは、感情豊かに笑いかけてくれましたし、幾度か喧嘩をしたこともありました。そんな姉が、度々口にしていた言葉があります。
    「こんな体に生んだ世界を、私は許せないの」
     一度だけ、その理由を聞いてみたことがありまして、そのような答えが返ってきました。その言葉には怒りの感情は一切感じず、ただ、淡々と、機械の様にそう答えたのです。
     ――彼女は、そう、私がまだ八つの時に出会ったその当時から、車椅子を使用していました。
    当時の私はその病気がどのようなものか理解しておらず、また、姉も私を気遣ってか、誰もそのことを私に教えてはくれませんでした。
    「だんだん、体が動かなくなって行く病気なのよ」
     今思えば、十歳になっても相手を気遣うことを知らなかった私自身を、とても恥ずかしく思います。姉に直接車椅子に乗っている理由を聞くと、ニッコリと私の頭を撫でながら、そう教えてくれました。
     足が動かなくとも、どんな病気にかかっていようとも、姉は私にとってみれば完璧な存在でした。博識で、礼儀正しく、誰に対しても上品に振舞うのでした。それこそ無表情で不愛想だと思う人もいたかとは思いますが、そのことについて色々言うお客様もいませんでした。それほど、姉の振る舞いは美しかったのです。・・・・・お客様、というのも、私の引き取られた家は、都心から少々離れた田舎の中でも大きな地主でして、よく黒いスーツに身を包んだお客様が、私の、というのは烏滸がましいですが、姉の家を訪ねてくるのです。
    姉は、言わばお嬢様でした。よく彼女が義祖母に叱られていたのを覚えています。「将来はお前がこの家を守っていくのだ。早くその足を治せ」などと、無慈悲に責められている姉の姿は、見るに堪えませんでした。そんな中でも、姉は表情一つ、涙一つ見せませんでした。
     ですが、私は姉以上に義祖母、いや、義母、義父にも、いや、思えば一家全体から嫌われていました。それもそのはず、私はこの家から勘当された、義母の父の子なのですから。つまり、姉とはいとこの関係であり、義祖母は実の祖母に当たります。ですが、私は祖母のことを、義祖母と呼び続けます。
     父は、後の当主としての厳しい生活に耐えられず、お金を持って逃げたらしいのです。父のことを姉にしつこく尋ね、それを姉から教えられた際、父の失態を恥ずるよりも先に、姉を失望させてしまうのではないかと不安になりました。ですが、姉は「貴女のお父様の様に、私も逃げたいわ。賢いお父様ね」と、何故か褒めてくれました。それが本心かどうかは解りませんでしたが、私は安堵しました。
     
    そんな私が何故、この家に引き取られたかと言いますと、それは姉の病気のためだと思います。私は姉の義妹ではありましたが、実質は家政婦として引き取られました。下半身の不自由な姉の世話に掛かる負担を、少しでも軽くしたかったのでしょう。私は学校に行き、帰った瞬間から家政婦として働きはじめます。土日の休日などはありません。彼女の部屋を掃除するのも、食事を運ぶのも、足の爪を切るのも、排泄の処理をするのも、私が家にいる限りは、彼女を付きっきりで介護しました。
     その都度、姉は私に「いつもごめんね」と言うのです。私はその度、「そんな顔はしないでください」と言います。私は、一度も姉の世話を苦に思ったことはありませんでした。
    ・・・・・いつも優しく接してくれている姉への感謝の理由もありましたが、その時だけが、能無しの私が、唯一姉の上に立てる時でもありましたから。 


     私は姉の世話以外にも、他の家政婦の方々と同様、家の掃除を任されていました。その際、私の実の父の事情を知ってか、何人かの家政婦の方々から嫌がらせを受けることも多々ありました。
     時に大きな嫌がらせもありました。家政婦は皆、専用の作業服、俗にいうメイド服の様なものを着るのです。この家には家政婦専用の更衣室が設けられておりまして、その部屋に置かれている個人のロッカーにメイド服を閉まっておくのです。――ある日、私のそれがズタズタに引き裂かれていました。ロッカーには鍵が付いておらず、誰でも開けることができます。貴重品を入れるわけではなく、服を入れるだけですので、鍵がないことを気に留めたことはありませんでした。
     それを着るのは不可能でした。仕方がないので、私はメイド服を着ずに作業をし始めました。

    無論、私の姿を見かけた義祖母は激怒しました。「その服はどうした」「規律が乱れる」「馬鹿の子はやはり馬鹿だな」などと非難された後、「早く持ってこい」と言われたのでボロボロになったメイド服をロッカーから引きずり出してきて見せると、思い切り右の頬を殴られました。
    朝、ロッカーを開けたら既に引き裂かれていた、などと弁解しますが、目の前の老婆は聞く耳を持ってくれません。何かを喋れば喋るほど、頬を殴られました。そんな私の姿を見てクスクスと笑う他の家政婦の方々の顔は、まさに悪魔でした。

    そんな中、騒ぎを聞きつけたのか、姉が自走させた車椅子と共に現れました。すると、義祖母の刃先は、姉へと向けられました。「お前の躾が悪いから、こんなことになったんだ」そう叫びながら、義祖母は姉の頬を殴りました。その時、先ほどまでの家政婦達の笑い顔が、緊張と恐怖に包まれました。そして、義祖母は姉の頬を一発だけ殴ると、スタスタとその場を去っていきました。
     その後、私は姉の部屋に招かれ、そこで大きな声をあげながら泣きじゃくりました。全てを姉に説明し、泣きつかれてその場で寝てしまったので、その後のことはよく知りません。目を覚ますと、私は自分の部屋にいました。丁寧に布団をかけられていたので、姉が運んでくれたのか、と思うのと同時に、昼間から自分の失態で泣き疲れて寝ていた、なんて義祖母に知られたら、今度は頬を殴られるだけじゃすまないな、と不安に駆られました。

     ですが、そんなことはありませんでした。とりあえずボロボロになった制服を着るか、と更衣室に向かいロッカーを開けると、新品のメイド服がそこにはありました。目を疑い、遂にストレスで幻覚でも見え始めたのか、と思いながら服を触ると、確かにそれはそこにあったのです。着ていいものか悩みましたが、また殴られるのは嫌だったのでそれを着て、やり残した掃除の作業を始めました。掃除をしている最中、義祖母とすれ違いましたが、特に何も言われませんでした。

    私は他の家族とは違い、夕飯は自室で家政婦に振舞われる『まかない』のような質素なご飯を食べるのですが、その晩はやけに豪華な料理が運ばれてきたのを覚えています。更に翌日、私が殴られていた時に笑っていた家政婦たちは、全員が辞職していました。そして新しく一人だけ、「寺田さん」と呼ばれている、私と倍も年の離れた家政婦の方が、バイトという形で働き始めました。私と倍も年の離れている、と言ってもまだ十六歳の、高校を中退した少女でしたが。彼女は人懐こい性格と言いますか、明るくハキハキとしている方で、私を腫物に触るように扱っていた他の家政婦の方々とは違い、私の掃除を手伝ってくれた時もありましたし、世間話もよくしてくれました。彼女は学校では家政婦の仕事があるため、疲れ果てて授業の合間は寝てしまっていたらしく、放課後遊ぶことも無かったので友達はなかなか出来なかったらしいのです。ですから、私にとって姉以外の話し相手は寺田さんが初めてでしたので、とても嬉しかったです。

     姉にそのことを訪ねると、「辛かったわよね。もう気にしなくていいのよ」とだけ言われました。その言葉に、私がもう一度大泣きしたのは言うまでもありません。
    そして事は終わったのです。・・・・・私が眠っていた間のことは、あえて姉には聞きませんでした。いえ、聞かなかったのでなく、聞けなかったのです。私にとって、姉は優しいままの姉でいて欲しかったのです。今思えば、あの時に、姉の中の深く、深く、それこそこの世の全ての憎悪を煮つくしたかの様な、ドロドロとした晦冥を理解してあげるべきだったのだと思います。当時、姉は私にとって、義理という現実はあろうとも、本当の姉であり、母の様な存在でした。』





    この一枚目の手紙を読んだ時、私はある人物を思い出しました。この手紙を誰が書いたのかは定かではありませんが、明らかにこの文章の中の『姉』という存在が、不愛想だったY先生と重なってしまうのです。・・・・・私は、続いて残りの文章に目を通しました。





    『姉はよく、ピアノを弾いていました。
     車いすに乗りながらも弾けるようにと義祖母が特注したピアノが、だだっ広い姉の部屋の真ん中に置かれており、勉強をする前に、姉がよくピアノの練習していたのを覚えています。
     姉の奏でる曲はどれも、悲しい雰囲気のする曲でした。短調という言葉を私が知るのは、もう少しあとのことです。ショパンやバッハ、モーツァルトやヘンデルなど、有名な人物の曲から、聞いたことも無いような作者の曲も、とにかく彼女は暗い曲を好んで弾いていました。

     そんな彼女の奏でる曲は、確かに暗い曲が多かったのですが、非常に上手だったので、私は大好きでした。――そうです。私は当時、『好きか嫌いか』でしか曲を判断できない、私の大嫌いな『大馬鹿』だったのです。彼女の奏でる曲が『上手いから好き』になっただけであって、重い病気を抱えていようとも強く生きている彼女が、何故、人生を悲観するような曲を弾くのか、その時は全く考えもしませんでした。今でも時折、そんな自分を殺したくなる時すらあります。
     
    そんな姉の弾く曲の中で、取り分け好きな曲がありました。それはチャイコフスキーの「四季」です。中学校で習うヴィヴァルディの四季ではなく、チャイコスフキーの四季です。四季、と一言にいっても、貴女が中学校でヴィヴァルディの四季の中にある『春』を学んだ様に、チャイコスフキーの四季にもパート分けがなされています。彼女は基本的にその中にある『秋の歌』しか弾きませんでした。言わなくとも分かると思いますが、四季の中でも秋の歌は一際暗い曲です。
    ですが稀に、「雲雀の曲」を弾くことがありました。私が大好きだったのは、その雲雀の曲でした。いつも重い曲を奏でていた姉のピアノは、こんなにも明るくて面白い曲も演奏できるのか、と当時は興味津々に聴いていたものです。

    そのことを彼女に伝えると、「暗い曲ばかりだと、息が詰まっちゃうものね」と、苦笑いを浮かべていました。そうです。彼女は、私のために雲雀の曲を演奏していたのです。音楽に興味が出てきた私は、彼女にそれが「四季」、という大きな曲の一部であることを教えてもらいました。「日紗子が好きなら、全部弾いてあげる」と、それから彼女は時折、四季の十二章全てを弾いてくれることもありました。
    「いつか貴女に子供が出来たら、この曲を教えてあげて。とても素晴らしい曲よ」と、私の手を取り、四季をピアノで弾けるようにと教えてくれた時も、幾度かありました。

    ピアノを弾き終わると、彼女は勉強を始めます。それが日課でした。ピアノを練習してから勉強に取り組む。それを見張るのもまた、義祖母から命令された私の役目でした。
    「みんなには内緒だけれど、私は将来、学校の先生になりたいの」
     一度だけ、彼女が私に夢を語ってくれた事がありました。それはなんともありふれた夢でしたが、彼女のペナルティを背負っていては、どう足掻いても届かない幻想でした。それでも姉は夢を諦めず、毎日黙々と勉強をしていました。姉は学校には行っていませんでしたが、いつも十二歳の子供が読むには難しすぎるような教科書を使用して勉強していました。
     私は毎日、そんな姉の姿をボーっと眺めているだけでした。眺めているだけでも、姉といるだけで心が満たされていたのです。ですが、姉はそんな何もしていない私を不憫に思ったのかある日、「日紗子も何か勉強する?」と声を掛けてきました。

     姉の部屋の本棚には、いくつもの書籍がありました。これも、きっと義祖母が揃えたのでしょう。シェイクスピアやドスエフスキーなどの小説から、古く滲んだ読めない字が表紙を飾っている教科書まで、幅広い種類の本がそこにはありました。
    どれも難しそうで、興味が湧きませんでした。ですが、ふと、そこにいくつか置いてあったピアノの楽譜の一つに手を伸ばしました。音譜の読めない私にとって、それは未知の世界でした。当然のように理解は出来ませんでしたが、この楽譜に、姉の奏でる音楽が詰まっていると思うと、勉強せずにはいられませんでした。
    音楽について学びたいことを告げると「さすが、私の妹ね」と、彼女は嬉しそうでした。それから簡単に楽譜の読み方を教わりました。一通り理解したところで、彼女は本棚の端に閉まってある音楽論法の本を指さし、それを私に読むといいと教えてくれました。
     最初は何一つわからず、コード進行の基本のイロハすら完璧に理解するのに数か月かかりました。知識が追い付かず、挫折しそうになったことも多々ありましたが、大好きな姉が私のために勧めてくれた本です。解らないという理由だけで手放すことはできませんでした。

    来る日も来る日も、姉の隣で音楽を学んでいく内に、私はある程度、まともに聴ける曲を作れるようになりました。過去の偉人たちに比べてば抑揚のない、単調な曲でしたが、それでもがむしゃらに一曲作り上げました。その曲を、最初に弾いてもらおうと思った相手は、勿論姉です。 
     ある日、いつもの様にピアノの練習を始めようとしていた姉に、自分の作った曲を弾いてくれと頼むと、姉は大切な練習時間を割いて、嫌な顔一つせずそれを弾いてくれました。自分で作った曲を生で聞くのは恥ずかしかったのですが、姉が「これ、本当に日紗子が作ったの?」と興奮混じりに問いかけてきてくれたので頷くと、「今までのどんな曲よりも綺麗な曲だったよ」と頭を撫でてくれたので、先ほどのまでの恥ずかしさはどこかに溶けて消えて行き、たまらなく嬉しくなりました。そして同時に、どこからか創作意欲がドクドクと湧き出て来るのです。

     その頃から、私は、作曲家になりたいと思い始めました。音楽の勉強にはより熱が入り、曲を作る度に、その都度完成度は上がっていきました。また、頻繁に頼むと迷惑になると思って控えめにしていましたが、度々姉に、自分の作った曲を弾いてもらいました。姉から褒められることは、私にとって万物に勝る幸福だったのです。
     家政婦の仕事も、寺団さんが来てくれからというもの、寺田さん繋がりで他の家政婦の方々とも話す機会が出来、前に比べて遥かに居心地が良い場所になっていました。何もかもが上手くいき、悩み事一つもなく、毎日が楽しいと思えたのは、それが初めてでした。・・・・・ですが、幸せはそう長くは続きません。』





    文章から察するに、この手紙の書き手が『日紗子』という人で間違えありません。それは確か、Y先生の名前ではありません。しかし、音楽の先生であることと、ピアノに深い関心を持っていたこと、それらも同時に考えると、どうしても手紙の主がY先生だと思えてしまうのです。





    『それから、二年ほどの月日が流れ、冷たい冬の時期だったのを覚えています。
    ――その日、姉の指が、彼女の思うように動かし難くなり始めたのは、本当に、本当に突然でした。
     いつものように姉がピアノの練習をしている時、常に微塵の狂いもなかったピアノの旋律が、突如鳴り止みました。この頃の私は、姉のピアノを聴きながら音楽の勉強をするのが日常でしたから、以前の様に、じっと彼女がピアノを弾いている姿を見ていることは、殆どありませんでした。ですから、ピアノの音が止んだ時は驚いて教科書を投げ捨てるように手放し、急いで姉のもとへ駆け寄りました。

     ――姉の右手は、小刻みに震えていました。ですが暫くすると、その震えは止まりました。姉の口から、「あの時と同じだ」と小さく声が漏れたのを、私は聞き逃しませんでした。あの時と同じ。それはつまり、姉の両足のことを言っているのだと、一瞬で解りました。
     「おばあ様を呼んできます」と、走りだそうとした私の腕を、姉は手汗いっぱいの掌で力いっぱい握りました。そして額にも汗を滲ませながら、「大丈夫だから」と繰り返すのです。姉は時間が経つに連れ、徐々に力を強くして、私の腕を掴み続けました。今言わなければ、取り返しがつかなくなるかもしれない。そう思う反面、経った一瞬の震えなど、気のせいなのかもしれないという考えも、どこからか出てきました。私は懇願する姉の姿に負け、「解りました」と言うと、すっと姉の手から力が抜けました。――それが、悪夢の始まりでした。
     
     翌日も、同じことが起こりました。
     しかも、今度は姉の右手の震えが、数十分近く止まらないのです。流石にまずいと思い、私は義祖母よりも先に、更衣室で私服に着替えていた寺田さんを呼びました。昨日、義祖母を呼んでくると言った時の彼女の目は、どこか怯えていたと感じたので、まずは信頼のおける寺田さんを呼ぶことにしたのです。

     姉は私といる時は感情を表には出しますが、私といる時でも、誰か別の人がいるのならば感情を殺します。それが、私と仲の良い寺田さんでもです。ですが、そんな余裕はなかったのか、寺田さんが駆け付けた時にも、彼女は顔をしかめていました。そして姉は何を思ったのか、震えていない左手で、思い切り右手を叩きつけたのです。金槌で杭を叩くように、何度も、何度もです。その姿を見て、私と寺田さんは反射的に止めに入りました。その時の姉の暴れようと言ったら、まるで別人でした。「離せ!」と獣のように叫び、髪の毛を振り回し、それはもう、私にとって見るに堪えない姿でした。暫くして義祖母が男の使用人を連れて来るまで、姉は必至で抵抗していました。

    「ここは下がれ」とだけ義祖母に言われ、私と寺田さんは部屋を追い出されました。心臓がバクバクと轟き、鼓動を止めません。私は今にでも泣きそうでした。そんな私を見て寺田さんは、「きっと元気になるから大丈夫だよ」と慰めてくれました。それだけが、私の支えでした。「甘いものでも食べに行こうか」とその後、寺田さんに初めてファミリーレストランへ連れて行ってもらいましたが、出てきたパフェが喉を通るほどの余裕は、その時の私にはありませんでした。そして挙句の果てに、ぽろぽろと、目から涙が零れ落ちてきたのです。・・・・・すると寺田さんは、こんなことを喋り始めました。

     実は、寺田さんの仕事内容の一つに、私と友達になることが含まれていたらしいのです。これは義祖母ではなく、姉が直接寺田さんに交渉したことらしく、姉は追加の賃金を払うと言ったのですが、寺田さんは追加でお金を貰うことを断ったらしいのです。お金など貰わなくとも友達にくらいなると、姉から私の実の父のことを聞いた上で了承したらしいのです。姉は、私のことを何よりも大切に思っていて、今日はたまたま先ほどのような言動をとってしまっただけだ、と寺田さんは必死に私を元気づけようとしてくれました。それを聞いて私は、更に涙を流しました。それを見て、寺田さんは困っていましたが、私が泣きながらもパフェを口に運び始めたので、意味を理解して安心しているようでした。

    ――次の日、姉の姿を見たのは、薄暗い病院の一室でした。
    その時には、もうすでに姉の右手だけでなく、左手も動かなくなっていました。肩から下の感覚は皆無らしく、彼女の静かな呼吸の音だけが、病室を静かに包み込んでいました。
    姉は私に、昨日のことを謝りました。・・・・・その日を境に、私と二人きりの時は感情豊かだった彼女の顔を、もう見ることはありませんでした。

    彼女はただ、まるで昔、憧れていた姉の勉強姿をボーっと見つめていた私の様に、窓際のベッドの上でただ呆然と、冬の澄んだ青空を眺めていました。姉の食事はいつも点滴で、その他の世話も病院の方々がやってくれましたので、私もただ、姉と同じく空を見ていました。何を話していいものか解らず、病院の面会時間いっぱいまで、ぽつんと姉の横で座り、その後家へ帰るのです。

    丁度、姉が入院し始めた頃から、義祖母さまから、姉の部屋には入るなと言われました。そして、「もう家政婦の仕事はしなくてよい」とも言われました。何故、と聞くこともできず、「はい」と力なく答えました。――それから私は、音楽の勉強を辞めました。日に日に埃の積もる、姉の部屋に眠るピアノのことを思うと、勉強などする気にはなれなかったのです。
    私は学校が終わると、すぐに姉の病室へ足を運びました。
    そして話すことも無く、沈黙の中、日々は流れて行きました。姉の好きそうな果物を数少ないお小遣いを使って買い、それを病室に持って行ったことがありましたが、「もうご飯は食べられないの」とか細い糸の様な声で告げ、姉はそれを貰ってはくれませんでした。私が果物を切って食べさせてあげる、などとは言えませんでした。優しかった姉の目は、まるで大嫌いな義祖母の様でしたから。

    それからまた数日が過ぎたある日のことでした。病室を訪れるとドア越しに、姉のむせび泣く声が聞こえました。誰にも知られず、ただ一人白いベッドの上で泣いている姉の姿を想像すると、私まで泣いてしまいそうでした。その日、私は姉の部屋の扉を開けることなく、家へ帰りました。

    その次の日でしょうか。姉から私に話しかけてくれました。ですが、なんともありふれていて、それでいてその時の姉の容態からすると最も否定的な問いかけでして、その「死んだらどうなるのかな」という質問に、私は何を返したらいいのか悩みました。悩んだ挙句「そんなこと言わないでください。いつか必ず元気になりますよ」と言うと、姉は「嘘つき」とだけ言い、そして再び、私たち二人の間に、沈黙が流れたのです。

    姉の姿を見たのは、その日が最後でした。』





    『姉が死んだという知らせを聞いたのは、まだ明け方の、時計の指針が午前四時頃を示していた頃だったの覚えています。バタバタと、外では騒がしい足音が、姉の訃報と共に聞こえていました。私は寝ぼけていたので、それが質の悪い夢だろうと思いながら、もう一度、深い眠りにつきました。
    目覚めて義祖母から直接姉の死を伝えられ、そこで初めて姉が亡くなったのだと理解しました。姉の死は私にとっては現実離れしすぎていて、実感の湧かないものでしたから、涙は出ませんでした。『近々姉が亡くなる』というのは近日の状況から解っていましたが、いざ姉が亡くなってみると、なんというのでしょうか、心を槍で貫かれ、そこにポッカリと大きな穴が開いた様な気持ちになり、泣くことすらできなかったのです。

    義祖母は私に、「お前は葬儀には参加するな」と言われました。何故かは、私自身が一番よく解っていました。一家の恥さらしの娘が親族の前に出るなど、あってはならないことです。ですが、姉と私の親密な関係を、鬼の様な義祖母も知っていたはずなのです。それを彼女が知っている上で葬儀に参加するなと言われると、頭の中ではそれを理解できていても、心の中ではまだ理解できませんでした。拗ねる、とでも言うのでしょうか。私は義祖母への仕返しのつもりで、皆が葬儀に出ている中、入るなと言われていた姉の部屋に入り、あるものを探し始めました。

    姉は賢い人でした。自分の死期も、悟っていたのだと思います。ですから遺書の一つや二つ、必ず書き残していたはずなのです。まず、指でなぞると指に埃が絡まるくらいに白く染まったピアノを、隈なく探しました。ですが、ピアノには遺書らしきモノは隠されていませんでした。姉の使っていた車椅子もそこにはありましたので、それも調べてみましたが、やはり見つかりません。
     その時、ふと『四季』の楽譜が目に入りました。私はそれを手に取り、ページをパラパラと捲りました。すると「雲雀の曲」の譜面の間に、『日紗子へ』と書かれた一通の紙が挟まっていました。

    私は恐る恐る紙を開きました。・・・・・するとそこには、この世界に対する恨みつらみが一面に書かれていました。そこにはもちろん、義祖母のことも書かれていました。一度も義祖母と血が繋がっていると思ったことはない、早く死んでしまえと、ひと際筆圧の濃い字で書かれていました。そして、最後に私へのメッセージが綴ってありました。そこには唯一の、感謝の言葉が述べられていました。それを読み、私は姉の死んだことをじわじわと実感すると共に、ぽろぽろと涙が零れ落ちました。そして最後の最後、こう書かれていました。
    『あなたの人生はあなたの人生。そこに私の意思を混ぜてはいけないことも分かっています。でも、もし叶うのならば、是非とも私の夢であった学校の先生になってください』と。それは姉が私にかけた呪いでした。

    私はその後十五歳になると同時に改名し、それとほぼ同時に里子に出されました。私はその田舎で狂ったように勉強し、ピアノの練習に明け暮れました。私は無意識に、教師ではなく姉そのものになろうとしていたのかもしれません。

    ですが、そんな私にも心を許せる男がいました。ですが彼は、子どもが出来たと知った途端、音信不通になってしまいました。男とは、本当に信用ならないものです。結局私は子を産みました。しかし、音楽大学への進学のために子どもは田舎の義両親に託し、そのまま大学を卒業し、無事教員になることが出来ました。
    お金は義祖母から家を離れる際に大量に貰っておりましたので、学費、生活費に困ることはありませんでした。・・・・・そして、それから一度も田舎に帰ることはありませんでした。ですから、数年の音信不通を経てその田舎に戻り教鞭を執ると決まった時は、後ろめたい気持ちで心がはち切れてしまいそうでした。

    あなたの名前をクラスで初めて聞いた時、本当に、本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。本当にごめんなさい。今更母親面する気も、そんな権利もありませんが、どうか、どうか命を絶つことだけは止めてください。全ては私の責任です。あなたが悩むことなど一つもありません。どうか、その恨みは全て私にぶつけてください。』





     私はもう一通の封筒も開けました。そちらには二枚の手紙が入っており、字体の違う文字が書き綴ってありました。(こちらも先ほどと同様、仮名を使わせて貰っております。)





     たまに、夢を見ます。笑い合って焼き魚を食べる姿を。
     またある日は、テストで赤点を取った私を怒る先生を宥める父を。
     そしてまたある日は、三人でどこか知らない場所に、旅行に行った夢を。
     こうした日々が続いていたならば、この様な結末にはならなかったのでしょうか。
     大抵この様な夢を見た朝は、枕が濡れています。楽しいはずの夢なのに、枕が涙でいっぱいになっているのです。おかしいですよね。

     そしてその類の夢を見た日の夜は、必ずまた別の、とある夢を見ます。
     悪夢とでも言いますか、クラスメイトの夢を見るのです。この夢を見ている時、私の身体は当時の、中学生の頃に戻っています。
     彼らの顔は、一人ずつ、ホクロの位置さえも鮮明に再現され、薄暗い教室の中、全員がずっと私の顔を真顔で見続けているのです。
     一見面白そうに聞こえますが、そんなことはありません。私は何故か身動き一つとれず、まるで、十字架に張り付けられたキリストを体現しているような気分になるのです。そして、突然どこからか黒い影が出てきて、そらは集まり一本の腕になります。ひゅるりひゅるりと、それは徐々に近づいてきて、私の細い首を、雑巾から水を一滴も残さず絞るかのように、強く握りしめるのです。

     夢の中なのですが苦しく、私は無様にもがきます。すると、彼らの顔が一斉にニタリと、不気味に笑うのです。そして、私は「助けて」とか細い声で叫ぶのですが、「裏切り者」などといった声がどこからか聞こえてきて、私の声を掻き消します。
     目が覚めると、背中が汗でぐっしょりと濡れているのです。

     先日もこの夢を見ました。四年に一度の大寒波が押し寄せたと、ニュースで話題になっていた日でした。その氷点下に近い気温の中、私は掛けていた毛布を蹴り飛ばし、額には前髪がべったりと滲み張り付くほどに、汗を掻いていました。また徐々に心臓がバクバクと、潰れそうなほどに鼓動し、呼吸は百メートルを全力で走った後のように荒くなり、黒い何かが喉に詰まって行くかのように息苦しくなるのです。

    ですが、あそこにいた誰が、私を呪い殺す権利を持っていると言うのでしょうか。
    先生に濡れ衣を着せた誰が、私を侮蔑し、憤懣し、殺す権利を持っているのか。自分にそう問いかけると、先ほどまで私の喉の奥に突っかかっていた蟠りがスッと溶け、何事もなかったかのように一日が始まるのです。



    佐竹君も、村上君も、他のみんなも、私も、そして先生も。私たちを一言で表すのならば、「クズ」という言葉が一番似合うのではないでしょうか。
    ただ、そんな中でも一際クズだったのが夢佳でした。なにを隠そう、彼女は優しかったのです。捨てられた子猫がいたならば拾い上げ、ボランティア活動にも積極的に参加し、クラスの委員長も務め、皆の嫌がることを進んでできる子。先生もよくご存じでしょう。・・・・・ただ、彼女は少し優しすぎました。いじめに加担しつつも、村上君へ偽の愛情を振りまく彼女の姿は、見ているだけで胃液が込み上げてきました。下手に八方美人を気取る彼女の優しさが、更に村上君をどん底へと突き落としたのです。彼女のことを「上手い奴」、と言うのでしょうか、はたまた、「ずるい奴」、とでもいうのでしょうか。彼女の姿を見ていると、人はどんなに美しい見た目で、それでいて行いも慈善に満ちていえども、必ず心の中に悪魔の一、二匹は飼っているのだと、しみじみ感じさせられます。そういえば、ラジオで流れていたラブソングをよく口ずさんでいだ夢佳は、大人ぶっていて少し癪に障りました。――そんな女が村上君の初恋の相手だなんて、本当、笑えますよね。

    しかし実際、彼らに罪はありませんでした。述べた通り、悪いのはすべて私です。真に糧になるべきは私だったのです。
    ですが、時というものは本当に残酷で、戻すことができません。
    だからこそ『懺悔』なんて言葉があるのでしょう。人間である自分ではどうしようもなくなり、挙句の果てに神様に告白して許してもらった気でいる。しかし私は無神論者です。神にすがることのできない私は、自らで罪を『償う』しかないのです。

    ・・・・・そうです。償いとは、相手と同じ業を背負うこと。つまり、命を奪った私は自らの命を差し出すことでしか、罪を償えないのです。数による天秤の片寄は有りますが、それでも、これが今の私にできる精一杯の償いです。そして同時に、これは村上君を救えなかった先生への復讐でもあるのです。
    こんな人殺しの手紙を、最後まで読んでくださりありがとうございます。長くなりましたが、遺言と言ったら烏滸がましいですが、最後に一言添えて、この手紙を終えたいと思います。
    お母さん。来世もまた、あなたの子として産まれたいと、心底願っています。
     




     手紙はそこで終わっていました。全てを読み終え、私はなんて取り返しがつかない物を見てしまったのだと、後悔の気持ちでいっぱいでした。後にこの手紙は写真で撮影した後、ライターで燃やしました。首つり屋敷とY先生の繋がり。それを今更になって確かめる術はありません。この一連の出来事を改めて整理してみると、なんだか運命というものが本当に存在しているような気がします。
     以上が、私の人生の中での最も奇妙な出来事です。スッキリしない最後で申し訳ありません。


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    48.山の怪

    ペンネーム:ミヤマ

     山登りが趣味で、週末はよく一人で遠出する。これは今から20年ほど昔、ゴールデンウィーク前に思い切って有給をとって7連休、東北のほうまで足を伸ばしたときの話。

     初日の目的地は、僻地にある標高1,500メートルほどの山。昼前から軽く登って、日が落ちる前には降りてくる計画だった。そして麓の宿に戻って温泉に入る。そしてビールだ。存分に飲もう。この休暇を楽しみに、ここ数か月過ごしていたのだ。

     ところが、いざ麓の集落についてみると、そこは完全に廃村になっていた。これも奇妙な話ではある。この場所のことは山の仲間から聞いたのだが、彼がここを訪れたのはほんの数年前だった。点在する家や畑の荒れかたから見るに、打ち捨てられてからゆうに十年は経っているように見えた。車を停め、地図を確認する。どこかで道を間違えたのかもしれない。しかし何度確認しても、どうやらここが、その場所であるようだった。近くの電信柱には『裏○○(集落の名)4-19』と、錆びついたプレートが留められていた。
     豪雪はこうも家屋を痛めるものだろうかと、首をひねりながら私は車を進める。やがて宿が見え、『ならく湯』と、朽ちた看板に辛うじて読める。しかし、どうやらここもとうに店仕舞いを終えたようだ。木造の建物は荒れ果て、今にも崩れ落ちそうだ。仲間が、泉質の良い、雰囲気のある宿だったというから、楽しみにしていたのだが。

     登山口は、宿のすぐ脇にあった。 私はずいぶん迷ったのだが、当初の予定通りここで山に登ることにした。引き返して計画を変更しても良かったのだが、その日は朝4時からずっと運転していて、私の身体は山を求めうずいていた。やはり、私は山が好きなのだと痛感する。それに、考えようによっては打ち捨てられた集落というのも、なんとも魅力的で、心惹かれるものではあった。ひと通りのキャンプ道具は車に積んでいたし、食べ物もある。今日のところは、ビールは我慢しよう。まだ日程は長いのだ、楽しみはとっておいて損はない。そのかわり、今日は完全にひとりきりで山を満喫できそうだ。私は車を停めるとさっそく登山の準備に取り掛かる。
     装備を整え、時間を確認するとまだ10時前だった。のんびり登っても、夕方までにはゆうに戻ってこられるだろう。日が落ちるまで近くの沢で釣りをして、それから焚き火を起こそう。1日の計画を頭の中で巡らしながら、自然と頰がゆるんでくる。さて、出発だ。 

     登山道に入って程なくして、私は真新しい足跡を見つけた。ほっとするような、がっかりするような、複雑な気持ちになる。山道は草に覆われて分かりにくくなってはいたが、踏み跡はしっかりしていた。案外、人が入ってるのかも知れない。ボロボロになった目印のテープも所々に残っていたから、私はどんどん登っていった。春の緑は青々として、汗とともに日頃の疲れが流れ出していくように感じられた。

     山頂には昼過ぎに着いて、先ほどの足跡の主がいるかと辺りを見回してみるが、人の気配はなかった。尾根を先へ進んだのか、それとも数日前の足跡だったのかも知れない。かたわらに小さな祠を見つけ、これも朽ち果ててはいたが、一応手を合わせる。見晴らしのいい場所に腰を据え、朝作ってきた握り飯を頬張りながらこの後の計画を考えた。もう少し進んでみてもいいが、やはり下山することにしよう。久しぶりの登山で、身体は思ったより疲れていた。今日は早いところ降りてしまって、あの素晴らしい沢で釣りをしよう。そう決めてしまうと、私は鳥の鳴き声に耳を澄ましながらこの長い連休、明日からの幸福な計画に思いを巡らせた。

     遭難の大半は、下山時に起こる。山頂を出発してから半時間ほど経って、私は道を見失ってしまった。木の幹に留められた白いテープを追っていたのだが、明らかに登頂中に通っていない場所に出てしまった。というのも、傾斜が緩くなり、辺りの樹々が古くなった。ほとんど原生林と言って良い。陽の光が地上まで届かず薄暗い。登りはずっと明るい二次林が続いていたから、いつのまにか完全にルートから外れてしまったようだった。
     ここで、登り返して山頂へ向かうべきだった。しかし私はまだ30分ほどしか歩いていないことから、それほど大きくはルートから外れていないと思い、下りながら山道へ戻ろうとした。コンパスと地図を出してみると、進んできた方向から考えてどうやら少し南にずれてしまったようだった。北へ向かいながら降りれば、いずれ山道に突き当たるだろう。

     この甘い考えが致命的だった。それから半時間ほど歩いたところで、私は完全に自分の位置を見失っていることに気が付いた。目の前には、地図にない大きな湧水池が広がっていた。静謐で美しい場所ではあった。しかし私は、その湧水池に出た瞬間に強い恐怖に捕らわれた。ひとつには、この湧水池が地図にないことだ。何度確認しても、私が今いると思われる辺りにこのような水場はなかった。この大きさの水場が地図にないことはありえない。もし仮に近年湧き出したものだとしたら、木が水没していなければおかしい。その水面はまるで一枚の鏡のように澄んで、どこまでも平らだった。
     そしてその不可解さとは別に、私の感じた恐怖はもっと根源的な、本能的なものだった。いや、これはあと知恵かもしれない。今となっては判別がつかない。とにかく、私は地図を広げて、自分の位置を確かめようとした。歩いた時間からして、山頂から400m圏内にいることは間違いない。年輪のような等高線をぐるりと目でたどり、その幅の一番広いあたりに検討をつける。地図にある地形とはずいぶん違うが、しかし、と、静まり返った中に水音が響き、私は皮膚が粟立つのを感じた。視界の隅の水面を、波紋が滑らかに広がる。

     顔を上げると、それは池の中心に頭部を突き出して私を見ていた。白くぶよぶよと膨らんだ頭部に二対、芥子粒のように小さな黒い目が、じっと私を見据えていた。奇妙な臭いが私の鼻をついた。じゃぶり、とまた波紋が生じ、とたんに、私は駆け出した。

     どれくらい走っただろう、私は完全にパニックに陥っていた。木の根に足を取られ転倒し、我に返る。落ち着け、と私は自分に言い聞かせた。目を閉じて、息を長く吐き出す。目を開けると、いつの間にか手に持っていた地図とコンパスが無くなっていることに気が付く。最悪だ。また焦燥がのど元にせりあがってくるのを必死に押しとどめ、耳を澄ます。どうやらあいつは追ってきていないようだ。おそるおそる振り返り、そして立ち上がる。手は擦り剝け、右の足首にも鈍い痛みがあったが、大きな問題はなさそうだった。私はどの方角に走っただろう。とにかく山頂に戻らねばならない。私はバックパックに入っているホイッスルのことを思い出した。これまで一度も使ったことはないが、山に入るときにはいつも携帯することにしているのだ。あるいはあの先行者に気づいてもらえるかもしれない。いや、しかしさっきのぶよぶよはいったい何だったんだ? 遠野物語じゃあるまいし、河童かなにか知らないが、やつは私を追ってくるだろうか? そこまで考えて、私は思わず乾いた笑い声を立てた。

     途端に、考えれば考えるほど可笑しくなってきた。自分の狂気じみた慌て方や、愚かなふるまいや(この状況で地図とコンパスを放り出してくるとは!)、さっきのあのぶよぶよのことがおかしくてたまらない。山で変なものを見たという話は、これまでうんざりするほど聞いてきた。皆口をそろえて見間違いではなかったと言うのだ。今なら彼らの気持ちが分かった。ストレスと疲労は、人にこんなにもリアルな幻影を見せるものなのか。「馬鹿らしい」と、わざと大きな声で私はつぶやいた。それに仮にあのぶよぶよが実在し、襲ってきたところで、何がそんなに恐ろしいというのか。イノシシのほうがよほど危険じゃないか。

     私はホイッスルを取り出すと、それを大きく吹き鳴らしした。10秒に1回、計6回鳴らしたら60秒数え、また10秒に1回…、遭難の合図だ。ついでに、バックパックに仕舞っていた折り畳みのナイフをベルトに通し、頑丈そうな木の枝を拾って杖にした。鉈をもってくるべきだったな、と後悔する気持ちをまた笑い飛ばし、私は山頂を目指した。陽の傾きと傾斜の方向から、このまま登っていけば山頂につくはずだ。私は無心に数をかぞえ、ホイッスルを鳴らしながら斜面を登って行った。

     どれくらいの時間歩いただろう、ようやく山頂が見えたとき、私は安堵からその場にへたり込みそうになった。時計を確認すると、もう午後4時を回っていた。
     先ほど昼飯を食べたあたりまでなんとか歩いて崩れるように腰を下ろすと、チョコレートバーをむさぼりながら水分を補給した。

    「笛を吹いてたのはあんたか」と、後ろから声がして、私はむせ返った。激しくせき込みながら、見ると男が立っていた。60代くらいだろうか、古びた登山服を着て、腰に大ぶりの鉈を帯びていた。
    「ああ、お騒がせしてすみません。道に迷ってしまいまして」と私。男はじろりと私を上から下まで見て、ふんと鼻をならした。
    「それなら俺についてくるといい。これから降りるところだからな」
     私は礼を述べ、気持ちがふっと緩むのを感じた。私が荷物をまとめている間、男はじっとこちらを見ていて、その目線が少々気になったが、私はなにより道連れができたことにすっかり安心していた。
    「このあたりに住んでいるんですか?」と、私は男について歩きながら訊いた。
    「いや、ちがうよ」と男は言った。私は続きを待ったが、男は無言で進んで行く。
     その足取りは早かったが、片足が不自由なようで、身体を大きく揺らしながら歩いている。そのたびに腰に帯びた、錆びついた鉈がぶらぶらと揺れる。

     「私は〇〇(集落の名)のほうから登ったんですが、あなたもそちらからですか?」と、私は念のため訪ねた。今進んでいる道はおそらく登ってきた道だと思うが、念のため聞いた。
    「そうだよ。大丈夫だ。俺に着いてくれば」と男は言った。
    「ここはよく登るのですか?」
    「ああ。よく知ってるよ、庭みたいなもんさ」
    「さっき、ここを降りていたんですが、気が付いたら道を外れてしまいまして。それで、大きな池のようなところに出たんですが、その辺りのことはご存知ですか?どうも地図に載っていなくて参りました」
    「この辺はけもの道が多いから、気を付けていないと迷いこんじまう」
    「目印の白いテープを辿っていたのですがね」
    「さあ、猟師が使っているんだろう」
    「そういえば、ふもとの村はいつ頃からあんな感じなんでしょう?温泉に入ろうと思って楽しみにしてきたんですが」
    「……」

     と、男は鉈を手に取ると、登山道を外れて藪の中に進みだした。私がぎょっとして立ち止まると、男は振り返って「こっちが近道だよ。大丈夫だ、疲れてるんだろう」
    「いや、すみませんが藪漕ぎは苦手で。私はこのまま降りようと思います」
    「おいおい、また迷っちまうよ。大丈夫、すぐに広い道に出るんだよ」
     地図もコンパスもなく、夕暮れが迫っている今、男に強く促されると、私は拒否できなかった。違和感を覚えながらも、私は自分の感覚を信用できず、つい男の意見に流されてしまった。
     しばらく進んでいると、男が何かつぶやいた。私が聞き返すと、男は大丈夫だ、とか、こっちであっているよ、などと繰り返す。そして相変わらず何かぼそぼそとつぶやいている。私がいよいよ心配になって立ち止まると、男は突然私の腕をとって、驚くほど強い力で引っ張った。私が反射的にその手を振り払うと、男は歯をむき出してわけの分からない言葉を口にした。
     狂っている、と私は思った。

    「やはり、私はさっきの道から降りることにします」と私は言った。
    「もうすぐそこだよ」と男は言った。
    「ええ、ですが…」
    「あんた、名はなんというんだ?」男は私の言葉をさえぎった。
    「さっきの道のそばに車を止めているんですよ」と、私も構わず続けた。
    「車?ああ、私の車もあんたのやつのそばに止めたんだ。だから大丈夫だよ」
     嘘だ、と私は思った。男がまた伸ばしてくる手を避けて後ずさり、私はそのまま来た道(というか藪の中)を戻りだした。「そっちはだめだ」と、男が大声を上げるが、私は無視して歩調を早める。
    「お前の名を教えろ!」と、男が叫ぶ。そして私を追ってきた。私はいつの間にか走っていた。男はまたわけの分からない言葉で絶叫しながら、しばらく追ってきたが、やがて追跡をあきらめたようだった。しかし事態は相変わらず最悪だった。私は完全に道を見失っていたし、もう辺りは茜色に染まっていた。それに、つい男に車の場所を教えてしまったことも悔やまれた。まったく最悪の一日だと、私はがむしゃらに進みながら思った。

     しばらく進むと、近くの樹にまた白いテープが留められているのが見えた。さっきの男の話は全くあてにできないが、少なくとも林道に近づいているサインだろうと、私は自分に言い聞かせる。と、よく見ればそれはテープではなくぼろぼろになった紙であることが分かった。釘で幹に留められ、何か文字が書かれている。近づいてみて、私は背筋が凍りつくような恐怖に襲われた。
     どうやらそれは、お札のようだった。辺りを見てみれば、釘の跡がたくさん残っている。私が道しるべだと思って辿っていたのもお札だったのか、これはあの男が打ち付けて回っているのだろうか、と、私が呆然と立ちすくんでいると、さっき池のあたりで感じた臭いがふと鼻先をかすめた。潮のような、生臭い臭いだ。次いでぱきぱきと小枝を押しつぶすような、そして何か引きずるような音が聴こえる。脳裏に、あのぶよぶよが私を追ってあたりを這いずっている光景が鮮やかに浮かんで、私は慄然とした。とっさに、身をかがめて樹の根元にうずくまった。もうとても、走って逃げるだけの体力は残されていなかった。私は震える手でナイフをそっと取り出して、お守りのように握りしめながら息を潜めた。低く、何かの声が聴こえた。ずるり、ずるりと這いずる音が聴こえる。幻聴だったのかもしれないが、私はこれほどの恐怖を感じたことはなかった。

     どれくらいの時間が過ぎただろう、空はすっかり藍色に沈み、あたりには濃密な闇の気配が漂い始めている。このままでは状況は悪くなるばかりだった。私は幾分落ち着きを取り戻していた。心を決め、私ははじかれたように立ち上がると、脱兎のごとく掛けた。途端に、すさまじい声が轟いた。それはまるで地獄から聴こえてくる断末魔のような声だった。私は振り返りもせずに走った。そして身体が宙に躍り出た。崖に気が付かず、5メートルほど滑落したのだった。ナイフが無くなっていたが、身体に突き刺さらなかっただけ幸運だ。呻きながら起き上がると、そこは登山道のようだった。見上げると、誰かがこちらを見下ろしていたように見えたが、あるいはそれも闇が見せた幻覚だったかもしれない。

     速足で山道を下ると、ほどなく車を止めた場所にたどり着いた。私はさっきの男が鉈を持って待ち伏せしているのではないかと身構えたが、どうやら誰もいないようだった。当然、男の車も止められてはいなかったし、車の入ったような痕跡もなかった。

     車に乗り込んで、ふと首に違和感を覚え、触ってみるとヒルが食いついていた。そいつをむしりとって窓から捨て、身体を確認してみると、服にとりついているマダニを2匹見つけた。この分だとまだ服の中に何匹かいそうだが、今確認している暇はなかった。辺りの廃村は闇の中でその輪郭を際立たせ、何か濃密な気配を漂わせていた。昔ここに暮らしていた人々の気配か、あるいは…。
     私はアクセルを踏み込んで、集落を後にした。

       蛇足になるが結局、私は3か所、ダニにやられていた。そのせいか一週間後に高熱を出して数日寝込むことになった。そのときの夢にあの男が出てきた。
     「逃げられると思うな」と、男は言った。
     「どれだけ遠くへ離れても、いくとせが過ぎようとも、お前は逃げられないよ」

     あの男は何者だったのだろう。今でもあの山をさまよっているのだろうか。
     なぜ、あの男は私の名を知りたがったのだろう。

     私が山で無くしたあのナイフの柄には、私の名前が彫り込んであるのだが、男があのナイフを見つけていないことを祈るばかりだ。

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    49.お守りの中身

    ペンネーム:ゴジラ4343

     起きた事をできるだけ克明に記しておきたいので、長文にはなりますが、どうかご容赦ください。

     30代の社会人男性です。
    この話は今から6年前になりますが、当時の私は大学時代の同期や会社の同僚を中心に、休暇を利用して山スキーや海外へトレッキング旅行に行く小さな社会人サークルの幹部をやっていました。
     サークルと言っても、総数10人程度の愛好会のようなもので、メンバーが全員揃うのは年末の忘年会程度で、あとは入れ替わりで休暇のタイミングが合ったメンバーがその都度集ってスキーや旅行を楽しむといった活動でした。

     メンバーの中に、私とも特に懇意にしていた同僚のA君がいました。
     彼は私の一つ年下で、絵に描いたような豪傑と言いますか、とにかく何でも体力で乗り切ってしまうような男で、裏表の無いとても実直で明るい人でした。
     そんな性格もあって、サークル内でもムードメーカーとして、また旅行などの日程から現地でのトラブルまで対処してくれる頼もしい友人でした。

     その年の正月に、久しぶりに東京で集まろうという事になり、地方へ帰省しているメンバーや家族を優先しなければいけないメンバーを除いた男性4人が集まり、みんなで全国的にも有名な神社にお参りに行ったんです。
     その神社はメジャーな観光スポットで、むしろ同じ敷地内にある大きなお寺で有名な場所でした。

     私は、特に神仏への信仰がある訳ではなかったのですが、他の多くの日本人と同じように、言わば慣習として、初詣で賽銭を投げて祈るという行為に親しんできましたから、その時も例年と同じように神社に詣でた訳です。
     その後、せっかく同じ場所に有名なお寺もあるのだから、そちらにも挨拶していこうという流れになりまして、みんなで連れ立ってお寺にも参拝。
     おみくじを引いたりお守りを購入したりと、和気藹々とした時間を過ごしました。

     この時、A君は身代り(みがわり)御守りというものを購入していまして、他のメンバーが購入した心願成就や招福系の小さなお守りと比べて一回り大きく、値段も倍くらい高価なものでした。
     私を含め、他のメンバーは彼に「随分と奮発したじゃないか」と囃し立てたのを覚えています。
     しかし、肝心の本人は「おみくじで旅に出るのは良くないと書かれていたから、そんな事が本当なら生きていけないから、何か悪いことでもあれば身代わりになってくれるお守りがいいんだ」なんて飄々とした顔で言い切っていました。

       その晩は繁華街の居酒屋で、全員ほろ酔い気分で、今年はどんな面白い事を計画しようかという話で盛り上がりました。
     元来酒好きなA君も正月気分に絆されたのか、いつになく酒のペースが早く、明らかに酔っ払っていくのが分かりました。
     ベロベロに酔っ払ったところで酒癖の悪い人間では無かったので、そのうち寝てしまうだろうくらいに思っていましたが、今思うと、この時もう少し彼に注意を払っておくべきだったのかもしれません。

     私を含めた他のメンバーで、夏の旅行や冬のスキー計画に花を咲かせている時、A君が視界の端でモゾモゾやっているのを認識してはいましたが、ふと会話が途絶えた時に彼に目をやると、A君は今朝購入したばかりのお守りの封を解いて、中身を取り出していました。
     私より先に、他の人が「おいおい、A君! それはまずいって。お守りは開けたらダメな筈だぞ」と声をあげましたが、彼はもう酔っているのか没頭しているのか、周りの声も聞こえない様子でお守りを無心に開き、中に入っていた白い紙を取り出してしまいました。

      お守りというものは、それこそ神社やお寺によって千差万別ですし、先述したように長寿や繁栄を願うものから恋愛成就、合格祈願など、ご利益の方向性も違うものです。
     A君の行為に驚いた私たちでしたが、実際に高価なお守りの中身がどうなっているものか見てみたいという好奇心が勝ってしまったのでしょう。彼の手元を見つめながら、それ以上彼を止めようとする人はいませんでした。

     A君が小さく畳まれた紙を広げると、そこには判で押したような観音様の立ち姿が描かれており、観音様の頭部には梵字の文章が後輪のように円状に浮かんでいる構図でした。
     何と言いますか、出てきた物がそれほど想像を超えるものではなかったというか、想定の範囲内だった事もあり、それぞれ「まあ、そういうもんだよね」なんて顔を見合わせ、とりあえずA君にはちゃんとお守りを包みに戻して、開けてしまった事を観音様に謝るんだぞ、なんて冗談めかして笑い合い、その後は何事もなかったように宴を続けたのを覚えています。

       それから一ヶ月後の二月、A君は一人で北海道の山スキーに向かい、そこで崖下に滑落して亡くなりました。

     彼が下山した様子が無いという連絡が来たのは、入山届に記載された下山予定日から2日後のことでした。
     A君の親御さんの元に警察から連絡があり、彼が遭難している可能性があるので、近親者の誰かが現地に来た方が良いだろうという事でしたが、A君の両親は北海道に行った事もないし、現地に赴いたところでただただ息子の帰りを待って祈るしかない。その事をサークルのメンバーに伝えれば、彼らなら何かA君の足跡を辿れるかもしれないという一縷の望みにすがる気持ちで、悲痛な声で電話をかけてきたA君の母親の声が今も耳に焼き付いて離れません。

       消防や自衛隊、地元民のボランティアによる捜索隊も組織されていましたし、自分が現地に飛んで何が出来るとも思えませんでしたが、彼の安否と、親御さんの心持を思うと居ても立っても居られなくなり、私はサークルメンバーにその旨を伝え、緊急にも関わらず対応してくれたもう一人のメンバーと共に新千歳空港行きの飛行機に飛び乗りました。

     北海道に着いてからはレンタカーを借りて、冬の北海道を一路、内陸部のスキーで有名な地域に飛ばして向かいました。
     現地で先に到着していたA君の親御さんに対面し、とりあえず捜索ボランティアに参加して彼を探すという事を伝え、もう一人と一緒にA君の足取りを追う事にしました。
     地元のスキー場でも遭難事件は話題になっていましたが、北海道で観光客スキーヤーやスノーボーダーがコース外に出て遭難するのは日常茶飯事だったので、またかというどこか呆れた雰囲気も漂っていました。

     私たちは運良く、A君と途中まで行動を共にしていたというオーストラリア人のカップルに会う事が出来て、コース外で山スキーを楽しんだ後、山奥で彼と別れたという話を聞きましたが、当然その情報は警察や消防にも行き渡っていたので、既に最優先の捜索エリアとして人員が割かれていました。

     現地入りして2日後は大雪で視界が悪く、自衛隊や警察による捜索は中断を余儀無くされてしまい、民間のインストラクターやガイドなどの有志で結成されたボランティアだけが、捜索を決行するという事で、我々もそれに同行する事になりました。

     下手をすると二次災害で誰かが命を落としかねない天候ですから、半ば決死隊の心意気だったと思いますが、私の心配を他所に、こういった事故に慣れているガイド達は頼もしかったのを覚えています。
     この時、私はどこか漠然と、A君を見つけるのは自分なんじゃないかという感覚に支配されていました。それは、A君の母親から事故の一報を聞いた瞬間から芽生えていた感覚でした。

       その電話を受け、彼の母親の声が電話から聞こえてくると同時に、その年の正月にA君がお守りを解いた光景が突如鮮明に蘇ってきました。

       ただ、その光景がどこかおかしいのは、みんなで楽しく会話をする端で、黙々とお守りを開けようとするA君は、じっと手元を見つめていた筈なのに、視界の端に映るボヤけた彼は、手元こそお守りを開けようとモゾモゾ動かしているのに、その顔だけはしっかりと私の方を向いて、両目を見開いて微動だにしないのです。
     私は確かに感じるその異様な視線から目をそらすように、湧き上がる感情を抑えようと必死でした。
     記憶が捻じ曲げられている。何かおかしなことが起こっている。
     そう自問する事で、何とか自我を保っていたと思います。

     猛吹雪の中、捜索開始3時間ほどで、A君の遺体は前日の捜索隊が残念なタイミングで見逃していた崖下の窪みで見つかりました。
     事の運びは私の感覚通りという訳ではなく、新雪が降り積もった窪みから僅かに露わになったカーキ色のスキーウェアの袖を発見したのは、一緒に北海道入りしたもう一人のサークルメンバーでした。
    「Aがいる!」彼がそう叫んだのか、私がそう思ったのか思い出せないのですが、私たちは死に物狂いで腰まであるパウダースノーを漕ぐように掻き分けながら、カーキ色のスキーウェアに向かって走りました。
    「A!」と呼びかけ、ほぼ逆さまに雪に埋まった彼の体を必死で引っ張りだそうとしましたが、完全には脱げていなかった片足のスキーが錨のように引っかかり、力づくではどうしようもありませんでした。
     100mほど離れた位置にいた他の捜索隊メンバーから、それぞれA君発見の無線連絡がリレーされ、スコップなどを持った人々が駆けつけてきて、やや取り乱していた私をA君から引き離して、首尾よく彼の体を雪から救い出していきました。

     やがて彼の上半身が見えてきて、誰かが背中から担ぐようにA君の体を起こした時、周囲の人々が一様に「わっ」と声をあげました。
     A君の顔は、生前の表情を留めているどころか、まるで死後数年も放置されたミイラのように干からびて、真っ黒になっていました。
     落ち窪んだ眼窩には、乾燥しきった瞼の奥に濁った瞳が薄眼を開けており、私は恐怖というよりも、エッツィやアイスマンと呼ばれる考古学的に有名な古代のミイラに似ているな、と思いながらその顔をじっと見ていました。恐らく、私の体の防御システムのようなものが、思考力を敢えて低下させていたんじゃないかと思います。

    「なんで数日でこんな状態になるんだ」と捜索隊の方々が話していたのを覚えていますが、そこからどうやって下山して、彼の親御さんと対面し、帰路に就いて彼の葬儀に出席したのか、この辺の記憶があまりに欠落しています。葬儀に参列したサークルの全員が、当時の私は幽霊みたいに透き通ってるんじゃないかというくらい生気が無かったと口を揃えて言います。

     ここまで長々と付き合ってくださって、不思議.NETに投稿してまで、結局お前は何が言いたいのかと思われる方も少なくないと思います。
     最後になりますが、私がこの悲しい事故から、人生の見え方が少し変わってしまった一つの事実を書かせてください。

      A君の四十九日法要が終わって数日後、彼の親御さんが、生前A君が大切にしていた物の中から、サークルで使うなり思い出として取っておいて貰えないだろうかという事で、A君の愛用していたバックパックやスキー板、ヘルメットなどを私に託してきました。

    もちろん、事故当日に彼が着用していた物ではありませんでしたが、故人の遺品を受け取る事の重責や、どこか後ろめたさも感じながら、それらの遺品の処遇について数人のメンバーで話し合っていた時の事です。

     A君の使っていたトレッキング用のオレンジ色のヘルメットの中から、正月に彼が購入した、あのお守りがぽろっと落ちてきました。
     おもむろに拾い上げると、固く結んでいたはずの紐が解け、居酒屋でA君が取り出した紙が頭を覗かせていました。
     私は無意識に、いや今考えれば何かに突き動かされるようにその紙を取り出し、開きました。
    ヘルメット内で蒸れたのか、少し茶色く滲んだ紙が、硬くなってぺりぺりと音を立てました。
    そこには、後輪を頭上に抱えた観音様が描かれているはずでした。

      「うわっ! なんだこれ!」私の後ろからその紙を覗き込んでいたメンバーの一人が叫んだと思いますが、私にははっきり理解できました。
     そこには、観音様なんかではなく、雪の中で干からびて死んでいたA君が、その死に様の形で佇んでいる姿が、むしろ絵というより新聞のモノクロ写真のような鮮明さで描かれていました。
    梵字で描かれた後輪があるはずの場所は滲んでいて、ちょうど彼が埋まっていた窪みそっくりでした。
     そこにいたメンバー達はA君の遺体を見ていませんでしたから、その紙に描かれた不気味なミイラのような何かがA君であるとは思わなかったようですが、私にはすぐに彼と分かりました。
     少なくとも、他のメンバーも、正月に見たお守りの観音様を思い出し、それとはおよそかけ離れた恐ろしい姿の何かがお守りに入っていたという事に気付き、全員が暫く絶句していました。

     A君なりの悪い冗談じゃないかという結論で事を収めましたが、誰もが、只事ではないということは悟っていたと思います。

     私達はその後、お守りを買ったお寺でA君の遺品をお焚き上げしてもらい、彼がせめて天国か極楽浄土に行っていて欲しいと願うばかりでしたが、私には、彼が絶対に天国や極楽浄土ではないところにいることが分かります。
     身代わりになる筈のお守りがどうしてそんな不気味な変化を遂げたのか、そして彼を守ってくれなかったのか、その原因が飲み会の席でA君がやってしまった不敬とはいえ些細な過ちのせいなのか、それを食い止められなかった自責の念と恐ろしさは6年経った今でも時折襲ってきては私の眠りを妨げます。

       その後、サークルは尻すぼみに活動の頻度が減り、今ではほぼ形骸化しているものの、当時からの交友関係は個別に続いており、スキーや旅行にはそれぞれの家族ぐるみで参加したりしています。

     A君の件は、毎年冬になると思い出す悲しい記憶です。
     この時期によく見る夢の中で、A君は今も手元でモゾモゾとお守りを解きながら、真っ黒な顔を私に向けています。

     駄文でしたが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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    50.窓を叩いたのは……

    ペンネーム:真冬のそうめん

    登場人物

    私、Y ……投稿者
    M ……投稿者の友人
    父 ……投稿者の父
    母 ……投稿者の母
    弟 ……投稿者の弟
    K ……父の友人①
    G ……父の友人②
    S ……父の友人③

    これは今から20年程前、私がまだ高校生だった頃に体験した話です。

    夏休みも中程まで過ぎた頃、仕事の休みが取れた父が「せっかく俺もYも休みなんだし、
    久しぶりに別荘にでも泊まりに行くか」と言い出したところから今回の話は始まります。

    父は軽井沢に別荘を持っていました。バブル期で日本も父も景気が良かった頃、友人ら数人と
    一緒になって別荘地のある区間に数件買ったものの一つでした。
    (バブル期は、何人かで一緒になって別荘地を区画で買うような場合が多かったそうです。なんとも景気が良い話です)

    父は言い出したらすぐ実行に移すような性格だったので、同じ別荘地を買った友人数人にもすぐに連絡し、私も特別仲の
    良かった友人Mに声をかけ、数日後、私の一家とM、それから父の友人のGさん夫婦と一緒に別荘へ行く事になりました。
    KさんとSさんは都合が合わず来られませんでした。

    しかし、いざ別荘へ行く当日、あるトラブルが起きてしまいました。元々身体があまり強い方では無かった私の弟が、
    夏風邪を拗らせて喘息の発作を起こしてしまったのです。

    本当ならここで予定を取りやめても良かったのですが、父もGさんに声をかけてしまったし、私ももうMを呼んで
    しまっていたのでドタキャンは悪いという話になり、結局私の母と弟が家に残り、私と父とM、それからGさん夫婦と一緒に別荘へ行く事になりました。

    実家から車で3〜4時間くらいのところに父の別荘はあります。見晴らしの良い丘のようなところに建っている別荘で、
    父の別荘から順に、Kさん、Gさん、Sさんの別荘がL字型に並んでいて、どれも木造の二階建て。

    GさんとSさんの別荘は山を背負うような形になっているのですが、父とKさんの別荘の裏側、というか窓側は崖にせり出したような形になっていて、
    下には綺麗な小川が流れていました。

    別荘に着いた私は、早速Mと一緒に、二階の自分たちが泊まる予定の部屋に荷物を置きに行って、階下にあるこじんまりとした
    ダイニングキッチンで早めの昼食をとり、それから夕方までは、父とMと一緒に夕食の買い出しに行ったり、別荘の周りを散策してみたり、
    Mと他愛もない話で盛り上がったりと、非日常の開放感を味わいながらのんびりと過ごしていました。

    そして少しだけ日が傾き、うだるような暑さがいくらか和らいだ頃、別荘に母から一本の電話が入りました。
    (当時は携帯電話はまだ一般的ではなく、固定電話が主流でした)

    母からの電話は「実家にいる弟の喘息の具合があまり思わしくなく、このまま悪化するなら最悪入院しなければならないかも」という内容でした。

    弟は小児喘息を患っていて、小さな頃は何回も入退院を繰り返しているような状態だったのでそれ自体は珍しい事ではなかったのですが、
    流石に家に母だけしか居ない状態で入院やら何やらの準備をするのは大変だろうと、父は今夜は別荘には泊まらずに、私とMを残して一旦家に帰る事になりました。

    父は「女の子二人だから少し心配だけど、ここの区画は知り合いの別荘しか無いし、まぁGも居るから、
    何かあったらGに言いなさい。あと、戸締りはしっかりすること」というような内容の事を言い、また私も親の目の無い
    外泊は人生初の体験だったのでこれを快諾。「明日の昼前には迎えに来るから」と私達に言い残して、父はそそくさと車を出して帰ってしまいました。

    この後、私とMは、私達以外居なくなってしまった別荘で、不可思議な体験をすることになったのです。

    父が帰ってから、私とMは二人して買ってきた食材で簡単な夕食を作って、食べながらテレビを見たり、備え付けのお風呂を沸かして交代で入ったり、
    パジャマに着替えて部屋に入ってからも、自分達以外に誰もいないのをいい事に、夜遅くまでやれ担任の先生がうざいだの同級生の誰々が付き合っている
    だのと、さながら監視の目が無い修学旅行の気分でバカ話に花を咲かせていました。

    そうしてかなり夜も更けた頃、大体深夜1時くらいになると流石に話す話題も尽きて、だんだん瞼も重くなって来たので、
    私たちはどちらともなくベッドに入り「おやすみ、また明日」と声をかけあって電気を消しました。

    それから、どのくらい経ったでしょうか。

    私がベッドの上でまどろんでいると、不意に窓の方から

    ―――トントン、トントン

    と規則的な音が聞こえて来たのです。

    初めは、きっと風か何かで枝が揺れて、それが雨戸(父の言いつけ通り、女の子二人は物騒なのでその夜は入り口はもちろん、
    部屋も雨戸を閉めきって外が見えないようになっていた)に当たって音を立てているんだなと思っていましたが、それにしては
    トントン、トントンと一定のリズムで鳴り続ける音に、私はだんだんと違和感を覚えました。

    そしてMもそれに気づいたようで、暗闇の中二人で「何? 何の音? 風? 地震?」などと寝たまま言い合っていましたが、そのうちに
    私はある事に気づきました。

    最初はトントン、トントン、と小さかった音が、私たちがその音に気づいてからだんだんと大きくなり、回数も
    トントントン、トントントンと増え、それはまるで、誰かが窓を何回も何回も執拗にノックしているかのようでした。

    それに気づいてから私は、なんとなく気味の悪いものを感じ、またそれはMも同じだったようで、私たちは
    ベッドから起き上がると窓とは反対側の壁に二人して寄りかかり、様子をうかがう事にしました。

    その間も、雨戸を叩くトントントン、トントントンという音は止みません。
    むしろ、完全に頭が覚醒してから聞くその音は、もうノック以外のなにものでもありませんでした。

    変質者か何かがベランダに侵入して窓を叩いて嫌がらせをし、女二人なのを良いことにあわよくば侵入しようと試みているのでは
    ……そんな嫌な想像が頭から離れません。その間も、雨戸は依然としてトントントン、トントントンというノックの音を立て続けています。

    「いざと言う時はGさんを頼れ」と父に言われてはいましたが、窓の外の正体不明の訪問者への恐怖に、私たちは
    ただ暗い部屋で窓を睨みつけながら息を殺して座り込むしか出来ませんでした。

    ―――トントントン、トントントン

    ノックは止みません。気取られてはいけないと、私達はヒソヒソ声で「何? 何?」と呟くしか出来ません。

    ……しかし、そんな状態も長く続けば限界が来ます。

    恐怖とストレスからの苛立ちからか、ついに私より数倍は気の強かったMが窓の外に居るであろう何者かに向かって

    「誰!? いい加減やめて!!」

    と怒鳴りつけました。

    すると、あれだけしつこかったノックの音が急にピタリと止みました。

    「……音、止んだね……?逃げたのかな……?」

    「……うん……」

    「何だったんだろ……やっぱり、変質者……?」

    「……分かんない……」

    よく覚えてはいませんが、確かMとこんなやりとりをしたような気がします。その間も、雨戸が叩かれる事はありません。

    暗い部屋の中にようやく訪れた静寂。
    張り詰めていた緊張の糸が切れ、ようやく私たちがほっと一息つこうとした、次の瞬間でした。

    ―――ドンドンドンドン! ドンドンドンドン!

    あろう事か窓の外の何者かは、今度は雨戸越しに窓が振動するくらいに激しく、ものすごい勢いで思い切り雨戸を叩きつけ始めたのです。

    これには流石にびっくりしてしまい、私たちは悲鳴を上げ、パニックになってしまいました。

    「誰ー!? 誰よー!!? やめてーー!!」

    半ば半狂乱になりながらMが叫びます。

    しかし、窓の外の何者かはそんな事お構いなしにただひたすらに

    ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン!

    と、もう窓が割れてしまうのでは無いかという勢いで、猛烈に窓を叩き続けます。
    そのあまりの恐怖に、私たち2人は暗闇の中肩を抱き合って、涙を流しながら震える事しか出来ませんでした。

    もうこの時には、Gさん夫婦が別の別荘に居るなんて事も頭からすっかり抜け落ちてしまっており、
    (そもそもGさん夫婦は単なる父の友人なので、あまり面識のない人達だったというのもあった)

    結局私たちは、外から鳥のさえずりが聞こえてくるような時間までずっと部屋の隅にうずくまり、2人で抱き合ったまま夜を明かしました。
    (必死だったのでよく覚えていませんが、あれだけ激しかった雨戸を叩く音はいつの間にか止んでいました)

    そして完全に朝になり、音が止んだ事に気付いた私たちは、もう一目散に部屋を抜けだし、下のダイニングキッチンで父が迎えに来るのを待つ事にしました。

    父が来るまでGさんの別荘へ行こうかとも思ったのですが、私はなんとなく外へ出る気にもなれなかったので、ただ椅子に座ってボーっとしていると、
    明るくなってだいぶ余裕も出て来たMが「雨戸を開けてみよう」と言い出しました。

    たしかに、変質者が居たのであれば、もし靴跡とかが残っていれば証拠になります。

    それに逮捕出来ないまでも、父が来たら警察に通報ぐらいはしなくてはと思っていたので、まだ恐怖が完全に抜けてはいませんでしたが、
    私はMと2人でもう一度部屋へ行き雨戸を開けてみる事にしました。

    階段を上がって部屋の扉を開けると、そこには昨晩の混乱のまま、くしゃくしゃになったベッドシーツや掛け布団、枕が散乱しています。
    私たちはそれを踏みつけながら恐る恐る窓へ歩み寄り、少し戸惑いはありましたが、思い切って窓を開け、雨戸を横にスライドさせました。

    ……するとそこには、何もありませんでした。

    窓の向こうは切り立った崖になっていて、下を見ると目がくらむくらいの高さです。
    そこを、まるで谷間を縫うように、陽光を反射しながらキラキラと流れる細く小さな川がすぐ目に入って来て
    ……そうです、この別荘に、ベランダなんてものは存在しなかったのです。

    あるのは人や物が落下するのを防止するための胸の下くらいまでの高さの柵のみです。どこにも人が立てるようなスペースはありません。
    ましてや、下は10メートル以上はあろうかという崖です。そもそも、この窓まで誰かがよじ登ってくる事すら不可能だったのです。

    その事実を確認し、私たちは父が来るまでの間、再び2人寄り添って震えているしかありませんでした。

    ……ですが、この話はこれだけでは終わりませんでした。

    その日の昼過ぎくらいに、予定よりもちょっと遅くなった父が私たちを迎えに来ました。

    Gさん夫婦も父が来たのを確認すると、軽く挨拶を交わして「明日も仕事だから」と早々に帰ってしまいました。

    私たちはというと、さっき窓の外に人が立てるはずがなかった事を確認していたので、父に通報やら警察やらという話をすることも出来ずに、
    昨日の体験をなんと説明したものかと考えあぐねていると、父が迎えが遅れてしまった理由を話しだしました。

    「MちゃんもYも、遅くなって悪かったね……ちょっと大変な事になっちゃってさ……」

    と、少し疲れた様子で話す父。私はもしや弟の容体が良くないのではと心配しましたが、どうやらそうでは無いようです。

    「じゃあ、何が大変なの?」

    私は聞き返しました。

    「ああ、実はな? ほら、Kさん、知ってるだろ? 俺の知り合いの……」

    「実は……Kさんな、昨日の夜遅くに、仕事先のホテルで強盗にあって、亡くなったらしい……それで、色々あってな、遅くなった」

    気落ちした様子で歯切れ悪く突然の友人の訃報を話す父の言葉に、私は別の意味で戦慄を覚えました。

    昨日の深夜と言えば、ちょうど私たちの部屋の窓が叩かれ始めた時間です。Kさんの別荘は父の別荘の隣……私にはそれが、単なる偶然にはどうしても思えませんでした。

    Kさんと父はとても仲が良く、別荘に来る前にも一緒に来ないかと連絡していたので、私たち一家が別荘に来ている事は知っていました。
    結局仕事の都合でこちらへ来る事は出来ず、出先のホテルで強盗に襲われ、そのまま病院で亡くなられてしまいましたが……

    昨晩の怪現象は、今際の際にKさんが父に助けを求めに現れたのではないか……今でも私には、そう思えてならないのです。

    また、もしあの時私たちが勇気を出して雨戸を開けていたら、そこには果たして助けを求めるKさんが立っていたのか、
    はたまた、別の何者かが居たのか……今となっては確かめようもありませんが、あの日の出来事は二十年経った今も、未だに私の心に残っています。

    これで今回の話は終わりです。ここまでお読み下さりありがとうございました。


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    51.秒針の針

    ペンネーム:糖分6ぱーせんと

    調査依頼です。
    別の場所で相談したところ、こちらなら詳しい人がいるんじゃないかとアドバイスをもらい、やってきました。

    依頼というのはある場所についてです。
    おかしな話かと思いますが、私が以前住んでいた場所について調べてほしいのです。
    その場所の歴史とか沿革といったことではなく、その場所自体についてです。
    つまりその場所がどこにあったかということです。



    要領を得なくてすみません。
    >>213の方がおっしゃる通り、いわゆる記憶喪失です。
    厳密には記憶喪失とは違うと思うのですが、そう捉えて頂いた方がわかりやすいと思います。

    今回調査して頂きたい場所に私は過去何ヶ月か住んでいました。
    ところがある瞬間を境に突然意識を失って、次に気がついたときには病院のベッドの上でした。

    色々話を聞いてみると、病院に運ばれてから3年も経過していたようです。
    ただ、その間も私の肉体は、この施設の中で普通に生活をしていたらしく、要するに私とは別の人格が、立ったり歩いたり食べたり寝たりを続けていたようです。
    ちなみに今もその病院に入院しています。ここは地元では有名な精神病院で、私も昔から名前だけは知っている病院でした。
    施設には家族に連れられて来たとのことですが、それもよくわかりません。
    私の意識が戻ってから、家族が面会に訪れたことはないですし、そもそも家族の顔も思い出せません。兄弟が何人いたとか、そういうことも。

    ただ、諸々の手続きはこの家族が済ませてしまったようで、勤め先の退職手続きだとか愛車の処分だとか、こうした身辺のことは、私が運び込まれた直後にはすべて清算してしまったようです。
    先生は私がこうした質問をすることをひどく不審がっていましたが、どうにかこのあたりのことだけは聞き出せました。
    ですがその後は何を訊ねても適当にはぐらかされてしまいます。
    どうやら症状が悪化したと勘ぐられているようです。家族を呼んでくれと頼んでも梨の礫ですし、正直にいいますと私の入院費がどこから出されているのかも見当がついていません。
    裕福な家庭なんでしょうか。それなら幸いですが。



    >>257
    いいえ、男です。紛らわしくてすみません…。
    ですが今更呼び方を変えても混乱を招いてしまうと思うので、「私」のまま進めさせて頂きます。

    >>263
    大まかにどの辺りかということもわかりません。
    ただ、東京の本社からの出向でしたので、少なくとも東京ではないだろうなと。
    それから結構大きな街でした。車社会でしたが車がなくても生活できたように思います。
    なのでどこかの地方都市だと踏んでいるのですが、その割に治安があまり良くなかったことを記憶しています。
    登下校中の子どもたちが平気で野良犬に石を投げつけるような街です。堪えきれずに彼らを注意したこともあります。

    ですが訛りがあったという気はしないんですよね。
    子どもたちも町の人たちも(つまりお店の人とかも)わかりやすい標準語を使ってました。
    ですので恐らく関東圏の(もちろん東京以外の)都市ではないかと考えています。



    >>291
    季節は残念ながらよく覚えてません。
    ただ季節柄の準備だとか苦労を負った気はしないので、秋か春のどちらかではないでしょうか。
    そういった意味では札幌という考えも否定はできません。


    このまま話を続けます。
    前述の通り、私は以前勤めていた会社で出向の辞令を受け、その街に引っ越して来ました。
    当時、関連子会社の方で新部署を立ち上げるという話が持ち上がり、既に本社の方でその業務実績のある私が、彼らの指導役として選任されたという形でした。(たしかそのように記憶しています)

    なにぶん突然の辞令でしたので、取るもの取らずといいますか、住む場所も社で用意したものを使っておりました。
    出向先からは車で20分くらいの、地下駐車場を備えた地上9階建てのマンションでした。
    諸々の原因はこのマンションにあります。
    私は、もう一度、このマンションを訪れる必要があると感じているのです。
    ですから何卒、皆さんのお力をお借りしたいのですが…。

    マンションの近くにはコンビニや飲食店が建ち並んでいました。
    他にも美容室や不動産屋の看板が出ていたように思いますが、このあたりもはっきりとはしません。
    ただ近くに小学校があったのは覚えています。
    さっきも話しましたが、そこの児童たちが登下校時によく悪さをするので有名でした。
    近隣の住人は彼らの悪さにも慣れてしまい、見て見ぬふりでしたが、私はどうしても彼らの行いが許せず、常から不満を溜め込んでいたので、これについては本当によく覚えています。

    他にはこれといった特徴もなかったと思います。
    少なくとも観光名所だとかランドマークのようなものは無い街でした。
    ああ、そうだ、今思い出しましたが、私の部屋はマンションの7階にあったのですが、たまにここのベランダに立つと潮風の匂いを感じられました。
    風がある時ほど感じられたので、海からは近すぎず遠すぎずの距離だったのではないかと思います。
    あとは本当に特出することのない街でしたね。私の記憶が曖昧なせいかもしれませんが。



    そして、すみません、ここから先の話なのですが、どうか呆れたりせず話を聞いてやってください。
    私は決して嘘をついてるわけではないですし、この点については精神的にもしっかりしてると自負してます。

    ある日の帰りでした。
    私は仕事を終えてマンションに着いたのですが、エレベーターで部屋へ戻る途中、車の中に忘れ物があることを思い出しました。
    そこで適当な階にエレベーターを止めて地下一階まで引き返しました。
    忘れ物は取るに足らないものでした。このご時世に恥ずかしいのですが、愛用の煙草です。
    そしてもう一つ恥ずかしいことには、再度エレベーターに乗った途端、私は手にしていた煙草のパッケージから一本を抜き出して、あまつさえその煙草に火をつけようとしたのです。
    疲労で頭がやられてたのだと思います。その頃は残業続きでしたし、その日も仕事から解放されたのは日付を跨いでからのことでした。
    帰りの街がやけにひっそりとしていたのが印象的で、マンションに着いてからも他の住人とすれ違うことはなかったです。

    慌てて口元から煙草を離しましたが、気が動転していたのか、そのままエレベーター内の『B1』のスイッチを押してしまいました。
    押した瞬間には何も感じませんでしたが、扉が閉じて下降を始めた瞬間に、私は「おや」と気付きました。そして次の瞬間には明確な違和感に変わりました。
    エレベーターが次に停まるまで、そう長い時間ではありませんでしたが、私はこの間に目まぐるしく頭を回転させていました。
    私は確かに地下駐車場まで煙草を取りに戻って、そして同じ階のスイッチを押した。
    本来ならエレベーターが動き出すはずがない。
    それとも建設中の地下二階のようなものでもあるのだろうか。
    概ねこういった考えを巡らせていました。
    扉は窓ガラスのついてないタイプだったので、その間、事実を確認するように、点灯した『B1』のスイッチをずっと睨んでました。

    時間にすると5秒もなかったと思いますが、とても長く感じられました。
    エレベーターはいつもの動作で緩やかに停まって扉を開けました。
    すると目の前は黒い壁でした。
    何か飛び出してくるかもしれないと、私はとっさに脇の方に身を隠していたのですが、そこには一面の壁しかありませんでした。
    扉が一向に閉まらないので、恐る恐るですが足で壁を小突いてみました。そのあと手でもノックするように叩いてみました。
    質感はコンクリートの壁と変わらなかったです。音が鈍く響いてゆく感じも同じでした。手のひらで触れてみましたが、手触りも一緒です、少し表面がざらついているような感じ。

    正直に言ってしまうとちょっと拍子抜けでした。
    おそらくは私の想像通り、建設途中の地下二階があって、エレベーターだけ先に通してしまったんだろうと、そう結論づけました。
    いずれにしろ大した問題ではないし、折を見て管理人にでも訊ねてみよう、と、まあ少し強がりでこう考えていたのです。

    すみません、一旦中座します。



    戻りました。
    院内のパソコンルームから繋いでいるので、たまに自由になれないときがあります。

    >>343
    お店はほとんどがチェーン店でしたね。
    個人のお店もありましたが、店名は覚えていません。
    恐らく記憶障害に関係なく見過ごしていただけと思います。

    >>370
    海沿いでしたが向きまでは…。
    日本海側か太平洋側かだけでもわかれば良いのですが、申し訳ありません。
    ただ潮風の匂いがしたというだけですので…。

    >>381
    いたずらは色々とやってました。
    店の看板に落書きをするとか、ピンポンダッシュとか、道行く人に水鉄砲をかけるとか、そういった在り来りなやつです。
    私も通勤中にやられて服を水浸しにされたことがあります。
    野良犬の他にも、電線に止まった小鳥に石を投げたり、無意味に猫を脅すようなこともありました。
    1つのグループだけがそうというわけではなく、近くに住む子どもたちはみんな同じような悪さをしてました。

    すみません、もう一度中座します。



    戻りました。
    お待たせして申し訳ありません。

    >>412
    パソコンルームは認可制ですが利用可能です。
    私は奇行や暴力性の検査はパスしていますので、申請すればすぐに許可がおります。
    ここへの書き込みを見られても特に問題はないかと。

    >>418
    症状にもよりますが、私の程度ですと、病院側も外部との繋がりはむしろ推奨しています。
    もちろん積極的にというわけではないですが…。

    >>465
    残念ながら本社も子会社も場所や名前を思い出せない状況です。
    先生にも訊ねましたが無理に思い出さない方がいいと言われました。
    どうやら職場でのストレスが記憶障害を招いたと考えているようです。
    それと先生自身も詳しいことは知らないのではないかと踏んでます。

    >>489
    子どもたちに注意した件ですか。
    特に依頼内容と関係があるとは思えませんが…。
    そのときも小学生たちが野良犬を痛めつけていて、ちょうど職場からの帰宅中にその光景に出くわしました。
    とっさに彼らを叱りつけたら、はじめは悪態をつかれましたが、すぐに白けた様子になり、どこかへ去って行きました。
    私は特に犬が好きというわけでもなかったので、そのあとは子犬のことも手で追い払ったように思います。
    もしかしたらちょっとした餌を与えたかもしれませんが、あったとしてその程度ですね。

    >>504
    家族や治療費については本当に謎ですね。
    意識が戻ってから4年ほど経ちますが、連絡の一本さえよこしてくれません。
    もしかすると両親や兄弟だけでなく、妻や子どもを持っている可能性も、なくはないです。
    できればこちらも調査して頂きたいくらいです。


    長くなったので一旦切ります。



    まだ気になる書き込みがいくつかありますが、このままでは返事だけで終わってしまいそうなので、話を続けます。

    エレベーターが黒い壁の前で停止したところからですね。
    色々と目の前の壁を調べてみたあと、試しに『1F』のスイッチを押してみました。
    するとエレベーターは正常に作動して、1階のロビーに着きました。何の変哲もない見慣れたロビーです。
    ここでやっと私は心から安堵しました。拍子抜けしたとはいえ、やはり緊張感はあったのです。
    ですが同時に、好奇心が静まらず、心の中で燻っているのも感じました。むしろその好奇心は、自分の身が安全になったとわかればわかるほど、どんどん心の中で大きくなっていきました。
    いや、本当に、人間は勝手な生き物だとつくづく感じます。
    もう一度あの黒い壁まで降りてみたいという欲求が、どんどん抑えられなくなってきたわけです。

    しかしそうするには、一旦『B1』の地下駐車場まで降りて、それから再度『B1』を押す必要があります。
    大した手間ではないですが、少し悩んで、その日はそのまま7階の自宅まで帰ることにしました。なにぶん日付はとっくに変わっていましたし、翌日も朝から出勤でしたので。

    代わりに翌々日が週末だったので、マンションに戻った足ですぐに試してみました。そう、たしか週末だったと思います。
    エレベーターに乗り込んで『B1』を二回押すと、やはり例の黒い壁に着きました。
    壁の質感も2日前に触れてみたときと同じでした。
    だとするならやはり、これは設計ミスか何かの類だろうと、勝手に納得することにしました。仮にオカルト現象だとするなら、2度も3度も都合よく再現されてくれるはずがないと思ったのです。
    そうして私は、満足して7階まで上がってゆくはずでした。いや、そのはずだったのです。
    ところが指はもう『7F』のスイッチを押すところまで伸びていたのに、ふと、魔が差したとでもいうのか、その瞬間、もう一度『B1』を押したらどうなるのだろうかと、よからぬ疑問を閃いてしまったのです。

    いや、本当にそのときは単なる気の迷いだったんです。
    さすがにこれ以上はエレベーターも下に降りてゆくはずはないと、そう高を括ってました。
    しかし動き出してしまったんですね。
    エレベーターはまたスーッと下に降りていって、数秒後にガクンと停止しました。
    扉が開くと、やはり黒い壁なんです。何もかもさっきと同じです。ちゃんと触れて確かめもしました。

    私はそのとき、先ず理不尽な感情を覚えました。
    誰にというわけでもないのですが、この状況が何かに馬鹿にされているように感じられたのです。
    ただ、次の瞬間には、得体の知れない恐怖心に変わりました。
    これもまた誰にというわけでもないのですが、何かの視線を背後に感じたのです。
    とっさに振り返りましたが、いえ、別に何かがあったわけではないです。視線は単なる錯覚でした。恐怖心が勝手に蘇って、背筋を凍らせていただけなんです。

    敢えて説明する必要もないと思いますが、この瞬間の私は好奇心よりも不安の方が遥かに勝っている状態でした。
    適当にスイッチを押してしまって、早くこの場から立ち去りたいと願いました。
    しかし、またしても変な興味が湧いたのです。
    というのは、今度はちゃんと理由がありまして、黒い壁のですね、足下の方から、少しだけ明かりが差していたんです。
    よくよく注意して見てみると、僅かにではありますが、壁の下部が隙間になっているようでした。
    つまり下のフロアの光が漏れ出していたんです。

    一応整理しておきますと、私はこのとき地下駐車場から2フロア降りた、いわば地下3階にいたことになります。
    明かりはそれよりひとつ下の階から漏れ出していたので、そのフロアは地下4階とでも言えるでしょうか。
    ずいぶん悩んだのですが、結局のところ私は、もう一度『B1』のスイッチを押して、エレベーターを下降させました。
    自分で決断したことですが、なぜかスイッチを押した瞬間には、諦めのような感情に包まれていました。

    扉が開くと長い通路がありました。
    壁も床も天井も、とても清潔な白い壁で、まるで無菌室のような美しさでした。
    照明は強すぎるくらい効いていました。
    そして通路の奥には手術室の入り口のような、観音開きの扉が控えてました。


    すみません、ここで一旦区切ります。



    かなりの批判が殺到しているようで、申し訳ありません。
    一応こうなることは事前に予想していましたので、このまま最後まで続けさせて頂きます。
    ただ自分自身の体験をありのまま語っているということだけは、繰り返しになりますが主張させて下さい。
    それでは、最後まで走り抜けてしまいたいと思います。

    通路を突き進んでゆくのは、さほど難しいことではありませんでした。
    地下4階まで降りたときの決断に比べれば、あまりに呆気なかったです。
    観音開きの扉に手をかけたときも同じです。一瞬の躊躇はありましたが、力強く腕を押し込みました。

    扉の奥はまったく別の空間が広がっていました。
    一言でいえば豪邸のエントランスです。
    昔一度だけ、仕事で知り合った方に、軽井沢の別荘へ招かれたことがありますが、まさにその別荘の感じです。
    間取りはもちろん違いますが、雰囲気といいますか、調度品の揃え方といいますか、建物は少し落ち着いた色の木造建築でしたが、そこにペルシャの絨毯や、題名のわからない水彩画や、陶磁器の大きな花瓶や、ライオンを彫刻した大理石や…、挙げてゆくときりがないですが、そういった品々が所狭しと飾られてありました。
    あとは、天井からシャンデリアも吊り下げてありました。何か拷問器具のようにも思える仰々しいやつです。

    入り口で唖然としていると、奥の部屋からこの家の女主人が現れました。
    彼女はとても若く美しい人でした。そしてとても心根の優しい人です。女主人なんて他人行儀に言いましたが、私は彼女と…つまりとても親しい間柄になってゆきます。
    彼女は美しい笑顔で私を歓迎してくれました。
    そして色々と言葉を投げかけてくれたのですが、私は彼女のあまりの美しさに見とれて、会話の中身をよく覚えていません。
    話が終わると彼女は、先程自分が出てきた奥の部屋へと、私を案内しました。
    そこはリビングと寝室がごっちゃになったような部屋でした。隣にはダイニングキッチンも広がっています。
    二人いる使用人に食事の用意を願い、ご一緒に晩餐をと勧められました。
    彼女は使用人に家事を命じるとき、とても物腰柔らかに注文します。決して立場をひけらかすようなことがないのです。そこがまた心をぐっと惹きつけられる部分でした。

    その日は食事をしたあとすぐに辞去しましたが、帰り際の「またいらして下さい」が忘れられず、結局、一週間後にまたこの豪邸に足を運んでしまいました。
    それからは日を追うごとに顔を出す頻度が増してゆき、一ヶ月と経たないうちに、ほぼ毎日、彼女のもとへ通うようになっていました。
    毎回エレベーターに乗り込んで、黒い壁、黒い壁、白い通路と手順を踏んでいます。
    はじめのうちは様々な疑問が渦巻いていました。なぜ地下にあんな豪邸があるのか、そして彼女は一体何者か。もちろんエレベーターの仕掛けもですね。
    ですが慣れるに連れて次第に考えることをやめました。なんというか、些末なことに感じられてきたのです。それに、この手の質問を彼女に投げかけた瞬間に、夢から覚めてしまうような不安も抱いていました。
    ですからこの当時の私は、朝起きると常に不安や焦りに襲われるようになっていました。エレベーターのスイッチを押す瞬間にもです。そしていつものように黒い壁が現れると、どれだけ心が楽になったことでしょう。

    現実的にありえないことが起こっていると理解はしていましたが、現実が本当の現実に戻ってしまうことの方が私としては恐怖だったのです。
    こうなると彼女なしの生活は考えられませんでした。

    彼女は顔を出すたびに「お待ちしておりました」と言ってくれ、帰り際には必ず、例の「またいらして下さい」を口にしてくれるんです。
    どんなにしつこく通い詰めようとも嫌な顔一つせず、むしろ喜ばしい相手のように応じてくれて、そして最後には必ず「またいらして下さい」が待っています。
    もう少し時間が経つと、そこに「またいらして下さい。明日も」とか「いつも心待ちにしているんです」といった言葉を付け加えてくれるようになりました。
    私としてはもうのめり込まないわけにいかなかったんです。
    そのうち朝も昼も夜もなく彼女の豪邸に入り浸るようになりました。この時期、仕事以外ではほぼ彼女の豪邸にいたと思います。

    それと、彼女はいつも、見送りの言葉の他に、何かしら手土産を持たせてくれました。
    ちょっとしたギフト券とか、私の好きな煙草とか、そういったものです。
    出会ってから二ヶ月ほど経ったときには、特別な親睦の証として革の腕時計もくれました。
    本体部分に3本の針と12本の棒しかない、とてもシンプルな作りのものです。

    腕にはめたまま彼女の家に伺うと、出迎えてくれた彼女が繊細な手付きで外してくれて、見送りの際にはまた腕にはめ直してくれるという、ある種の儀式の道具みたいに、この腕時計は使われました。
    私はこの、ちょっと秘密色の強い決まり事が、とても好きでした。

    ただ、他にこの腕時計の使い道はありません。いえ、ないはずでした。
    というのは腕時計を贈られたときに彼女から注意されたのです。
    「竜頭が浮いた状態になっていますが、決して押し込まないで下さい。特に、時刻を正しく調整してから押し込むような真似は、絶対にしないで下さいね」
    概ねこういった内容のことを注意されました。

    彼女の言葉通り、腕時計は時間が止まっていて、竜頭も本体から離れた状態になっていました。
    竜頭を本体の方に押し込むと秒針が動き出す仕組みの腕時計です。
    そのままでは腕時計本来の役割をなしていませんでしたが、時間を確認する方法ならいくらでもあったので、しばらくは彼女の言葉に従っていました。

    しかし良からぬことというのは簡単に起こるものですね。
    特別な事件があったわけではないんです、ただ、またしても好奇心にかられてしまっただけなんです。
    ある日、彼女の豪邸から帰ったばかりの自宅で、私はこの腕時計を正しい時間に調整し、竜頭をカチッと音がするまで本体の方に押し込んでしまいました。
    そのとき私はベランダで煙草をふかしていました。
    臭いが気になるので、自宅で煙草を吸うときにはいつもそうしていたのです。
    ただ、煙草を吸う以外には暇なもので、手持ち無沙汰についやってしまったんです。
    スマートフォンで確認しながら時刻を合わせ、最後に竜頭を押し込みました。
    試してみるまでは単に壊れているだけだろうと思っていたのですが、予想に反して秒針は問題なく時を刻み始めました。
    1秒、2秒と。

    そしてご想像の通り、次の瞬間には病院のベッドの上です。
    意識の戻った私の手元に、スマートフォンも、腕時計も…いえ、その他のことだって、何もかも失っていました。
    時計は腕にはめたまま操作していたのですが、これも家族とかいう人たちが処分してしまったのでしょうか。
    いや、そもそも私の家族というのは一体誰なんでしょう。
    そしてあの腕時計にはどんな罠が仕掛けられていたのでしょう。
    それよりも、それよりも、なぜ私はあの夢のような期間に、彼女に名前を伺うことすらしなかったのでしょうか。それは単なる恐怖心から?
    この病院のこともよくわかりません。これはまだ黒い壁より下のことなのですか?



    これが調査依頼ということを忘れていました。
    それと、感情のコントロールが効かなくなり席を外していました、申し訳ありません。

    >>929
    同様の意見が他にもありますが、私もそう思います。
    恐らく私も他人から聞かされただけなら「構造的にありえない」と一笑に付すでしょう。
    ですが実際に扉の先には壁しかなかったのです。
    目に見えている現実を最も整合性の取れる形で想像するというのは思考プロセスとして間違っているでしょうか。

    >>957
    使用人は二人とも女性でした。
    制服というわけではないですが、いつもお揃いのチュニックを着てました。
    丈は膝くらいまであって、色は何種類かあったと思います。

    >>981
    ブランドロゴのようなものはなかったです。
    私も不思議に感じましたが、もしかするとオーダーメイドだったのかもしれません。

    >>999
    それこそ色々な会話をしました。
    彼女はいつでも心地よさそうに話を聞いてくれます。仕事の愚痴だとか…。本当に色々です。
    ただ、あまりこちらでは語りたくないです…。

    >>1036
    エントランスにあったのはモネの睡蓮に似てました。
    他にも何枚か飾られていましたが、空の絵や森の絵など様々です。
    ちなみに花瓶は黒地に孔雀の絵を描いたものでした。


    遡って返信をするときりがないので直近のコメントに絞らせて頂きました。ご了承下さい。

    最近、今まで覚えていたことも曖昧になってきています。
    何より彼女の顔さえ思い出しづらくなっている。
    正直にいって焦ってます。どうかお願いです、あのマンションの場所を突き止めて下さい。



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    52.赤い部屋

    ペンネーム:フラさん

    これは私が実際に体験した話しである。
    ※本文で登場する人の名前は全て仮名である。

    突然だが、私は目が覚めると赤い部屋にいた。
    赤い部屋と言っても、壁紙が赤いとかそんなんではない。
    周りの空間が赤い。
    赤にノイズが入っているような‥テレビの砂嵐が赤。みたいな状況だった。
    さらに不思議だったのが、起き上がれないのだ。ベッド上で腕とか手は動かせるのだが、腰が重く起き上がれない。
    胸から先は布団がかけられていたため確認できなかった。

    周りに人がいる気配もなく『誰かいますか?』と呼んでみても応答がない。

    状況が飲み込めないまま、疲れてしまったため目を閉じた。

    どれくらい寝ただろう‥
    時計もカレンダーもないため、今が何時なのかも分からない。
    目を開けると、目を閉じる前と一緒で身体は起こせないが少し状況が変わっていた。
    部屋は赤いままだたが、
    布団を出来る範囲で捲ると足はゴムバンド?みたいなので固定され、足の方からチューブみたいなのが数本ベッドの外へ伸びていた。
    一つは何か液体みたいなのが点滴から流れていた。
    もう一つのチューブは身体から黄色い液体が流れていた。恐らくは『小便』だと思う。

    そしてもう一つ大きな変化があった。
    女性の看護師らしき人が点滴を変えてくれるようになった。不思議なのは、話しかけても返答がないことだ。

    返答が無いことと、不安もありイライラはしたが、徐々に自身の状況が飲み込めてきた。

    何故かは不明だが、病院のベッド上で固定され、何かの治療、又は人体実験を受けている。
    状況は分かってきたが、答えが見つからない疑問もある。

    以下疑問。
    ・部屋がノイズっぽい赤であること。
    ・看護師らしき人に無視されてること。
    ・痛みがないこと。
    ・そして何故ここにいるのか。

    本来であれば不安で寝れないはずだが、人に会えた事に安心したのか目を閉じた。

    ガラガラ‥ガラガラ‥ 

    奇妙な音で目が覚めた。

    目を開けると、ベッドの横に弟がいた。
    しかし、ガリ勉だった弟からは想像できない容姿だったため目を疑った。

    ■以下会話。

    私「ヒロシなのか?」
    弟「当たり前だろw」
    私「雰囲気変わったな、、」
    弟「?変わってねえよw」
    私「ヒロシがドレッドヘヤーに土方の格好だぞ?ありえないだろ?」
    弟「兄貴~やっぱり病気なんだな、、早く治してな!」
    私「兄貴?おまえにそんなふうに呼ばれたことないぞ?大丈夫か?」
    弟「大丈夫じゃないのは兄貴だろ?ほら、良いもの持ってきたからさ!」

    □会話終了

    そう言って見せてくれたのが、一輪車に入っている大量のCDだった。
    ガラガラ音は一輪車の音と揺れて重なり合うCDの音だった。
    気になるCDの中身は私が大好きな「AC/DCやメタリカ」等の最高のものだった。

    ん?‥と思った。
    何故、一輪車なのかは忘れるとして、、
    会話を久しぶりにした。
    それも別人のような弟と。話したい事はいっぱいあるが、嬉しいせいなのか言葉が出てこなかった。

    弟が一輪車からCDをベッド横のテーブルへ移している。
    ん?目を疑った。弟が少しずつ霞んでいた。
    呼んでも無反応であったため焦った。
    殆ど消えてなくなる寸前の時に弟が言った。

    『頑張ってな』

    その短い言葉だけを言い残し消えてしまった。
    私は「ヒロシ行かないでくれ!頼む!戻ってきてくれ!」と叫ぶも、弟は戻ってくることは無かった。

    頑張れってなんだよ、、
    どうすればいいのさ、、

    ここで初めて涙が出た。
    寂しくて不安で究極に辛かった。

    身動きが取れず、まともな会話もなく、無駄に過ぎ去る日々。絶望的な状況から私は虚無感に襲われていた。

    こんなにも寂しい思いをしたことは無かった。
    私の日常は何処へ行ってしまったのか。
    母親が作ってくれる食事。
    父親のくだらない冗談。
    会社での喜怒哀楽。
    全てが恋しくて堪らなかった。
    堪らず今日の出来事を思い出す。
    弟と話せた。別人のような感じはしたが話せた。
    また目を覚したら弟がいるかもしれない。
    もし会えたのなら、しっかりと状況を聞いてみよう。
    泣き疲れた事もあり、目を閉じた。

    ブーン‥ブーーン‥

    意識が目覚めに向かっているとき、嫌な音が聞こえてくる。
    虫が飛び回る音だ。
    目を開けると、弟はいなかったが変わりに蚊のような虫が飛び回っていた。
    退けようにも手足の稼働が限られているため、思うようにいかない、、
    虫が身体に迫ろうとした時それは起きた。
    頭の方。つまりベッドの頭の方から手が伸びて来て虫を捕まえてくれた。
    「ありがとう」と伝えたく、向ける範囲で首を捻った。
    白い服を着た人が後ろ向きに座っていた。
    後ろ向きのまま、手がゴムのように動き私を助けてくれた。
    手の動きにはビックリしたが自分の置かれた状況が、それを増していたため、そこまで驚かなかった。
    感覚が麻痺しているのだと思う。
    しかし後ろ姿の面影が妙に引っかかる。
    首の稼働のせいで全体は把握できないが、見た事のある面影なのだ。

    間違いない。

    おじいちゃんだ。10数年前に病気で他界した、おじいちゃんだ。

    私は叫んだ。ひたすらに。
    「おじいちゃん!」
    「おじいちゃん!!」
    「俺だよ!ユウタだよ!」

    一生懸命に叫ぶも、こちらを向いてはくれ無かった。

    何度も叫び続けた。
    意識がとびそうになるほど。
    次第に頭がボーッとしてきた。

    意識が薄れていく。

    もう駄目だ。そう思った時に聴こえた。
    間違いなく聴こえた。
    おじいちゃんの声で。
    あの懐かしい、おじいちゃんの声で。

    『しっかり生きろ』と。

    そのまま意識が飛んだと思う。


    ユ‥‥ん

    ユ‥タ‥ん

    ユウタくん!

    意識が戻りつつある時に、私の名前を呼ばれているような気がした。

    『ユウタ君!!』

    いや、間違いなく呼ばれている事に気付き目を開けた。

    そこには点滴を変えてくれている看護師がいた。

    やっと喋ってくれたんだ。
    そう安堵し、返答しようとしたが声が出せない。

    出せないし、身体がもの凄く不調な感じだったので、首を軽く動かし、看護師に会釈する形をとった。

    すると看護師は血相を変えて、どこかへ行ってしまった。

    喋ってくれたのは驚いたが、それよりも驚いたのは部屋が赤くないことだ。
    普通の部屋に変わっていた。
    もちろん後ろにおじいちゃんも居ない。

    何がなんだか分からなく、頭の整理もつかない内に、
    先程の看護師が戻ってきた。医者っぽい人と一緒に。
    そして、その医者っぽい人から、いくつかの簡単な質問があり、指で回答した。

    ※これは何個ですか?指で3つみたいな簡単な質問。

    その質問が終わると、こう優しく言われた。

    『おかえり』

    隣では点滴を変えてくれていた看護師が泣いている。

    私をシカトしておいて何で泣くの?と思った。

    看護師から「すぐに、ご家族の方が来ますから」と言われ、その数分後、家族が来た。
    弟もいた。安心したのは普通に戻っていたことだ。

    ここで、また驚いた。
    家族全体、私を見るなり泣き崩れたのだ。
    父親に関しては膝から崩れていた。

    キョトンとしていると、医者から衝撃の言葉を伝えられた。

    以下が真実である。

    ・約一ヶ月前に事故にあったこと。
    ・昏睡状態だったこと。
    ・人口呼吸器をつけているため声が出せないこと。
    ・意識が戻るよう、医者の勧めで音楽を流していたこと。
    ・弟が毎日のように「兄ちゃん頑張ってな!」と言い続けていたこと。

    以上が真実である。

    真実は分かったが、私はしっかりと意識があり赤い部屋で過ごしていた。

    彼処はいったいなんだったのだろう。

    疑問は残ったが、その時は身体を治すことに専念した。
    そして、ようやく喋れるようになった。
    喋れるようになると、あの疑問が気になり始めた。
    物知りおばあちゃんなら何か知ってるかもしれないと思い、おばあちゃんがお見舞に来たときに赤い部屋のことについて話してみた。

    以下が自分でも納得できた回答である。

    ・赤い部屋=あの世の前に行くところ。
    ・おじいちゃんが振り向いたら、あの世へ連れて行かれていた。
    ・苦しく感じていたのは生死を彷徨っていたから。
    ・赤い部屋の弟は、私が思う理想の弟だったこと。

    以上が納得できた回答である。

    私は退院し、10年以上経過するが、あの時の出来事を思い出す。
    たまに目を覚ますと現実なのか、それとも、あの世の前なのか気にする事もある。
    そんな時に思い出す言葉がある。
    「しっかり生きろ」
    その言葉を胸に、現在もしっかりと前を向き生活している。

    皆さんも目が覚めた時、ノイズのかかった赤い部屋にいたら注意してください。
    そこは違う世界かもしれません。

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    53.明日を夢見て

    ペンネーム:G.S


    私は焦っていた。
    仕事に忙殺される毎日で、家に帰れば風呂に入り眠るだけ。出迎えてくれる者は誰もいない。趣味であったピアノも、今では表面がうっすらと白くなっている。

    これが、私の望んでいた人生だろうか。

    気がつくと、常にこの言葉が頭の中で呪文のように繰り返されている。
    しかし、気持ちが空回りしているだけで、何も変わらない日常が再び訪れる。

    私は、幼少期の頃から両親の期待を一身に背負っていた。
    毎日のように学習塾やピアノ教室に通っていたが、自分自身でも将来について明確なビジョンがある訳ではなかったため、両親の言うことは何でもやった。
    孤独だったが、孤独であることを自覚する暇もなかった。
    私は国立の大学にトップの成績で進学した。両親は非常に喜び、私自身も自分の力を認めるようになったが、この頃から、私は言葉で言い表すことの出来ない何かが、心に影を落とし始めたように思う。

    私にとって、学生生活は苦痛なものだった。
    皆一様にして研究やサークル活動に専念し、恋人と過ごす日常に少なからず満足している様子が、否応にも伝わってくる。
    しかし、私は相変わらず孤独だった。
    どこかに属して騒いだり、恋人に振り回されるのは凡人であるからで、非凡な人間は孤独が常であるとさえ考えていた。
    いや、そう考えることで精神を保っていたのかもしれない。
    本心では、そういった人間を羨ましく感じていたにも関わらず、自分の考えを正当化し、他者より劣ることを誰よりも恐れていた。

    大学卒業後、米国の大手証券会社に就職し、希望に満ちた生活をおくるはずだった。
    しかし、仕事は思うようにいかず、文化の違いにも悩む日々が続いた。
    今まで孤独だった人間が、異なる文化で適応するには、相応の努力が必要なのかもしれない。
    私は自分なりに分析し、3年目にしてようやく要領を得ることができた。
    仲間も増え、仕事も好転し、全てが順調に感じた。

    そんなある日、両親が交通事故で他界したと親類から連絡を受けた。
    トラックの居眠り運転により、対向車である両親の乗った車に衝突。即死だった。

    私は、暫く気を失っていたと思う。
    私の精神では、とても堪えられる内容ではなかった。

    訃報を受けた翌日、私は会社に退職届けを提出し、帰国することにした。
    会社の上司は、はじめこそ辞められては困ると言っていたが、私の決心に揺るぎがないと分かると、君の替わりはいくらでもいると言い放った。

    日本に戻り、葬儀や相続の手続きを一通り終えた途端、これまでに経験したこのない強い孤独感に襲われた。
    もう、心の支えとなる両親もいない。
    自分自身に生きる意味を問いかけても、
    答えは返ってこなかった。
    ただ、自ら死ぬことだけはプライドが許さない。また、何もせず無為に時間だけが過ぎていくことも許さなかった。

    私は日本で求職活動を開始したが、驚くほど簡単に就職することができた。
    私という人間よりも、私のキャリアに惹かれたのだろうか。
    いずれにせよ、新しい希望が見いだせたことに、少なからず喜んでいた。

    しかし、現実は余りにも無情だった。
    仕事といえば、見積りや提案書など書類の作成、中身の無い打ち合わせ、規模の小さい取引の繰り返しで、仕事とは言い難い作業もある。中には、上司の目を盗んで惰眠を貪る連中さえ存在する。
    それでいて作業量は一向に減る気配がない。

    この頃から、あの呪文が頭の中で繰り返されるようになった。

    家に帰れば、孤独が待ち受ける。
    今となっては、趣味を興じる気力さえ残っていない。もう、ピアノの正しい弾き方も忘れてしまっただろう。
    ふとした時に、子供の頃に弾いたショパンの美しい旋律が、記憶と共に蘇ることがある。
    ピアノの演奏会に来た両親の笑顔が懐かしい。今もピアノを演奏すれば、両親はあの時のように微笑んでくれるだろうか。
    だが、もうその夢も叶わない。

    今の私には、もう昔のようなプライドや体力も残っていないし、この先も同じことを繰り返して生きていくのだろう。

    私は、死ぬことを決意した。

    ただ、人様に迷惑をかけるような死に方だけは絶対に避けたかった。
    改めて考えてみると、誰にも迷惑をかけずに死ぬ手段が存在しないことに驚いた。

    とりあえず、外に出て街を散策しながら、何か良いアイデアが浮かぶのを待つ方がよいのではないか。
    そう考えた私は、深夜の街を徘徊することにした。

    しかし、最善のアイデアは一向に浮かんでこず、気がつくと、見たことのない路地に迷い混んでいた。
    もっとも、私は殆ど出歩かないため、特段気にも留めなかったが、路地の奥から小さい灯りが視界に入ってきた。

    そこには、古びた提灯を手にした老紳士が立っていた。
    服装は古風であるが、清潔で上品な顔立ちから、ただ者ではないことが伺える。
    私は思わず、夜分に失礼致しましたと言うと、老紳士は穏やかな口調で「待ちなさい。君には伝えなければいけないことがある。」と言うのです。

    私はすぐに、人違いだと言うと、今度は私の名前を口にしたので、失礼ですがどちら様でしょうかと尋ねた。
    老紳士は「私は君のことを良く知っている。だが、君の知らない場所に住んでいる。」と微笑んだ。

    今一つ腑に落ちなかったが、両親か親類の関係している人物だろうと判断したため、私に伝えたい内容を伺った。
    すると、老紳士はこう告げた。
    『君は馬鹿げた考えをもって街をさ迷っている。その考えは今すぐに捨てなさい。君のご両親は君の考えを望まない。無論、私も望んでいない。君は若い頃によく言っていたじゃないか、「人生は自分との戦いだ。自ら死を選択することは、自分との戦いに負けたことになる。だから常に勝ち続けなければいけない」と。少なくとも、私は君の考えに同感だよ。今現在、君が考えていることを除いてはね。』

    気がつくと、私は泣いていた。
    涙がとまらなかった。

    考えてみれば、私は自分の考えを疑ったことはなかった。
    また、こうして助言をしてくれる人間に出会ったこともない。
    自分の人生は、常に自身で解決してきたように思っていたが、もしかすると、自分の態度が自分自身を追い込んでいただけなのかもしれない。

    ただ、何故この老紳士が私の過去に公言していた発言を知っているのか、一向に分からない。
    私は、仰る通りですと言うのがやっとだった。
    老紳士は「生きなさい。今度は、君が助ける立場になっているから。生きていれば、また会えるかも分からない。」と言って、提灯の灯りを消した。

    我に返って、すぐに辺りを探したが、老紳士の姿はどこにも見当たらなかった。気がつけば、もう朝日が昇りはじめている。

    結局、老紳士が誰であるのか、私には分からなかった。
    ただ、あの時に出会っていなければ、間違いなく私はこの世におらず、こうして文章を書くことも出来ない。

    そして、今でも仕事は続けている。
    毎日のように問題は発生しているが、仲間達と助け合いながら、それなりに楽しく過ごせていると感じる。少なくとも昔よりは。

    今は孤独に悩まされることは殆どなくなった。
    早く帰宅した日には、ピアノも練習している。子供の頃ほどではないが、だいぶ感覚も戻ってきた。

    たまに、老紳士と出会った路地に向かうことがある。次に出会った時は、きちんと感謝の言葉を伝えたい。

    また、会える日がくると信じて。
    私は、新しい明日に向かって走り続ける。



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    54.神様との約束

    ペンネーム:トマト

    これは私の父から聞いた話です。文章を書くのが得意ではないので、おかしな部分があったらごめんなさい。

    私の父はヨーロッパの某国出身で、キリスト教がみんなに信じられていて、父方の家族も例外ではありません。
    私の父は生まれた時背骨に難病をおっていて、治る確率がかなり低かったそうです。私の祖母はキリスト教の熱心な信者でしたので、父の回復を祈って教会で祈り続け「もし病気を治してくれたら次に生まれた子供に『イエス』と名付けます」とお願いしたそうです。

    すると次の日、なんと父の病気は跡形もなく完治していて、お医者様も全く理由がわからず首を傾げていたそうです。
    父は投薬した薬の影響で6年ほど病院に通うことにはなるのですが、それ以外は全て綺麗に治っていたそうです。

    それから月日が流れ、父には弟が生まれました。祖母はなんと(ありえないことに)神様とした約束をすっかり忘れていて、弟には私の曽祖父にあたる人の名前を付けることになったらしいのです。

    おじが生まれた日は祝日だったので、私の祖父が次の日の朝1番に名前を役所に届けることになりました。

    祖母が生まれたばかりの息子と同じ病室で寝ていると深夜3時頃、1人のシスターが祖母の病室を訪ねきて祖母を起こしたそうです。
    父の国では病院に併設して教会があることが多く、シスターが病院にいることは珍しいことではありませんでした。
    シスターはどこにでもいるような普通のおばあさんで、祖母と赤ちゃんについて色々お話したそうです。
    そしてシスターが1つの質問を祖母にしました

    「赤ちゃんの名前はどうするの?」

    祖母が「〇〇(曽祖父の名前)にするつもりです」と答えると、シスターの表情がフッと変わり、そして諭すように

    「あなた、"思い出して"。今日がなんの日か」とだけ答えたそうです。

    そうです。弟の生まれた日は12月24日から25日に変わる24時00分丁度。クリスマスに生まれたのです。

    その瞬間、祖母は全てを思い出し「そうだ、私が約束したのになんてことをしてしまったんだ。でももう遅い、夫が明日の朝1番に役所に名前を提出しに行ってしまうんだ」と後悔が押し寄せたそうです。

    そしてそのまま不思議と眠気が遅い、祖母は眠ってしまったそうです。気が付くとシスターはいなくなっていました。

    翌朝、病室に訪ねてきた担当の医師が全てを知っているかのように自然に「イエスちゃんは元気かな」と呼びかけたので祖母は

    「あのシスターに会ったのか」と思い、シスターにお礼を言いたいと言うと医師はとても戸惑っていたらしいです。

    なぜならその病院はカトリック系列の病院ではなく教会の併設はしていなく、もちろんシスターもいるはずがない、と......。たまたま病院にいたとしてもそんな深夜に部外者が院内をウロウロしている訳がないし、関係者だとしても患者を起こして話しかけるなんてことはあるはずがないと......。

    あまりにも奇妙な出来事に祖母が戸惑っていると、祖父から「やっぱりクリスマスに生まれた子供はイエスという名前を付けた方がいい」と勝手に名前を変更してしまったという連絡があり(祖父は約束のことは知りませんでした)祖母は大変驚いたそうです。

    あの夜、病院を訪ねてきたシスターは一体何者だったのか…...

    そしておじがクリスマスに生まれたのは偶然だったのかそれとも神の思し召しだったのか......

    クリスマスが近付くと私はいつもこの話を思い出します。

    実は父や父の家系でキリストや神様に関係する話はこれ以外にもいくつかあります。かく言う私も、あまり覚えていないのですが小さいころ「天使にあった」「マリア様にあった」などと言っていたそうです。

    霊が見える家系があるように、そういう「家系」というものもあるのでしょうか..........

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    コメント一覧

    1  不思議な名無しさん :2019年01月02日 00:33 ID:wNiD.Ucb0*
    ヤバい。これ書いた人、絶対ヤバい。創作だとしても、こんな長々書けないって。本気で頭イカレてる。つまんないし、長すぎるから全て読んでないけど…。そういう意味で怖い。ヤバい人だよ。創作とか真実は関係ない。こんな長々長々と書いてることが怖い。
    2  不思議な名無しさん :2019年01月02日 09:04 ID:lHoDxU0r0*
    結局Y先生ってだれなのさ?時系列が…?
    3  不思議な名無しさん :2019年01月02日 19:25 ID:BUZj1bvK0*
    >>2
    不明
    1枚目の手紙の書き手がY先生を思い起こさせるが本人かどうかは確かめる術はないというだけの話
    4  不思議な名無しさん :2019年01月02日 23:52 ID:Eqa6cw8h0*
    ここまで長々と細々と書き連ねて、落ちがない話なんだね。途中で辞めて良かった!
    5  不思議な名無しさん :2019年01月04日 15:49 ID:JPCZ88vq0*
    手紙のやつ全部読んだ奴いる?説明頼む
    6  不思議な名無しさん :2019年01月04日 18:57 ID:ZDdji6.e0*
    不思議というより、凝りまくってわけがわからない話がいくつか
    7  不思議な名無しさん :2019年01月05日 03:29 ID:lP0LoyBb0*
    手紙の解説が一人もいないとは…
    書き手はかつて女学生が自殺したと言われるお化け屋敷で鍵のかかった引き出しを見つけるが開けず立ち去る。
    その後書き手はY先生という綺麗だが無愛想な先生と出会い、先生の上手なピアノを放課後よく聞いていた。その時Y先生とほとんど話しておらず素性不明。
    数年後ら同窓会からの流れで再び昔行った女学生が自殺した屋敷に行き、昔見過した鍵のかかった引き出しから封筒を2つ盗む。
    封筒1の内容は、とある姉妹の話。姉と妹の血は繋がっていない義理の姉妹。姉は家族から厳しい教育を受け自由がない。おまけに体の自由が利かなくなる病気、パーキンソン病かな?を患い車いす生活。妹はその家族から逃げ出した父親のせいで家族から忌み子のように嫌われ、家政婦として姉の介護など、こき使われていた。
    姉妹は仲が良く、姉はピアノの先生を目指し勉強していた。また妹も姉の影響でピアノを練習していた。
    ある時、他の家政婦に制服ズタボロにされるといういじめに遭う妹を姉は守り、いじめ家政婦を全員クビ。妹のために寺田という家政婦件友人を招き入れた。
    結果、妹は姉のおかげで居心地のよい生活ができていたが、姉の病気が悪化し、姉は寝たきり状態になる。
    姉は夢半ば生き絶え、遺書により妹に教師になるよう遺言を残す。妹はそれを姉の呪いと書いていた。
    家を出た妹はその後、里子に出され、男と子供を作ったが男に逃げられ、その産んだ子供を義両親に預け、自分は音楽の大学のため他所へ行く。
    数年後、故郷に戻った妹は教師としてそこで娘と再会。
    手紙の最後に恨むなら私を恨んでと記載してある。
    8  不思議な名無しさん :2019年01月05日 03:29 ID:lP0LoyBb0*
    続き
    封筒2 おそらく手紙の書き手はY先生の娘。文から察するに、娘はいじめにあっていた。娘は村上君が好きだが、村上君は自分をいじめていた女を好きになる。娘はいじめていた奴らを皆殺しにし、自分も自殺する。

    まとめると、姉妹の姉=Y先生の義理の姉、姉妹の妹=Y先生、自殺した女学生=Y先生の娘
    書き手は姉妹の記述でY先生は誰かのミスリードを誘っている。
    後半内容がむちゃくちゃだからわかりづらい。湊かなえの告白を思い出した。
    9  不思議な名無しさん :2019年01月05日 07:15 ID:K4svwMsq0*
    1話目が長すぎて(書き慣れない人が文章をまとめるのに苦労して……という雰囲気ではなく、小説家気取りで文体や構成に凝って書いてるのが伝わるからまたムカつく)、読者が2話目以降読み進める気をなくすレベル。実際ここまで「1話わけわからん」的なコメントしか付いてないし。
    「公平を期すために投稿順掲載」という管理人さんの意向は分かるけど、これじゃ巻き添えで評価されなくなる2話目以降の投稿者さん達が気の毒です。
    10  不思議な名無しさん :2019年01月05日 09:00 ID:DRdMpvY00*
    募集の段階で文字数制限するか目次で各タイトル横に話の長さを表示して欲しいと思いました
    作品の出来に関わらず、こうした投票形式はいくつも話読むのが前提なのに一話で丸々五ページ近くもあると読み終える頃には疲れて後に続く作品が不利になるレベルかと
    11  不思議な名無しさん :2019年01月07日 01:00 ID:wu7dlpV.0*
    確かに第三部だけ投票イマイチだね^^;
    一話目で疲れたのかな^^;
    12  不思議な名無しさん :2019年01月07日 13:47 ID:gWDOOXRG0*
    いや本当面白くて5ページならまだいいんだけどつまらな過ぎる5ページだから萎え落ちするしストレスと不快感しかない
    途中で斜め読みして最終的に読み飛ばしても疲労感しかないから相当だと思うよ
    スマホだとページ送りも不便だし
    せめて最後に持ってくればまだマシだったのでは
    公平をきすためということは理解出来るけど、他の人もコメントしてるように2話目以降読む気力無くした人多いんじゃないかなあ
    13  不思議な名無しさん :2019年01月09日 14:34 ID:XAI.CtaS0*
    このストーリーの評価は、すでにコメントされてる方々の意見に集約されている。
    読み手が解らないと感じるのは書き手の問題。
    とくに専門用語や難解な思想が盛り込まれているわけでもないので。まあ、駄作ですね。
    14  不思議な名無しさん :2019年01月14日 02:28 ID:RNlUUp430*
    このどれかは管理人さんの個人賞を受賞しそうです。
    15  不思議な名無しさん :2019年01月23日 21:06 ID:VVfPtq290*
    創作乙とか、長くて頭に入らないとか思ったことないけど…初めて悦に入って書いてる姿思い浮かべてしまった。。「手紙」なのがまた、読んでて辛い。。

    ランキング順とかでみたかったな…評価イマイチなのも別に、暇だし読むかって時にみれるし。

     
     
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