2. 冬は家で凍死するほど過酷な環境

多くの家庭は、通りよりも下に位置する地下に部屋があったため、雨が降ると水が部屋に入り込み、洪水に見舞われました。また、気温が下がると水を供給するパイプが凍るなど、住居の環境は非常に悪く、冬のロンドンのスラムでは自宅で凍死する人も多くいたようです。
3. 寝る場所がない

スラムに住む人々が、個人の部屋をみんな持っていたわけではありません。ロンドンのスラムには、一晩から宿泊できるドスハウスというロッジがありました。写真はドスハウスにあった
ロープベッドという安い宿泊方法です。
ドスハウスの宿泊はとても安かったものの、客が変わってもベッド清掃はなく、不衛生な環境でした。切り裂きジャックの被害者になった娼婦、メアリー・アン・ニコルズはより良い寝所を確保するために体を売って働いていたそうです。
4. 棺でもベッドとして利用

当時のスラムで、ホームレスは寝る場所に困っていました。それを象徴するのが、
4ペニー・コフィンと呼ばれる棺のベッドです。4ペニーを支払えば、木製の箱の中で横になって寝ることができました。
悲しい現実ですが、4ペニー・コフィンはまだ良い方です。1ペニーを払い、椅子に座って眠るホームレスもいました。
5. 生活水はスラムを流れる下水

ロンドンのスラム街のメインストリートには、1本の下水道がありました。この下水は、スラムに住む人々にとって貴重な生活水となっており、子どもたちはこの下水をお風呂がわりにしていたそうです。
スラム街の住民はバケツいっぱいに下水道から水を汲んでは、しばらく放置し、その後上に浮いたゴミをすくってキレイな水として使っていました。
6. 貧困の理由は怠惰ではない

イギリスの中流階級以上の人々は、当時、ロンドンのスラムに住んでいる人たちを解雇しました。スラムに住む人たちは、自分たちの環境を恥ずかしいと思いながらも、一生懸命に働いて生きていたそうです。
19世紀、スラムでは7歳から働いている子どももいました。女の子は13歳になると、イーストエンド地区にある最大のマッチ工場、ブライアント・アンド・メイ社で仕事を探したそうです。何千人という女性たちが、毎日14時間勤務で働いていました。
7. 男の子たちの仕事

スラムに住む10代前半の若い男の子は、年齢や体力が十分ではないため、仕事はかなり限定されていました。低賃金でしたが、道端の馬糞の片付けは少年たちには良い仕事だったそうです。
他にも、裕福なロンドン市民の家にある煙突の掃除などもありましたが、煙突に閉じ込められて窒息死する男の子たちもいました。
8. 12歳から娼婦に

スラムに住む女性にとって、体を売ることは生き抜く唯一の方法で、多くの女性は12歳から始めたそうです。働いていた娼婦の正確な人数は明らかになっていませんが、歴史家によると8万人だったといわれています。
イーストロンドンのスラム街では、12歳よりもっと若い女の子たちが働いていました。家族を養うため、昼間は工場で、夜は街に立って娼婦として働く女性もいたそうです。多くの娼婦は、暴力を受け、強姦され、さらには殺害されています。
9. 子どもたちの犯罪集団

たくさんの子どもたちが、生きるために犯罪を犯し、スリと泥棒を繰り返します。1830年から1860年までの間、
ロンドンの市裁判所であるオールドベイリーの被告人の半数が、20歳未満のスラム出身の男の子たちでした。
当時は窃盗で死刑になる可能性もありましたが、
多くの子どもは植民地だったオーストラリアの刑務所に送られています。
10. 女性の自殺者が多かった

スラムの人々の中では、悲惨な毎日に直面するよりも、自殺を選んだ人も多かったそうです。自殺者の中でも若い女性の割合はとても大きく、多くの女性が流れの早い川に身投げしました。
自殺スポットとしては、テムズ川に架かる橋や、ハイドパークの人口湖・サーペンタイン・レイクに飛び込む人が多かったそうです。
11. 高すぎる子どもの死亡率

19世紀、スラムの子どもの死亡率は高く、1歳の誕生日を迎える前に亡くなるのは、平均で5人に1人、特にオールド・ニコル・ストリートで言えば4人に1人だったそうです。
たとえ1歳の誕生日を迎えられたとしても、生き延びるのは困難でした。男性の仕事は大変危険だったため、
男性の平均寿命は19歳だったそうです。
12. 子どもが死亡する原因

幼児が死亡する1番の原因は窒息で、寝ている間に両親や家族に潰されることが多かったようです。当時、多くの家は小さく窮屈だったため、働きすぎて疲れきった両親と同じベッドに一緒に寝て、
睡眠中に両親や兄弟が幼児を押し潰してしまったようです。
しかし、中には幼児を養う余裕がないため、故意に殺害したと捉える見方もあったようです。
13. 性的虐待が蔓延

スラムの子どもたちに直面した問題には、病気や衛生面だけでなく性的虐待もありました。性的虐待は、貧しい地域で流行っていましたが、ほとんどのケースは報告されていないため、正確な件数は把握できていません。
しかし、間違いなく若い男の子や女の子が性的虐待のターゲットとなっていました。窮屈な生活環境の中で、スラム街の子どもは若い頃から性の問題にさらされていたのです。
14. 切り裂きジャックだけではなかった

切り裂きジャックの犠牲者は、ロンドンで最も貧しく弱い女性たちです。しかし、殺人鬼は切り裂きジャックだけではありませんでした。
実際に多くの殺人鬼がスラム街をうろつき、娼婦を安く買って殺害しています。切り裂きジャックだけが大きな注目を集めてしまったようです。
15. 一般市民にスラムネタが大人気

スラムで生活する人々は大変な思いをして生きていたものの、19世紀の前半、貧困とは無関係のロンドン市民は、スラムの実情を知らずに幸せに暮らしていました。しかし、1840年代前半から、歴史家のアラン・メイベがスラムの生活実態について語り、これが大きなビジネスとなります。
野蛮な子ども、堕落した女性、暴力的な酔っ払いを描いた本は大ヒットしました。その後、ロンドン最貧層の悲惨な生活やスラム街で実際に起きた犯罪、特に若い女性が被害者になる内容が流行ったそうです。
16. 2つのロンドン

当時、スラム街のイーストエンドは「最も暗いロンドン」と呼ばれ、裕福なロンドン市民は、日常生活の中でスラム街に足を踏み入れることはありませんでした。その後、富裕層の市民はスラム住人を非難するようになります。
人気の雑誌や新聞は、スラムに住む人の貧困は自らが選んだ道で、怠惰のため仕事を解雇されたと報じたようです。1850年以降になって初めて、原因は社会的背景だったと認識されるようになりました。
17. 道路を建設した結果

1850年代から1860年代にかけて鉄道の時代が到来し、都市を結ぶ路線が建設されロンドンは変革を迎えました。
この建設によって、10年間で5万6000人の人が住居を奪われ、特に貧しいロンドン市民は大打撃を受けています。一部のスラムは完全に失われ、数千人もの貧困層の人達が住む場所を追われてしまいました。
18. 生活は変わらず

1870年代までに、イギリス政府はスラム街に関する対策をとることを決めました。スラム住人の生活の質を心配したわけではなく、スラム街が中流以上の裕福なロンドン市民に与える悪影響を考慮したからです。
警察署長はスラム街が犯罪の温床になっていると警告します。1875年、職人および労働者の住居改善法によりスラム街を壊す許可は出ましたが、強制でなかったため最貧困層の生活は変わりませんでした。
19. スラム街が観光ブーム

1875年の住宅改良は失敗に終わりましたが、1880年代になるとロンドンでスラム観光が流行ります。参加者は、だらしない服装をして、顔に汚れをつけ、スラム街を探索しました。そして、自分たちが普段目にすることはない貧困を直接目の当たりにしたのです。
この現象は、貧困の見学を楽しむという悪趣味なものでしたが、悪いことだけではありませんでした。これによりロンドン市民に真の貧困が認識され始め、貧困に対する意識に少しずつ変化が出てきたのです。
20. 貧困救済が始まった

スラム観光はよくないブームでしたが、ロンドンだけでなくイギリス全土から人が集まり、スラム街の現状が広く知れ渡るようになりました。 これによって、救済に向けたキャンペーン活動が強化され始めます。
救済活動に乗り出した人たちは、信仰によって動かされたクリスチャンから、社会正義感によって行動したグループまで様々です。学校や図書館が設立され、衛生面を改善し、犯罪抑圧を強化する圧力が政府にかけられました。
壮絶なスラムの生活を物語る写真や内容でした。貧困救済がもう少し早く行われていれば、もっと多くの子どもや若者の運命が変わっていたかもしれません。