ジャパニーズホラーにおける「水」
ジャパニーズホラーブームにおけるヒロインの代表格といえば1998年に映画化し、大ヒットを得た『リング』の貞子であろう。その登場時はまさしく新時代の恐怖そのものであった。クライマックスでテレビから這い出し迫り来るその姿はジャパニーズホラーの象徴と言えるだろう。
映画の中で貞子の呪いのビデオテープを見た者は必ず7日後に恐ろしい死を遂げる。異能力を持って生まれた貞子は、それを恐れた父に生きたまま井戸に落とされ凄惨な死を迎えた。タイトル『リング』の意味の一つに「蓋をされた井戸の底から見た光景」がある通り、貞子は井戸の底で死に、そしてそこから来る。さらに貞子はもともと海から来た「何か」から生まれたものであり、水とは切っても切り離せない関係がある。
2000年公開の『仄暗い水の底から』はさらにわかりやすい。水の事故で死んだ少女の霊は母を求め水を媒介して忍び寄り、主人公に憑りつこうとする。ラスト付近の洪水のように水が押し寄せるシーンは印象的だ。
彼女らは「水」の中からくる霊であり、水を伴うのは必然のように思われる。2003年の『呪怨』でも水の流れるシャワーシーンで霊が現れるシーンがあり、もはやホラームービーの定番になっている。
こういった「水」と「幽霊」のつながりはジャパニーズホラーの映画の中だけでのものだろうか?確かに冒頭で出てきた「白いワンピースの女」というイメージは貞子以降に定番となったものであり、それまでは刺激的な真っ赤な服や古式ゆかしい着物が幽霊の中でのトレンドであった。しかし「水」と幽霊の関係はもっと深く古い。
古典から続く「水」と幽霊の関係
最も有名な古典怪談の一つ、『番町皿屋敷』のお菊さんはご存じの通り「いちま~い、にま~い、……」と恨みがましく皿を数える幽霊であるが、彼女は井戸に現れる。というのも彼女は井戸で死んだのだ。
『皿屋敷』には様々なパターンがあるが、多くの場合、女中のお菊は十枚揃えの皿の一枚を失ったことを咎められ、激しい折檻の末に井戸に身を投げるか、もしくは殺されて井戸に捨てられる。百年以来の幽霊界のスターであるお菊さんも貞子と同じく井戸出身(?)なのは興味深い。
また、同じく大御所の「四谷怪談」のお岩さんは夫である伊右衛門に裏切られた上に毒殺され、死体は戸板に括り付けられ川に流される。歌舞伎の『東海道四谷怪談』ではこの流されたはずの戸板がまた伊右衛門の所に流れつき、お岩の死体が恨みを吐くシーンは「戸板返し」と言って有名な見せ場の一つになっている。
こういった古典にさかのぼらずとも「水」や「水場」と幽霊の関わり合いは身近な怪談にも昔からある。タクシーが人気のない道で拾った怪しい女を目的地まで運ぶと女の姿はなくシートがぐっしょり濡れている……などどこかで聞いたことがあるだろう。もっと卑近な例では学校の怪談と言えばまずトイレが出てくる。トイレは一番身近な「水場」であるからだろう、同じくプールも人気スポットだ。
災いの水、不浄なる水
なぜ「水」なのか。これは日本の気候が関係している。
土地の気候というのはその国の文化的な思考と深くかかわっている。例えば欧州では女性を褒めたたえるときに「君は僕の太陽だ!」などと例えることがあるが、アラブ圏では女性を褒めるなら太陽ではなく月に例える。温帯に属する欧州で太陽は暖かく光をもたらす存在であるが、砂漠帯のアラブ圏では太陽は男性的で厳しく過酷なイメージだからだ。
ここで日本における「水」のイメージを考えてみよう。当然のことながら「水」は人間が生きるのに欠かせないものであり、日本でも昔から日照り、渇水による飢饉がたびたびあった。しかしながら、それでもなお日本は水に恵まれている。高温多湿の温帯気候で雨も多いからこそ稲作が発展し農耕文化を作り上げた。
さらに大げさに言えば日本は「水に恵まれすぎている」のである。水が「多すぎて」起こる災害、台風、大雨、津波など、現代でも日本人はそれらと戦っている。こういった気候条件の影響から日本人は「水」に恵みや美しさ以外のイメージを持つことになった。それが「災いをもたらす不浄な水」である。
「水」は先に述べたような自然災害だけでなく、「水による事故」という災いももたらす。井戸に落ちるのもその一つと言えるだろう。また高温多湿の日本では湿気はあらゆるものを腐敗させる上に、微生物や大腸菌を含んだ生水は「不浄」であった。簡単に言うと日本人には水は危険で、ジメジメして不衛生な負のイメージをもっており、それが幽霊への恐怖につながっているのだ。
ジャパニーズホラーブームも随分昔のものになり、2016年には『貞子vs伽椰子』なんて、彼女らに本気でおびえていた人間が怒りだしそうな映画が公開された。意外にも高評価を得ているこの作品でもやはり井戸が出てくるが、どんなシーンで舞台になっているかは是非観て確かめてほしい。
きっと井戸や水に対して別のイメージを持つことになるだろう。
文:瀧波コウセイ