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    16

    彼女は今日も今日とて猫をストーキングしている

    彼女は今日も今日とて猫をストーキングしている






    1: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:26:30 ID:zXh
     猫ってやつはかわいいよな。
     黒猫ともなればなおさらだ。
     自由気ままで、やりたいことをして、食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。
     それはとても素敵な生き方だと思う。
     だから俺は猫の尻を追っかけている。
     俺は猫のストーカーである。
     その日も俺はいつもどおり起床すると、服を着替えてアパートを後にした。
    みんな蛾になった話
    http://world-fusigi.net/archives/9239491.html

    引用元: 彼女は今日も今日とて猫をストーキングしている





    2: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:27:49 ID:G41
    ほお

    3: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:28:10 ID:zXh
     向かった先は近所の公園。ポチのお気に入りのスポットだ。
     公園につくと、ポチがブランコの上で毛づくろいをしていた。
     後ろ足を器用に持ち上げて、後頭部を掻く。
     しばらくすると満足し、ぐでっと身を横たえる。
     思いついたようにひとつあくびを零し、目を閉じてしっぽを垂れ下げる。
     俺は茂みに隠れ、そんな様子をじっと眺めていた。
     ここのところ、これが毎日の日課だった。

    4: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:30:05 ID:zXh
     猫を追っかけ回して一日中眺めているなんて変な奴だと思う人もいるかもしれない。
     でも俺はそれが取り立てて特別な趣味でないことを知っている。
     なぜなら俺は、俺と似たようなことをする奴が俺以外にもいることを知っているからだ。
     例えばほら。
     向かいの茂みに視線をやる。
     そこに一人の女がいる。

    5: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:32:05 ID:zXh
    そこにいるのは上下ジャージに白いヘルメットをかぶった女だ。
     年の頃は20くらいだろうか。俺と同じか、もう少し若く見えるくらいのその女は、草陰に身を隠すようにしゃがみこみ、ブランコの方をじっと眺めている。
     奴は俺が猫をストーキングしていると高確率で出くわす、変な女だ。
     俺と同じくあの黒猫の尻を追っかけ回しているらしく、しかし今まで一度たりとも言葉を交わしたことはなかった。
     奴の方は俺に気づいているのかいないのか、俺の存在に注意を向けてきたこともない。
     いつもただじっとポチを眺め続けていた。

    7: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:34:14 ID:zXh
    「あの……」

     その日俺は初めて彼女に声をかけた。
     何か特別な理由があったわけではないが、ただ少し、興味が湧いたんだ。

    「なんだ? 誰だ君は」

     彼女は顔だけこちらに向けて、きょとんとした表情で尋ねてきた。
     反応から察するに、今まで俺の存在を認識すらしていなかったらしい。

    「ああ、俺は……」

     答えかけてふと我に返る。
     平日昼間の公園で見知らぬ女性に突然声をかける男。怪しくないわけがない。
     改めて彼女の顔を見ると、いかにも訝しげな表情を浮かべている。
     俺は慌てて少しだけ距離を取ると、彼女の警戒を少しでも和らげようと、少し遠回しに返した。

    「いえ、突然声をかけてすみません。俺は近所に住んでる大学生です。先ほどから草むらに屈みこんでおられたようなので、何をしているのか気になって……」

     すると彼女はまだ警戒した様子で、しかし、視線を戻して質問に答えてくれた。

    「見てわからんか。閻魔大王様を観察している」

    「は? 閻魔大王……?」

    「あの方のことだ」

     聞き慣れない言葉に戸惑っていると、彼女は黒猫……ポチを指差した。

    「あの美しくも禍々しいお姿。間違いない。どこからどう見ても閻魔大王様だ」

    8: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:36:21 ID:zXh
     彼女がポチを見る目はどこか陶酔しているようで、少し狂気じみていた。
     ああ、これは関わらない方が良さそうだ。
     俺はすぐ、安易に話しかけてしまったことを後悔し、

    「そうだったんですか。えぇと、では熱中症にお気をつけて……」

     とその場を立ち去ろうとした。
     しかし、

    「待て。君こそこんなところで何をしていた」

     彼女に呼び止められてしまった。

    9: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:38:07 ID:zXh
    「……俺も同じですよ。ポチを眺めてたんです」

     ごまかしてこの場を立ち去ろうか。
     逡巡したのち、別にそこまでしてこの場を急いで離れる必要もないだろうと思い返し、正直に答えた。
     いや、違うな。彼女に対する警戒心より彼女に対する好奇心の方が勝ったんだ。
     とにかくそれで、ごまかさずに答えた。
     すると彼女は少し首を傾げ、

    「ポチ? なんだそれは」

     と聞いてきた。

    10: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:40:19 ID:zXh
    「あの黒猫の名前ですよ。近所のガキがそう呼んでいたので……」

     俺がそう、黒猫を指しながら答えると、

    「バカにしているのか!? 閻魔大王様になんて名前を……」

     予想外に大仰な反応が返ってきた。
     俺は少し面食らいつつも、

    「バカにはしてないですよ。そっちこそなんですか『閻魔大王』って。そんな大層な名前つけたらあの猫だって気後れしちゃいますよ」

     と言い返すと、

    「閻魔大王『様』だ。『様』をつけろこの無礼者。それに猫ではない。今は仮初の姿をしているだけだ」

     などとわけのわからないことを宣い始めた。

    「なんですか仮初の姿って。そっちこそバカにしてるんですか?」

    「ふっ。まあ凡人にはわかるまい。理解せよというのが愚かだったな」

    「……そうですか。まあとにかく、俺は帰りますので、熱中症にはお気をつけて」

    「ふん。凡人ごときに心配される言われはない」

     最初から最後まで鼻につく物言いだったが、とにもかくにも、それが俺と彼女の最初の出会いだった。

    11: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:42:51 ID:zXh
     次の日から、俺は彼女と毎日のように顔を合わせることになった。

    「また来たか凡人。まぁあの閻魔様の美貌に取り憑かれるのも無理はない」

    「誰が凡人だ。中二病女」

    「中二病ではない。私は大悪魔の化身の末裔、そして閻魔様に仕えし忠実な下僕だ」

     彼女は大悪魔の化身の末裔を自称し、そしてポチこそが閻魔大王だと言い張って聞かなかった。
     それはいわゆる中二病というやつで、二十歳前後の女がそんなことを大真面目にのたまっている様は痛いとしか言いようがない。
     ではなぜ俺はそんな女と毎日顔を突き合わせているかと言えば、暇を持て余していたからだ。
     他にすることなどない。
     ポチのストーキングは俺の日課なのだ。

    12: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:45:07 ID:zXh
     彼女はよく口の回る女だった。
     暇さえあれば何かをくっちゃべり、俺が聞いていようといまいとお構いなしとばかりにまくし立てる。
     あるときは自分の理想について語り、

    「いいか。私は意欲に満ちた人間が大っ嫌いだ。
     活気に溢れ、意識が高く、行動的な人間ってやつが大っ嫌いだ。
     そういうやつはいつも他人に自分と同じ理想を求めたがる。
     くそったれだ。私はな、最低で醜く、バカであり続けたいのさ。
     無気力と怠惰と不摂生を愛しているんだ。
     ドロドロとした汚い欲にまみれてぐちゃぐちゃなまま、ジメジメとした部屋の片隅で無意味に人生を浪費して腐っていたいんだ。
     自分の価値だとか、他者からの評価だとかを求めちゃいないし、そのために人と競い合うなんて反吐が出る。
     努力? 自尊心? 糞食らえ。
     仕事終わりに清涼感溢れる一杯のビールで喉を潤すより、臭く汚い部屋で社会に悪態つきながら、劣等感にまみれてコーラで歯を溶かしていたいんだよ。
     理解できない? そりゃそうだろう。私も君を理解できない。
     君は私じゃないし、私は君じゃない。
     人と人ってやつはどこまで行っても完全に理解なんてし合えないものだ。
     つまりはそういうことさ」

    13: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:47:56 ID:zXh
     またあるときは努力について語り、

    「努力ってやつは悪魔より悪魔じみている。
     一度取り憑かれたらなかなか逃れられない。
     誰もが言う。『努力は尊い。努力は実る。努力しない者はクズだ』と。
     決してそんなことはない。大抵、努力とは報われぬものだ。
     世界には70億を超える馬鹿どもがうようよとしていて、自分という人間はその中のちっぽけな一粒に過ぎない。
     どんな分野であれその中で頂点に立つというのは容易ではなく、頂点に立てぬ馬鹿はただ礎となり果てる。
     一度努力を始めれば、上を見ざるを得ないし、周りの馬鹿どもを蹴落として頂点を目指さざるを得なくなる。
     周りと比べて努力しているかを常に気にし、努力が足りなければさらなる努力を強いられることになる。
     それは同じ土俵に立つ他の馬鹿どもも同様だろう。
     そうして際限のない努力のチキンレースの果てにあるのは、青春的勝利などではない。破滅と絶望だ。
     努力など無価値で無意味。
     ならば初めから努力などすべきでない。私はそう考えた。
     何にも取り組まず、何にも向き合わず、そのかわり何も求めない。
     私は流れに身をまかせる一本の棹となることを望んだのだ」

    14: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:49:29 ID:zXh
     またあるときは自由について、

    「我々に与えられたもっとも尊ぶべき権利とは何か。
     それは言わずもがな自由である。
     自由とはすべての生命に分け隔てなく与えられた根源的な権利であり、それはこの世の原理原則と同じくらい大切なものだ。
     何者によっても侵されることなどあってはならないし、それを奪う権利などありはしないのだ。
     私は自由を愛している。
     心の底から愛しているといっても過言ではない。
     人間とは元来何をしても良いのだ。
     だから寝たいときに寝、食べたいときに食べ、遊びたいときに遊び、働きたいときに働くべきだ。
     自由とは周りに強いられるものでなく、自ら望み享受すべきものなのだ。
     だから私から自由を奪おうとする者を私は決して許しはしない。
     もちろん彼らの選択もまた自由。それを責めようとは思わないよ。
     だがそれを恨むのもまた私の自由。
     悪魔の化身の末裔たる私の恨みを買ったことを、いつかきっと彼らは後悔することになるだろうな」

    15: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:51:24 ID:zXh
     彼女の言うことはどれも一見筋が通っているようにも聞こえたが、結局のところひねくれた言い訳に過ぎなかった。
     なにをどうすればここまで捻じ曲がることができるのか。
     普段は一体何をしているのだろうと気になって尋ねてみると、

    「世界は敵だ。反逆こそ我が正義だ。私は大いなる反逆の積み重ねにより、我が存在を世界へと知らしめている」

     要するにただの暇なニートのようだった。

    16: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:53:31 ID:zXh
    「他にすることとかないのかよ」

    「ない。世界に反逆することだけが私の存在理由だからだ」

    「そうかい」

    「なんだその目は。何か文句があるなら言ってみたまえ」

    「ないよ。ただ、暇そうだなと」

    「どこをどう見たら暇に見える。毎日やることだらけだ」

    「やること?」

    「大いなる反逆だ」

    「なんだよ大いなる反逆って」

    「凡人が知る必要はない。大いなる反逆は大いなる反逆だ」

    17: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:55:26 ID:zXh
     彼女は常にヘルメットをかぶっていた。
     なんのためにそんな暑苦しいものをかぶっているのか尋ねたことがある。
     彼女の返答はこんな具合だった。

    「身を護るためだ」

    「身を護るったって……こんな住宅街で何から」

    「いつ何が起きてもおかしくはない。もし今この瞬間、空から極小の隕石が君の頭部目掛けて降ってきたらどうする」

    「どうしようもないだろそんなの」

    「しかしヘルメットをかぶっていれば」

    「被ってったって変わんねえよそんなの」

    「どうして断言できる。隕石に直撃したことがあるのか?」

    「いや、ないけどわかるだろそれくらい」

    「わからんね。どんな可能性もありうる。仮に隕石が無理だとしても、物陰から突然暗殺者に狙われる可能性だって……」

    18: 名無しさん@おーぷん 19/08/02(金)23:57:47 ID:zXh
     そんな馬鹿みたいな話を毎日毎日聞かされていた俺は、ある時とうとう彼女と口論になった。

    「そんな馬鹿な話があるか! 閻魔大王だかなんだか知らないが、猫が喋るわけねえだろう! このあんぽんたん!」

    「あんぽんたんだと! 私を愚弄するのもいい加減にしろ! あの方は確かにおっしゃったのだ! 自身が閻魔大王様であり、私こそが大悪魔の化身の末裔なのだと!」

    「バカも休み休み言え! なにが大悪魔だよ! ただのニートじゃねえか! この中二病女!」

    「言うにことかいてこの私が中二病だと! 凡人風情が粋がるなよ! 恥を知れ!」

    「恥を知るべきなのはどっちだよ! 現実を見ろよ駄目ニート!」

    「ニートニート繰り返すでない! 私は自らの意思で自由を選択しているのだ! 貴様こそいつも暇そうにしているではないか! 私にどうこう言える筋合いがあるとおもっているのか!」

    「お、俺は暇じゃない! 今は大学が休みなんだよ! それこそお前に言われる筋合いはねえよ!」

    「ほう! 学生さまとはいいご身分じゃないか! 君が見識ある学生であるというなら、毎日こんな無為な過ごし方をせずに、学業に励むなり、友人と交遊を深めるなり、もっと有意義に過ごすべきじゃないかね!」

    「俺がどう過ごそうと勝手だろ! お前にどうこう言われる筋合いないな!」

    「その言葉そのまま返そう! 私の生き方に先にケチをつけてきたのは貴様だろうに!」

     口論はヒートアップの末に平行線をたどり、決着はつかなかった。
     ふとあたりを見渡すと、いつの間にか黒猫の姿は無くなっている。
     騒がしくてどこかへ行ってしまったのだろうか。
     それに道行く人がこちらを白い目で見ていることに気がついた。
     彼女の方に振り返ると、彼女もそのことに気がついたらしい。顔を赤くしてうつむいていた。

    「……なぁ、もうこの話はやめないか」

    「そうだな。俺も頭に血が上ってたみたいだ」

    19: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:00:31 ID:mri
     喧嘩のあと、俺たちは紳士協定を結ぶことになった。
     お互いにお互いを尊重し、深く詮索はしないこと。
     黒猫の呼び方について、あれこれと言わないこと。
     黒猫を驚かしたりしないこと。
     それからというもの、俺達は協力してポチをストーキングするようになった。

    20: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:02:32 ID:mri
    「おい、閻魔様が移動するぞ」

    「昼前か……この時間なら佐藤さん家か、石川さん家あたりに向かうかな。いや、これだけ天気が良ければ川辺の散歩の可能性も」

    「さすがに長いこと見ていただけのことはあるな。私達も後を追おうか」

     ポチがふらふらと歩き出せば、行き先の推測をつけ先回りし、

    「まずい。このままでは近所のガキどものおもちゃにされるぞ」

    「私が先に行き、子どもたちをあの場から引き離そう」

     もし危なげな行動をとっていたら陰ながらそれを助け、

    「今日は猫缶に煮干しだ」

    「うむ。それだけ上等な供物であれば閻魔様もさぞお喜びになることだろう」

     もしポチがお腹をすかせているようだったら、こっそりと餌を供えておく。
     そんなふうに息の合ったフォローがいつの間にか身についていた。

    21: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:05:21 ID:mri
     彼女と出会ってから2週間もするころには、少しずつ彼女のことがわかるようになっていた。

    「今日もまたいたずらか?」

    「いたずらではない。大いなる反逆行為だ」

     彼女は『大いなる反逆行為』と称し、くだらないいたずらをするのが趣味のようだった。

    22: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:08:23 ID:mri
     ある時は佐藤家の表札を新品に取り替え、またある時は近所のガキが埋めたタイムカプセルを掘り返してそのまま同じ場所に埋め直し、またある時は夜中に小学校へ忍び込み、ぐるっと校舎を一周して出てきた。
     彼女はだいたい一日置きに猫のストーキングと大いなる反逆行為とやらを繰り返していた。
     俺は彼女とともに猫をストーキングしたり、彼女がいないときは一人で猫のストーキングをするか、気が向いたら彼女の大いなる反逆行為とやらを眺めていた。

    23: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:10:37 ID:mri
    「今日は何をしてるんだ?」

    「見ての通り、太陽に手を伸ばしている」

    「へえ。伸ばしたらどうなるんだ?」

    「そのうち太陽が掴めるかもしれない」

    「本気で言ってるのか?」

    「当たり前だ」

    「やっぱりお前ってバカなのか?」

    「何を今更」

    24: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:12:11 ID:mri
    「なあ、その大いなる……なんだっけ? それをすることに何の意味があるんだ?」

    「大いなる反逆行為だ。意味なんてない。無意味だ。無意味だからこそ意味がある」

    「よくわかんねえよ」

    「私は努力を放棄し、自由を手に入れた。私には自由を謳歌する義務がある。退屈は敵なのだ」

    「さらによくわからん」

    「別にわからなくていいさ。むしろこんなことわからない方がいい」

    「そうかい」

    25: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:15:19 ID:mri
     ある雨の日、俺は久しぶりに大学へと足を運んだ。
     出席しないとそろそろ単位の危ない授業があるからだ。
     じっとりと湿った蒸し暑い空気が不快感を増大させる。
     校門前の奇妙なオブジェを横目に見ながら、俺は人と極力目を合わせないよう俯きながら歩いていた。
     知り合いに出会いたくない。
     その一心で傘を深く差し、足元だけを見つめていたのだが、そんな俺の願いは天に届かなかったらしい。

    「野口? 野口じゃないか」

     そこに立っていたのは同じ学科の高岸だった。

    26: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:17:25 ID:mri
    「久しぶり。最近見かけないからどうしたのかと思ってたよ」

    「あ、あぁ、久しぶり」

    「元気にしてたか? どうした? 体調でも崩してたのか?」

    「まぁ、その、そんな感じ」

    「そうか。でも元気そうでなによりだ。出席とか大丈夫なのか?」

    「一応、ぎりぎり」

    「気をつけろよ。ゼミの方は緩いらしいが、専門講義の方はけっこう厳しいらしいぞ」

    「そうなのか、まぁ、気をつけるよ。それで、高岸の方は……」

     言いかけたところで後ろから声がかけられる。

    「リョウター。おっはよー」

     振り向くとそこには髪を茶色に染めた女性がいた。

    27: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:19:38 ID:mri
    「おう。おはよう、ユミ」

    「あれ? その人は? リョウタの友達?」

    「あ、えっと……」

     突然水を向けられて、しどろもどろになっていると、高岸が代わりに答える。

    「こいつは同じ学科の野口。今日はたまたまここで会ったもんだから少し話をしてたんだ」

    「えぇと、その、はじめまして」

    「はじめましてー。私はユミ。知ってるかもだけど、リョウタの彼女やってまーす」

    「え、そうなの?」

     驚いて高岸の方を見ると、少し照れたような様子で、

    「まぁ、その、こないだな。サークルの飲み会で意気投合して」

    「照れてるとこもかわいいんだからー」

     そんなことを言いながら、ユミさんは高岸の頬を突いている。

    「そ、それじゃ俺たちは先行くから……」

    「ばいばーい」

     高岸とユミさんはさっさと歩き去って行ってしまった。
     あとには一人、俺だけが残された。

    28: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:22:02 ID:mri
     一人になった俺は、とぼとぼと講義ホールへと向かう。
     そして出席だけ取ると、そそくさと退出して食堂へ向かった。
     一番値段の安い素うどんを注文し、まばらに埋まった席の一番隅っこでずるずるとすする。
     窓の外に目をやると、花壇の赤い花が暑さに萎れ、しっとりと雫を滴らせていた。
     それを横目に眺めながら雨音に耳を澄ませていると、肩を叩かれた。

    「やっぱり野口か。久しぶりだな。隣いいか?」

     以前少しの間所属していたサークルの先輩が立っていた。

    29: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:24:40 ID:mri
    「今年は新入生がたくさん入ってくれたおかげで、うちのサークルも安泰だよ」

    「は、はぁ、そうですか」

     先輩は席につくなり、大盛りのカレーライスを掻き込むようにして完食した。
     そのあと、コップの水で喉を湿らせながら、落ち着いた調子で話しかけてきた。
     あまり長居をするつもりはなかったのだが、黙って立ち去るわけにもいかず、曖昧に受け答えをする。
     入学してすぐの頃、特に深い理由もなくテニスサークルに入った。
     そのとき先輩によく指導してもらっていたから、俺は先輩に恩があった。

    「素っ気ないな。もっと喜んでくれたっていいだろうに」

    「すみません」

    「あっはっは。冗談だよ。そんなにしょげ返るな」

     豪快に笑う先輩は、以前と何も変わらないようだった。

    30: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:26:21 ID:mri
    「どうして急に声をかけてこられたんですか?」

    「ん? いやなに、特に理由があるわけでもないが、たまたまお前の顔が見えたもんだから少し懐かしくなってな」

    「はぁ、よく気づきましたね。辞めたのも随分前なのに」

    「お前は真面目だったからなぁ。うちのサークルにしては珍しかったから、よく覚えてるよ」

    「それは、どうも……」

    「それに比べて最近の連中はどうもな」

    「どうかしたんですか?」

    「お前、最近うちのサークルがなんて呼ばれてるか知ってるか?」

    「いえ」

    「出会いサーだのヤリサーだのって影で言われてんだよ」

    「それは、なんというか、あんまりですね……」

    31: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:28:56 ID:mri
    「まぁ、仕方ないわな。実際それ目当てで入ってくるやつが大半だ。別にそれが悪いってわけじゃないんだが、お前みたいに真面目なやつが居づらくなっちまうのは寂しいな、と、老婆心ながらそんなことを思うわけだよ」

    「……俺は、その、先輩が言うほど真面目じゃないです」

    「あっはっは。謙遜するなよ。まぁそういうとこもいいとこだと思うけどな」

    「そういうわけじゃ……」

     言いよどんでいると、先輩は少し声のトーンを落として尋ねてきた。

    「お前はまだ、テニス好きか?」

     俺はその答えに少し迷った。

    「……はい」

    「そうか。それが聞けてよかった。また一緒にラーメンでも食いに行こうや」

     そう言って立ち去る先輩の後ろ姿を見ながら、俺は少し胸が締め付けられた。

    32: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:30:59 ID:mri
     大学からの帰り道、いつもの公園に立ち寄ってみると、案の定そこには彼女がいた。
     なぜか彼女は傘も差さず、ただぼうっと空を見上げていた。

    「何してんだ?」

     声を掛けると、彼女はようやく俺に気がついてこちらに振り返る。

    「空を見上げている」

    「見りゃわかるよ。この雨の中なんで傘も差さずに突っ立ってんのかって聞いてんだよ」

    「君はバカなのか? 傘を差していたら空が見えないじゃないか」

    「バカはどっちだよ。そんなことしてると風邪引くぞ」

    「安心しろ。バカは風邪を引かないらしい」

    「自分で言うかよ。バカ」

     俺はカバンから折り畳み傘を取り出して彼女に差し出す。
     彼女は黙ってそれを受け取った。

    33: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:33:41 ID:mri
    「ポチはいないのか」

    「閻魔様はたぶん神社の縁の下にでも避難されていることだろう。たまには監視のない気ままな休日も必要だろうから、今日は一人だ」

    「あいつはいつも気ままそうにしてるけどな」

     俺たちは話しながら公園の隅にある東屋へと歩いていく。
     ずいぶんと年季の入った、ぼろっちい木造の東屋。
     柱には蔦が巻き付き、虫食いだらけになっている。
     俺は傘を閉じて屋根の下に入ると、埃っぽいベンチを軽く払って、そこへ腰を下ろした。
     彼女は向かいに座ると、なんでもないような口ぶりで尋ねてきた。

    「なにやら元気が無さそうだが、何かあったのか?」

     俺は思わず目をそらしてしまった。

    「なんでもねえよ」

    35: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:37:13 ID:mri
     彼女はベンチの脇に傘を立てかけながら追求してくる。

    「なんでもないということはないだろう」

    「なんでもない。というかお前には関係ないだろう」

    「まぁ、確かにそうだ。だが私は大悪魔の化身の末裔。なにか悩みでもあるなら、なんでも私にぶちまけるといい」

    「言ったらどうにかなるのかよ」

    「まぁ、どうにもならんだろうな」

    「大した大悪魔様だよ」

     皮肉を投げかけると、彼女はぐっと身を乗り出してきた。
     思わず俺は身を引いてしまう。
     しかし、予想に反して、彼女は優しげな声音でこう言ってきた。

    「どうにもならんだろうが、聞くことくらいならできる。言うだけならタダだ。どうだ? 話してはみないか?」

    36: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:39:03 ID:mri
     俺は彼女にすべて話した。
     今朝知り合いに会ったこと。知り合いに彼女ができていたこと。それを見てつまらない劣等感に襲われたこと。
     食堂で元いたサークルの先輩に会ったこと。先輩が俺のことを高く買ってくれていて、それが少し気まずかったこと。そして、場の空気に合わせて心にもない嘘を言ってしまったこと。
     なぜだか、彼女の前では全部さらけ出してもいいような気がした。
     彼女の雰囲気がそうさせたのか、ただ一時の雰囲気に流されてしまっただけなのかはわからないが、俺はすべて包み隠さず話していた。

    「結局、俺はどうしようもなくくだらない人間なんだよ。見栄を張って、つまらない意地を張って、そのくせ努力とかそういうのを嫌って、逃げて逃げて生きるような臆病者なんだよ。な? くだらないだろ?」

    37: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:41:47 ID:mri
     すべて聞き終わった彼女は、目を閉じてゆっくりと口を開いた。

    「確かに、そうかもしれない。くだらないな」

    「そうだ。俺はくだらない人間だ。俺はくだらない、クズで、生きる意味もない人間で……」

     そう言いかけたとき、彼女はすかさずに口を挟んだ。

    「それは違う」

    38: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:43:08 ID:mri
     それはいつもより鋭く、冷たい声音だった。
     思わず彼女の方を見ると、彼女はまっすぐこちらを見ていた。

    「確かに君はくだらない。くだらない人間だが、クズではない」

     彼女は俺の目を覗き込んだまま、はっきりとそう告げた。

    「生きる意味もない?
     そもそも生きるのになんの意味が必要なんだ。
     君は現に生きている。それに意味や理由が必要なのか?
     だいたい、君は自分をクズだと言うが、そうしたら私はどうなる。
     君よりさらにくだらないぞ。
     いいか。どんなに君が自分自身をくだらないと思っても、決して卑下するな。俯くな。自分を低く貶めるな。
     私は君より遥かに馬鹿でどうしようもなくくだらない。
     だがな、私は君より堂々と生きている。生き恥を晒して生きてるんだ。
     君は私を貶めたいのか?」

    39: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:45:37 ID:mri
     言っている意味を汲み取るのに、俺は数秒を要した。
     そしてようやく彼女の言葉を咀嚼すると、その意図を理解した。
     つまり俺は、彼女に励まされているわけだ。
     どうしようもなくひねくれた彼女は、自分を引き合いに出して、とても回りくどいやり方で、俺を慰めてくれているわけだ。
     それを理解したとき、胸のうちから湧き上がった感情は、喜びや嬉しさなどではなかった。
     ただひたすら惨めに感じた。

    40: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:47:28 ID:mri
    「無理に慰めないでくれ。頼むから」

    「無理になどではない。私が思っていることをそのまま述べただけで……」

    「もういい。やめてくれ。余計に惨めになるだけだ。お前がどうやって取り繕おうとも、俺はくだらない、ただのクズだよ」

     雨はまだ止まない。
     俺は立てかけた傘を手に取ると、そのまま東屋を去った。

    「……君は何もわかっていないよ」

     ぽつりとつぶやきが聞こえた気がしたが、俺は聞こえないふりをした。

    41: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)00:50:21 ID:mri
     翌日。
     どんよりとした曇り空の下、水たまりを避けつついつもの公園に向かうと、そこにはやはり彼女がいた。
     昨日の気まずさを誤魔化すように声を掛けると、

    「おはよう」

     彼女は何事もなかったかのように返してきた。
     気にしすぎだったろうかと、ブランコの方に目をやると、ポチの姿が見当たらないことに気がついた。

    42: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:06:56 ID:mri
    「あれ? ポチはどうしたんだ? どこか出かけてるのか?」

    「さあ、どうだろうな」

     彼女はそっけなく答える。


    「さあって……今日はあいつの監視とやらをしなくていいのかよ」

    「別にいいさ」

    「どうして……」

    「昨日も言った通り、閻魔様にも休息が必要だろう。私はしばらく閻魔様の監視をやめるよ。君がしたいというなら止めはしないから、したければ一人でやってくれ」

     なにやら突き放したような言い方に少しかちんと来た俺は、

    「そうかよ。ならそうさせてもらうよ」

     それだけ言い残して公園を後にした。

    43: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:09:17 ID:mri
     佐藤さん家、川辺のベンチ、神社の縁の下、小学校前……ポチの行きそうな場所を片端から回ってみたが、不思議なことにポチの姿はどこにもなかった。
     どうしてどこにもいないんだ。
     ストーカーに嫌気が差して逃げ出したって言うのか?
     俺はあの黒い毛玉を見落とさないように注意深く周囲に目を凝らした。
     しかし、やはりポチは見つからなかった。

    44: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:12:17 ID:mri
     俺はふと胸がざわめくような感覚に襲われた。
     祖父が言っていた。
     猫というやつは不思議なもので、自分の寿命がわかるらしい。
     死期が近づくと、ふらふらっと人目につかないところに行き、そこで誰にも知られず息を引き取るのだと。
     飼い主を悲しませたくないのか、最期くらいは一人になりたいのか、理由はわからないが、そういった習性があるのだと。
     胸のざわめきは途端に嫌な予感へと変わり、俺は行き場のない焦燥感に駆られた。
     すぐ近くに、小学生の下校を見守るボランティアのおばさんがいるのに気がついた。
     俺はそのおばさんへと詰め寄って尋ねた。

    45: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:14:50 ID:mri
    「すみません。猫を知りませんか? ポチって名前の野良猫なんですけど」

     突然話しかけられたのに驚いたのだろう。
     おばさんは怪訝そうな視線で俺を見る。

    「あの……あなた一体誰です? どうかされたんですか? おまわりさんならあちらに……」

    「あ、いえ、違うんです。あの、猫がいなくて……いつも見守ってた猫なんですけど」

    「猫……ですか? さあ、知りませんけど……あの、もういいですか?」

    「本当に、まったくご存じないですか? よくこの近くを歩き回っていて……」

    「いえ、ですから……」

    「その、大きさはこのくらいの、真っ黒な猫で、耳がピンと立っていて……本当にちょっとした情報でもいいんです。何か心当たりがあればなんでも……」

    「知りませんってば。あなたしつこいですよ」

     ぴしゃりと投げかけられた言葉にハッとして周囲を見渡すと、下校途中の小学生たちが怯えた視線を投げかけてきていることに気がつく。
     向こうに立っているおじさんも、不審者を見る目で俺を見ていた。

    「あなた、いつもここらへんを昼間からうろうろしている方ですよね。一体何のお仕事をされているんです? あんまりしつこいと警察に掛け合いますよ?」

     俺は冷静になって、おばさんから離れた。

    「すみません……ありがとうございました」

    46: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:17:37 ID:mri
     俺はどうしてこんなに落ち着かない気分なんだろう。
     たかが野良猫だ。それなのに……。
     小学校を離れた後、ポチがよく行っていた場所をもう一度回りながら、近くにいた人に尋ねて回った。
     しかし、ポチの姿を見つけることはおろか、目撃情報ひとつ得られなかった。
     焦燥感をごまかすように、俺はポケットに手を突っ込んで早足で公園に向かった。そこにあの黒いのが丸まっているのを期待して。
     しかし、やはりそこにポチの姿はなかった。
     彼女の姿も見当たらなかった。
     もう帰ったのだろう。
     無人の公園は夕日に照らされて、淋しげに見える。
     俺は無言のまま、錆びついたブランコを蹴っ飛ばして帰った。

    47: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:20:53 ID:mri
     次の日も、その翌日も、俺はポチを探し回った。
     案外ひょっこり出てくるんじゃないか、なんて思いつつ、ポチの行きそうなところを虱潰しに見ていったが、あの黒い毛並みはどこにも見当たらない。
     靴が泥だらけになっても構わない。
     服がほつれたって構うものか。
     草薮、路地裏、用水路……可能性のあるところなら、どこにでも行った。
     しかし、駄目だった。
     餌で釣る作戦も、鳴き真似作戦も、まったくの無意味だった。
     俺は途方に暮れながら、いつもの公園へと帰る。
     そこでポチがぐでっと伸びていることを期待して。
     だがやはり、そこにポチの姿はなかった。
     そしてまた、彼女の姿も。
     ポチを探し始めてから、彼女を一度も見かけなかった。
     彼女はポチが心配ではないのか。
     そう考えていると、むしゃくしゃとした苛立ちがこみ上げ、

    「くそっ……」

     ブランコに八つ当たりをして帰った。

    48: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:22:26 ID:mri
     ポチを探し始めてから4日目。

    「え?」

     朝の公園に、彼女の姿があった。
     そしてその腕に抱えられているのは、紛れもなくポチだった。

    49: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:24:29 ID:mri
     一瞬、嫌な予感に苛まれるも、のんきにアクビをしている様子から、その無事を確信する。
     見たところ怪我も無さそうだ。
     俺はほっと胸をなで下ろした。
     そして同時に疑問と苛立ちがこみ上げてきた。

    「お前今までどこ行ってたんだよ! 俺は今まで散々そいつを探し回ってたっていうのに!」

    50: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:26:07 ID:mri
     怒りをあらわにして詰め寄るも、彼女はどこ吹く風とでも言うように、

    「詮索や深入りはしないという約束だったろう」

     そう返してきた。

    「そういう問題じゃ……まぁいい。ポチをどこで見つけたんだ?」

    「公園の近くで毛づくろいをしていたところをさっき保護した」

    「俺は何度もここに来たんだぞ。こんな近くにいて気づかないわけないだろ」

    「そんなこと言われても私は知らん。実際そこにいたのだ」

     彼女の態度はやはり変わらない。
     暖簾に腕押しの押し問答。
     その無意味さに辟易して、俺は声のトーンを抑えた。

    「まぁ、ポチが無事でよかったよ。それじゃあ今日からまた……」

     ポチのストーキングをしようか。
     そう言いかけたところで、彼女が言った。

    「なぁ、もうやめにしないか?」

    51: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:28:05 ID:mri
     冷めた声音に一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

    「やめるって、何をだよ」

    「閻魔様の監視だよ」

    「どうして突然そんなこと……」

    「飽きたからだ」

     はっきりと告げられ、俺はまたぽかんとする。

    「は?」

    「飽きたんだ。だからもうやめにしないか?」

    52: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:30:04 ID:mri
     彼女は真顔で繰り返す。
     飽きたからやめると。
     その言葉を聞き、ふつふつと溜まっていた怒りが爆発した。

    「突然何言い出すんだよ! そもそも協力して尾行しようなんて言い出したのはそっちじゃないか!」

    「ああ、そのとおりだ。それなのにすまないとは思って……」

    「すまないじゃねえよ! お前は大悪魔なんだろう? 閻魔様ほっといていいのかよ!?」

    「別にいいだろう。閻魔様がちょっとやそっとのことで死んだりしない」

    「じゃあそもそもどうして尾行なんてしてたんだよ! 最初からほっときゃいいじゃねえか!」

     俺はもはや何に対して怒りを感じているのか自分でもよくわからなかった。
     たかが野良猫一匹をストーキングすることにどうして俺はここまで熱くなっているのだろう。
     自分でもバカバカしいとは思う。
     けれど、なぜか怒りが収まらなかった。
     そんな俺に対して、彼女はぽつりと告げた。

    「無意味なんだ。こんなことに最初から意味なんてないんだ」

    53: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:32:38 ID:mri
     それを聞いたとき、俺ははっきりと理解してしまった。
     俺は彼女を理解することができないのだと。

    「……そうだな。確かにもっと有意義なことに時間を使うべきだ。こんなこと、もうやめようか」

    「ああ」

     彼女は抱えていたポチ……黒い野良猫を地面に下ろす。
     野良猫はてくてくと離れていき、ブランコに飛び乗るとそこで丸くなった。
     それを見届けると、俺はそれ以上何も言わず、一人アパートへと帰った。
     頬にあたる涼やかな風に夏の終わりを感じた。

    54: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:39:40 ID:mri
    『……いやぁ、すごいですねぇ。見事な演技でしたね。さすが若手の期待の星と呼ばれるだけあります』

    『まったくです。16歳と聞きましたが、私が16歳のころなんて……』

     猫のストーキングをやめてから、俺は一人部屋に引きこもり、ぼうっとテレビを眺め続けていた。
     そこでは若いアスリートの活躍や、いじめによる自殺など、遠い世界のことが延々と垂れ流されている。
     俺は暗い部屋の中、ただひたすらにコメンテーターの声を耳に流し込み、文字を視線で撫でていた。

    55: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:43:51 ID:mri
     俺は今まで一体何をしていたのだろう。
     猫を追い回し、無意味な時間を過ごし、そこになんの意味があったのだろう。
     考えても答えは出なかった。
     床に体を投げ出して、天井を見上げる。
     真っ白な天井にはシミひとつなく、じっと見つめているとそこに吸い込まれていってしまいそうな不気味さを感じた。
     いっそこのまま何も考えず何もせず、朽ち果ててしまったら楽なのだろうか。
     そんなくだらないことを考えていたときのことだ。
     ピロリロリロ。
     突然鳴り響く着信音に俺はびくっと肩を震わせた。

    56: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:48:04 ID:mri
     机の上で、長らく放置されていたスマートフォンが震えている。
     しばらくして鳴り止んでから、俺は着信履歴を確認した。
     そこには地元の旧友の名前が表示されていた。
     ため息をついて置こうとすると、再び着信音が鳴り出す。
     またびくっと肩を震わせながらも、辛うじて取り落とさずにスマートフォンを持ち直すと、俺は覚悟を決めて電話に出た。

    「も、もしもし」

    『あ、やっと繋がった。すまん。忙しかったか?』

    「いや、大丈夫」

    『そうか。よかった。いやあ、お前の声を聞くのも久しぶりだな。元気してたか? ちょっと連絡したいことがあって、メールより手っ取り早いから電話かけたんだ。実は今度、同窓会を開こうって話になってな……』

    57: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:50:27 ID:mri
     電話の要件は同窓会についてだった。
     なんでも小学校のとき世話になった担任が還暦を迎えるとかで、急遽同窓会を開こうという話になったらしい。まだ詳細は決まっておらず、追って連絡するとのこと。
     それから少しだけ互いの近況や昔の話をして、そろそろ電話を切ろうかというとき、

    『あ、そうそう、知ってるか? 小沢のやつ今度結婚するんだってよ』

     彼はそう口にした。

    「……そ、そうなのか。それは初耳だ」

    『まったくびっくりだよな。俺らなんてまだ大学生だってのに、なんか先越された感じ』

    「はは。そうだな。まぁでも焦ることもないんじゃないか」

    『いやいや、年とると時間の感覚ってどんどん早くなるらしいぜ。お前も気をつけないと、気づいたらおじいちゃんになってるかもよ』

    「怖いこと言うなよ。お前こそ気をつけろよ。昔から後先考えないんだから……」

    『あはははは。まったくだ。ま、お互いがんばろうぜ』

    「おう。それじゃあな」

    58: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:54:11 ID:mri
     通話を切ったあと、俺はしばらく画面をぼんやり眺めたまま、立ち尽くしていた。
     結婚。
     知っている人の話なのに、それはどこか遠い世界の話のようだった。
     本当に俺は一体何をやっているのだろうな。
     テレビに振り返ると、画面上では相変わらず、若手アスリートの活躍を褒め称えていた。

    「……くそったれ」

     空のペットボトルを蹴っ飛ばし、俺は部屋を出た。

    59: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:56:09 ID:mri
     外はすっかり秋模様になっていた。
     木枯らしの風に、赤く色づいた落ち葉が舞っている。
     上着も羽織らずに出てきたことを後悔しつつ、近所のスーパーへと向かう。
     遠くでカラスが鳴いている。
     そろそろ惣菜が半額になる頃合いだ。
     入店し、惣菜コーナーに目を向けると、そこには主婦がたむろしていた。声がやたらとバカでかい、噂好きのご近所さんたちだ。
     きっと彼女らも半額シールが貼られるのを待っているのだろう。
     そこに割り入る勇気もないので、適当に店内をぶらぶら見ていようと背を向ける。
     しかしそのとき、ふと彼女らの会話が耳に入って立ち止まった。

    「ねぇ、木舟さんとこの娘さん、またほっつき歩いて変なことしてるらしいわよ」

    「ああ、あの娘……ほっときなさいよ。どうせまた猫でも追っかけてるんでしょ」

     猫を追っかけている。
     それがあいつのことだとすぐにわかった。

    60: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)01:58:30 ID:mri
     慌てて俺は商品棚の裏に回り込んだ。ここからなら、会話をはっきり聞き取れる。
     どうしてそんなことをしているのか自分でもよくわからなかったが、つい気になってしまったのだ。

    「相変わらず変なこと口走ってるらしいじゃないの。仕事もせず、ただぶらぶらと」

    「あんな変な娘に関わらないほうがいいわよ。どうせ大したこともしないんだし」

     主婦たちの口ぶりはまるで汚いものの話をするかのようで、それがなぜか俺の胸をざわつかせた。

    「小さい頃は普通の娘だったんだけどねぇ。やっぱりあれが原因なのよね」

    「原因っていうほど大したことじゃないわよ。ただ受験から逃げて家出しただけでしょ。結局親がしっかりしてないからいけないのよ」

    「そうよねぇ。あの娘もかわいそうだわ。やっぱり片親なんて……」

    「ねぇ。まったくよ」

     家出。片親。
     どれも初めて知った話だった。
     思えば彼女のことを何も知らなかったのだということに、その時ようやく思い至った。
     主婦たちの言っていることは別に間違ってはいないだろう。ある程度の歳の人間が定職にもつかずふらふらとしていたら、世間から白い目で見られて当然だ。
     そう、それは仕方ないことだ。
     けれど、なぜだか彼女らの話は、ひどく不快だった。
     あの女に代わって憤りを感じるほど、俺は彼女と親しくもないはずだ。
     けれど、俺の中には不快感がぐるぐると渦巻いていた。

    「くそったれ」

     俺はスーパーを飛び出して駆け出した。

    61: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:00:44 ID:mri
     胸のうちに渦巻いていたのは、ただどうしようもなくむしゃくしゃした苛立ち。
     胸の奥がむずむずして、ただ気持ち悪かった。

    「久しぶり。また来たのか」

     彼女は相変わらず、いつもの公園にいた。
     手にはスコップを持ち、砂場を掘り返している最中のようだった。
     きっとこれも彼女の言う『大いなる反逆』のひとつなのだろう。

    「有意義なことに時間を使うんじゃなかったのか? どうしてこんなところにいる」

     彼女は皮肉げに言葉を投げかけてくる。
     俺は彼女の質問には答えず、黙って彼女の近くまで行くと、砂場に落ちていたスコップを拾い上げる。

    「おい、一体何を……」

     戸惑う彼女の顔を見ながら、俺は決心した。

    「なあ、俺にも大いなる反逆を手伝わせてくれよ」

    62: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:02:34 ID:mri
     それからは毎日、大いなる反逆に明け暮れた。
     お寺の階段をひたすら上り下りしたり、墓地に忍び込み知らない人の墓掃除をしたり、ただ一日中じっと蟻を眺め続けたりした。
     本当にただ無意味なことをひたすらやった。
     はじめは戸惑っていた彼女も、俺が全力でバカなことをやるうちに、時折笑顔を見せるようになった。
     それがなんだか楽しくて、悩んでいたいろいろが全てどうでも良いようなことに思えた。
     まるで小学生の頃に帰ったような気分で、無意味なことをし続けた。

    63: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:04:10 ID:mri
    「お前の言っていた意味がなんとなくわかってきたような気がする」

    「何の話だ」

    「ほら、無意味であることに意味があるとかいう」

    「ああ、その話か」

    「お前はこうして無意味なことに時間を浪費することで、人生に意味を見出さなければならないっていう価値観に反抗してるんじゃないか?」

    「……さあね」

    「たった一度の人生だ。どんな風に生きたって自分の自由だって、そういうことなんだろう? うん、きっとそうだ」

    「手が止まっているよ。集中したまえ」

    64: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:06:40 ID:mri
     それからしばらくしたある日の夜。自室に帰ると、着信があった。
     窓を少し開けて最近涼しくなってきた夜風を感じながら電話に出る。

    『……なぁ、お前最近なにかあったのか?』

     電話越しに尋ねてくる声は少し戸惑っているようだった。

    「なんだよ。どうしてそんなこと聞くんだ?」

    『いや、なんか前より随分声が明るくなったなと思ってさ』

    「まぁ、最近はいろいろ楽しいからな」

    『お前あれか。もしかして彼女でもできたのか?』

    「ちげーよ。そんなわけないだろ」

    『あはは。そんな隠すこともないだろ?』

    「だから違うって」

    『ま、いいや。お前が楽しそうならそれで。同窓会の詳細はさっき伝えた通りだから、ちゃんと予定空けとけよ』

    「おう。お前こそ忘れんなよ」

    『幹事が忘れるかバカ。じゃあな』

    65: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:09:13 ID:mri
     街路樹が葉を落とし、金木犀の香りが香しくなってきた頃。
     俺はいつもと同じようにアパートを出た。
     吹きすさぶ乾いた風は、一段と冷たさを増し、頬や指先に痛みを感じながら、公園へと向かう。
     今日は何をしようか。
     自然と浮足立つのを抑えながら、公園手前の角を曲がると、そこにいたのは彼女ではなかった。
     閑散とした公園のベンチにはぽつんと一人の女性が座っていた。
     四十代か五十代くらいの痩せこけた女性。
     その人はこちらに気がつくと、ペコリと一礼して立ち上がる。
     そして俺の前まで歩いてくると、

    「はじめまして。木船と申します。あなたが、最近ミウと遊んでくださっている方ですか?」

     少し硬い表情を浮かべながら、そう告げてきたのだった。

    66: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:11:12 ID:mri
    「あ、はじめまして。あの、はい、そうです」

    「やっぱりそうですか。いつも娘がご迷惑をおかけしてすみません」

    「い、いえいえ。迷惑だなんて、そんな……」

     木舟という名前を聞いて、すぐにピンときた。
     この人はあいつの母親らしい。
     そしてあいつはミウという名前なのだと、このとき初めて知った。

    「ここで立ち話もなんですから、あちらに座ってお話でもどうでしょうか」

     そう言って木舟さんが指さしたのは、雨の日にあいつと雨宿りをしたあの東屋だった。

    67: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:13:48 ID:mri
    「今日は、その、ミウさんは……」

    「ミウは来ませんよ。あの娘は今日、病院に行ってますから」

    「病院? どこか悪いんですか?」

    「いえ、身体に別段異常はないんですが……まぁ、あなたならわかりますよね」

     そう言って、木舟さんはどこか遠くを見つめる。

    「ミウの妄想癖がひどくなりだしたのは、今から6年ほど前のことです。
     それまでは、私が言うのもなんですが、よくできた娘でした。
     あの娘は幼い頃に父を亡くしています。
     私も仕事であまり構ってあげることができず、随分寂しい思いをさせてしまったと思います。
     それでも、『お母さんは忙しいから私も手伝うよ』って、家事を一生懸命手伝ってくれて……とても優しい子でした」

     彼女の語るあいつは、俺の知らない人のようだった。

    68: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:17:34 ID:mri
    「その優しさに、私は甘えていたのでしょうね。
     ミウはだんだんと笑顔を見せない、寡黙な子になっていきました。
     後で知った話ですが、学校でいろいろ問題を抱えていたらしく、それでもそんなことおくびにも出しませんでした。
     中学校に上がり、環境が変わり、それでもミウを取り巻く問題は解決しなかった。
     卒業を目前に控え、受験のストレスなんかもあったのでしょう。
     ついにあの娘は耐えられなくなってしまった」

    「……家出ですか?」

    「ご存知でしたか。ええ。そうです。
     ミウは前触れもなくふらりと家を出ました。
     そして、1ヶ月の間、帰ってきませんでした。
     警察にも取り合ってもらえず、私は一人で街中を探しましたが、あの娘がどうして出ていったのかも、どこへ向かったのかも、情けないことに私にはさっぱり見当もつかなかったのです。
     結局、私には見つけられませんでした。
     ある日、ミウは出て行ったときと同じように、ふらりと帰ってきました。
     その頃には私も学校で起きていたことを知っていましたから、私はミウにひたすら謝りました。
     けれど、ミウはそんな私を見て言ったのです。『私は大悪魔の化身の末裔だ。お前など知らない』と」

    69: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:19:06 ID:mri
     その話を聞いて、俺はなんと答えるべきかわからなかった。

    「……どうして、それを俺に」

    「最近、珍しくミウが私に話してくれたんです。『閻魔様を監視するライバルが現れた』だとか『大いなる反逆に協力する下僕を見つけた』だとか」

    「だれが下僕だ」

     そう言うと、木舟さんはくすりと笑った。

    「最近、あなたのおかげでミウはとても楽しそうにしていましたから、あなたには知っておいてもらいたかったのです。
     他の人があの娘のことをどう言おうと、あなただけはきちんとあの娘のことを見てくれていたみたいですから」

    70: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:21:10 ID:mri
    「あなたはミウさんや俺のことを叱らないのですか?」

    「これがミウのためにならないのはわかっています。けれど、こうして自由にさせてあげることが、私のせめてもの罪滅ぼしだと思っています。それに、あの娘の遊びに付き合ってくれていたあなたに、感謝こそすれど、文句を言う筋合いなんてありませんよ」

    「そう、ですか」

    「私やミウが近所でいろいろ言われているのは知っています。けれどそんなことは些細な問題です。私はあの娘が笑顔でいられることが何より大切なんです」

     そう言って木舟さんは柔らかく微笑んだ。
     それから、彼女は表情を引き締めると、まっすぐ目を見つめてきた。

    「ひとつだけ、あなたにお願いがあります」

    「なんでしょう。俺にできることであればなんでもおっしゃってください」

    「もうあの娘に関わらないでくれませんか?」

    71: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:24:33 ID:mri
    「え?」

     まるで時間が止まったかのように感じた。
     一体何を言っているのだろうと、脳が理解を拒絶する。
     ちょっとした冗談だろうか。
     しかし、木舟さんの表情は真剣そのものだった。

    「もう、これ以上ミウに関わらないでください」

     そう繰り返して頭を下げる。

    「え? い、いや、だってさっき……」

    「今まで、ミウの遊びに付き合ってくださっていたことは感謝しています。しかし、もうこれ以上は関わらないでいてください」

    「どうして!?」

    「以前、ミウがうちに黒い野良猫を連れてきました。あの娘が『閻魔様』と名付けている猫です」

    72: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:27:12 ID:mri
    「それって……」

     大雨が降った次の日、ポチは3日の間失踪していた。
     そのとき、俺は街中を探し回ったが、結局見つけることができなかった。

    「3日間、あの娘は猫を部屋から出しませんでした。
     理由を尋ねると、あの娘はこう答えました。
     『ライバルが閻魔様に魅了されている。このままではあいつまで悪魔の世界に引きずり込むことになってしまう』
     ……あの娘らしい遠回しで分かりづらい言い方でしたけど、ひとつだけはっきりしているのは、あの娘なりにあなたのことを心配していたということです」

     そうか。
     俺はようやく気がついた。
     雨の日、俺はあいつに悩みを打ち明けた。あいつはそれを聞いて、回りくどい言い回しで俺を慰めてくれた。けれど、俺はそれを聞こうとしなかった。
     あいつは、俺が自分と同じような状況になってしまうこと――俺がこのままニートになってしまうことが心配になり、俺からポチを引き離した。
     けれど、俺はそれでもポチに執着した。
     だからあいつは『もうこんなことやめよう』と……。

    「ミウはきっとわかっています。
     今の自分が置かれている状況も、周りから自分がどう見られているのかも。
     だからこそ、あなたに同じようになってほしくないと、そう思っているのだと思います。
     あの娘はあなたと一緒にいるのが本当に楽しそうです。
     けれどこのままでは、そのうちあの娘はきっと後悔します。そしてあなたも」

    「でも……」

    「お願いですから、どうか、大切なものを見失わないでください」

     木船さんは涙を堪えるようにきゅっと口元を噛みしめながらそう言った。
     それはまぎれもなく母親の顔だった。
     俺は自分の浅はかさが嫌になった。

    73: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:29:10 ID:mri
     翌日、研究室から呼び出しを食らった。
     出席のことだろう。
     大学へ出向くと、冷めた目をした教授から案の定、

    「出席が足りないからこのままでは単位を出せないよ」

     と告げられた。

    「このままでは留年になるよ、どうするの」

     と言われるも、正直なところ俺は上の空だった。
     今までずっと怠惰に過ごしてきた俺が今更頑張ってどうなるというのだろう。
     打っても響かない俺に興味を失ったのだろう。

    「一応追加レポートを書けば考えてやらないこともないけど、ま、君には関係なさそうだね。好きにするといいよ」

     そう言って、さじを投げられた。

    74: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:31:57 ID:mri
     昨日から一段と冷たくなった風に身を晒しながら、大学の坂を降りていく。
     ふと目についた空き缶を蹴っ飛ばすと、中からカメムシが飛び出してきた。
     それを呆然と眺めながら、ああ、こんな空き缶でもカメムシの寝床になれるのだから、俺なんかよりよっぽど役に立っているんだな、なんて思う。
     俺は一体なんのために生きているのだろう。

    ――生きるのになんの意味が必要なんだ。

     ふと、雨の日に言われたことを思い出す。
     必要だよ。
     人の価値ってそこで決まるんだろ。

    ――決して卑下するな。俯くな。自分を低く貶めるな。

     無理だよ。
     俺はどうしようもないクズなんだ。

    ――私は君より遥かに馬鹿で糞ったれでどうしようもなくくだらない。

     そんなことねえよ。
     お前は人を気遣えるだけの優しさがあるじゃないか。
     それに比べて俺は……。

    「ちくしょう! ちくしょう! こんちくしょう!」

     どうにもならない虚しさを抱えたまま、俺はひた走った。

    75: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:34:14 ID:mri
     どのくらい走ったのだろうか。
     息が上がり、頭の中が空っぽになるまで走った。
     気がつけばいつもの公園の近くに来ていた。
     ふと前方を見ると、あいつ――ミウが道路の隅にかがみこんでいる。
     よく見てみると、ミウの陰で黒いしっぽが揺れている。
     どうやらポチと遊んでいるようだ。
     昨日の話を思い出し、俺はすぐにその場を去ろうとしたのだが、ポチが俺の存在に気づいてしまったらしい。
     ポチが小さく鳴き、振り返ったミウと俺は目が合った。

    76: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:35:08 ID:mri
    「君か。なんだ、声を掛けてくれたらよかったのに」

    「あ、ああ。すまん」

    「それより昨日はすまなかったな。ちょっと用事があって、大いなる反逆に割く時間がなかった」

    「そうか。その、あれだ、別にいいよ」

     どうしても目が合わせられない俺の様子を不審に思ったのだろう。
     ミウは首を傾げて尋ねてくる。

    「どうかしたか?」

    「いや、べ、別にどうも……」

     思わず狼狽えるのを見て、何か察したのかもしれない。
     ミウはくるりと背を向けると、例の東屋を指差した。

    「なぁ、少し座って話していかないか?」

     それを上手に断れるほど、俺は演技がうまくなかった。

    77: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:37:09 ID:mri
     東屋は相変わらずボロっちい。
     軋むベンチを軽く払って腰を下ろすと、ミウは対面に座った。

    「それで……何かあったのか?」

     ミウは単刀直入に聞いてくる。
     俺はごまかすべきかどうか迷ったが、どうせいずれはバレるだろうと思い、正直に話すことにした。

    「昨日、お前のお母さんに会ったよ」

     すると、ミウは少しだけ目を見開き、

    「……何か言っていたか?」

     そう尋ねてきた。

    「ごめん、全部聞いたよ。6年前のことも、最近のことも。ポチが失踪したとき、どこにいたのかも」

    「幻滅したか?」

    「いや、お前にもいろいろあったんだろ? それにポチの件に関しては、俺を心配してのことだったんだろ? お前のお母さんがそう言ってたよ」

    「……悪魔の世界は厳しい。自ら堕ちるようなところではない」

    「それから、お前にはもう関わらないでくれと言われた」

    「……」

    「このまま一緒にいると、俺もお前も後悔することになる。だからもう関わらない方がいいって」

    「……そうか」

    78: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:39:40 ID:mri
     ミウは安堵したような、けれどどこか寂しそうな笑みを浮かべた。
     その表情を見て、俺は迷う。
     このままミウと一緒にくだらないことをしていたほうが、何も考えずに済む。
     単位が足りないとか留年するかもしれないとか、そういうことで悩む必要もなくなる。
     けれど、ミウの母親が言っていたように、俺も彼女も、そのうち後悔することになるんだろう。
     特に彼女は、俺を自分と同じような状況に引きずり込んでしまったことを強く悔やむのだろう。
     だったら……。

    79: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:41:20 ID:mri
     しかし、そこまで考えて、ハタと思い直す。
     いや、違うだろう。彼女がどうこうじゃない。俺がどうすべきかだろう。
     逃げて逃げて逃げ続けて、そうしてこの歳まで生きてきた。
     そんな俺は逃げる以外の選択肢を知らない。
     いつも言い訳をして逃げてきたから、どう立ち上がっていいかもわからない。
     ようするに、俺は怖いんだ。
     このままずるずると逃げ続けて後でしっぺ返しを食らうのも、いまさら立ち上がって現実に打ちのめされるのも。
     だからこうして悩んだふりをして、解決を先延ばしにして……。

    「逃げるのも立ち向かうのも、君次第だよ」

     俺はドキッとして顔を上げた。

    80: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:43:32 ID:mri
     ミウはまっすぐ俺の目を見つめて言う。

    「私は大層なことを言える立場じゃないけどね。
     逃げるのも立ち向かうのも、君の選択だ。
     逃げることは決して褒められたことではない。
     けれど、あらゆる問題に正面から立ち向かえるほど強い存在であり続けるには、大変な労力が要る。
     だから私は逃げてもいいと思う。逃避は褒められたことではないけども、仕方ない。
     逃げて逃げて、どうにかこうにか息の詰まらない場所を探して、そこがもし汚泥の底だったとしても、そこに行き着いてしまうことだってあるだろう。
     上流から見てそれを嘲笑うのは簡単だけど、タニシの気持ちというのはタニシにしか理解し得ないものだ。
     その人にとって快適な場所がそこなら、きっとそれで良い。
     たとえ月がきれいに映らなくとも」

    81: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:45:04 ID:mri
     ミウは一度言葉を区切って続ける。

    「けれど、だからこそ、立ち上がる覚悟ができ、現実に立ち向かえる人を、私はすごいと思う。
     私はこんなくだらない人間だけど、なにか問題に直面したとき、逃げずに立ち向かう人を尊敬する。
     そういった人たちに私は生かされているんだと、それを忘れないようにしている。
     私もいつか現実に立ち向かわなければいけないのだろう。
     そこから目をそらし今は先延ばしにしているが、いつかしっぺ返しを食らうのではないかと怯えて生きているんだ。
     バカみたいだろ。
     もし君に立ち上がる覚悟ができたなら、その意志を君は尊重すべきだと思う。
     ただのニートが何を偉そうに語っているんだって話だが」

    82: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:47:06 ID:mri
     ミウはもう一度、一呼吸入れると、微笑みながらこう言ってきた。

    「もし君が辛くて逃げたくなったら、いつでも逃げればいい。そして、もし閻魔大王様の下僕となる決意をしたなら、いつでも私のもとへと来るがいい。悪魔は寛大なのだ」

    83: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:49:05 ID:mri
     舞い散る桜の花びらを横目に、俺は駅前の道を歩く。
     初々しい新入生らしき人たちが緊張した面持ちで大学へと向かっている。
     入学式から一月も経っていないから、まだ慣れないのだろう。
     なつかしいな、なんて思いながら交差点を過ぎたあたりで、背中をとんと叩かれた。

    「よっ後輩。パン買ってきてくれよ」

     そこに立っていたのは高岸だった。

    「勘弁してくださいよ先輩」

    「あっはっは。冗談だよ」

     もう何度目になるかわからないやり取りだが、このネタでもうしばらくはからかわれそうだ。 
     俺はげんなりした気分で苦笑を返す。
     高岸はその反応がおかしくてたまらないのだろう。ニヤついた笑みを浮かべている。

    84: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:51:11 ID:mri
     あのあと、俺はすぐに追加レポートに取り掛かった。
     2日徹夜してすべてのレポートを書き上げ、取っていた授業の教授に片端から土下座して回った。
     結果、8人中6人の教授からは単位をもらえたが、2人の教授にばっさりと切って捨てられた。
     当然の結果だ。
     そして俺は留年することになったのだった。

    85: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:53:06 ID:mri
    「そういや、同窓会はどうだったんだよ。こないだ地元帰って行ってきたんだろ?」

    「お前と同じような反応だよ。朝までひたすら笑われた」

    「あっはっはっはっは。そりゃ災難だったな。うまくいきゃ久々に会ったギャップで誰かと懇ろになれてたかも知れなかったのに」

    「ま、自業自得だ」

    「やけに殊勝じゃねえか。どうせ親にこっ酷く怒られたんだろ」

    「そっちの方がまだマシだったかな。泣かれたよ」

    「うわぁ……」

    86: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:55:22 ID:mri
     大学の知り合いからは白い目で見られ、同窓会ではからかわれ、親に泣かれる。
     今までしてきた積み重ねの結果がこれだ。
     いままで自分がどれだけくだらないことをしていたのか、嫌というほど思い知らされた。
     けれど、俺はそれで良かったのだと思っている。
     あんなくだらない時間を過ごしていたからこそ、真面目に生きることの大変さ、大切さを知ることができたのだと。親にそんなことを言えばさすがに殴られそうだが。
     それに、と道路を挟んだ向かいに目をやる。

    「あのバイト、また堂々とサボってやがらぁ。ふてぇ野郎だぜ」

     ヘルメットをかぶったままのピザ配達員が、電柱の近くにかがみ込み、黒猫を追いかけていた。

    87: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:57:03 ID:mri
     高岸はそれに目を向けたまま続ける。

    「でもああいうの見てると、なんか安心するよなぁ」

     まったくだ、と相づちを打ちながら、俺は大学へと歩き出す。
     彼女は今日も今日とて猫をストーキングしている。
     だから俺は、それを横目に前へ進むことにした。

    88: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)02:57:47 ID:mri
    おわりです。
    もし読んでくださった方がいたらここにお礼申し上げます。
    長々と読んでくださってありがとうございました。

    89: 名無しさん@おーぷん 19/08/03(土)03:00:39 ID:mri
    たまに小説書いてます
    もしお好きならどうぞ
    http://dustybook.webcrow.jp/
    ※同じ作者のスレです

    みんな蛾になった話
    http://world-fusigi.net/archives/9239491.html













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    コメント一覧

    1  不思議な名無しさん :2019年08月22日 22:36 ID:q6IrKZvf0*
    ラストがなぁ。。
    2  不思議な名無しさん :2019年08月22日 23:02 ID:z8isNvUY0*
    >>1
    それ ラストがあっけなさすぎた
    3  不思議な名無しさん :2019年08月23日 01:08 ID:EtnCCzAw0*
    いいよ、すごく
    4  不思議な名無しさん :2019年08月23日 01:19 ID:NgA7X09C0*
    素直にすこ。
    また読みたいから作者さん頑張ってクレメンス
    5  不思議な名無しさん :2019年08月23日 01:19 ID:HxL.zy2.0*
    そのクソな文を全て消して猫画像を張れ
    そっちの方がみんな見る
    6  不思議な名無しさん :2019年08月23日 02:22 ID:tqL4NNm.0*
    素直にいい雰囲気の話だった。
    7  不思議な名無しさん :2019年08月23日 07:31 ID:aczX4ZGw0*
    クッサ
    8  不思議な名無しさん :2019年08月23日 07:47 ID:0TgyUPFu0*
    無臭の人間なんぞ
    何の面白味もない、臭いからこそ記憶に残る
    って誰かが言ってた
    9  不思議な名無しさん :2019年08月23日 08:50 ID:Rmdfm.Tq0*
    面白かったけどラストがあっさりすぎな感があるかも
    雰囲気は好きなのでまた読みたいわ
    10  不思議な名無しさん :2019年08月23日 10:21 ID:oG6p3mff0*
    自身の幸福より世間様からの評価を気にして自分をないがしろにしてるウチの親に読ませたいわ
    11  不思議な名無しさん :2019年08月23日 13:45 ID:iaChK7EH0*
    ニートの娘を抱えてる身としては何か染みたわ
    私も猫をひたすら眺める日々を送りたい
    12  不思議な名無しさん :2019年08月23日 15:43 ID:9tGRJaBU0*
    画像ないのか、だまされた
    13  不思議な名無しさん :2019年08月23日 18:58 ID:LCwOFz2z0*
    好き じんわり来た
    14  不思議な名無しさん :2019年08月23日 19:08 ID:2Sb8h.AF0*
    猫見てるほうがいいわ
    15  不思議な名無しさん :2019年08月24日 17:51 ID:hf8U41Qw0*
    6年前に起きたことの内容が希薄かな‥そこからもう一つ展開があればもっと深く掘り下げることも深い絆も生まれたかもしれん
    まあとはたまにまともな事言い過ぎやな
    16  不思議な名無しさん :2019年08月26日 08:50 ID:.2pGeE8Z0*
    逃げに逃げて後悔先に立たずな人生の中盤を過ぎたワイから見ると、ほんとに若いうちに気付くことと立ち向かうことは大事だぞと共感する。ある程度の年齢になると金もなくろくな職歴も資格もなくで、底辺だから低所得にしかなれないって諦めでまた低所得なのに税金やらもってかれて一人で生活できねーなって結局希望も生きがいも感じない無味乾燥な日々に妄想すらしなくなるからな。

     
     
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